遊戯 3
今、ザウルに手を引かれて来たホールの中央辺りで、セリアは必死に足元に集中していた。聖花祭の際に特訓したのだから、多少はまともになっているだろう、と安易に考えた数分前の自分を恨む。若干テンポの速い曲に合わせながら、隣の人間の足を踏みやしないだろうかが気になり、知らず知らずの内に肩に力が入ってしまう。
とは言っても、以前のセリアからは考えられないほどの進歩であった。ザウルの動きに多少なりとも合わせながら、それでも懸命にステップを踏んでいる。その姿は、カレンに感動されてしまったほどだ。
周りに溶け込むかのように身を寄せ合う(かのように見えている)ザウルとセリアを、候補生達は釈然としない気持ちで眺めていた。心無しか視線もいつになく険しくなっているように見える。そんな彼等に、ルネが明るく声を掛けた。
「仕方ないんじゃない。今のところ、セリアと踊れるのはザウルだけなんだし」
微笑みを浮かべながら言ったルネの言葉に、候補生達は更に眉を顰めた。
そこが問題なのだ。実際にセリアと踊ることが出来る候補生、というより人間は、ザウルの他に居ない。自分達が手を取っても、さっさと転倒されてしまう。聖花祭での特訓で、セリアのダンスの腕は見られる程にまで上達したのだが、それは相手がザウルである時のみに限るのだ。だからこそ、セリアを誘うザウルの前に割って入って、自分がセリアの手を取る、ということが出来ないのであった。
その事実に、やはり不満を隠しきれない候補生達は、まだ踊り続けている二人にジッと視線を向けていた。
先程から妙に感じる視線が気になり、セリアは足元を意識しながらも気配のする方角を確認した。その先では、置き去りにする形で残してきてしまった友人達が、まだその場に留まっている。それどころか、何処か不機嫌そうな雰囲気を醸し出しているのだ。カールは常にあんな表情なので分かるが、ランやイアンにまで何故あれほど睨まれるのだろうか。ルネは相変わらずニコニコと微笑んでいるが。
もしや、その場に残して来てしまったことのが拙かっただろうか。けれど、彼等がそんなことを気にするとは思えない。では、自分は何か他に失敗をやらかしてしまったのだろうか。
「あの、ザウル」
「どうかしましたか?」
「その……皆は大丈夫かな?」
セリアに言われて、ザウルはチラリと後ろを見やる。目立つ上にこちらをジロジロと睨む友人達は、すぐに見つかった。視線が合ったと同時にお互いの間に小さな火花が散ったのだが、ここで引いては意味がない。
セリアはそんなことまったく気付くことなく、オロオロとしていたが。
「ザウル……わっ!!」
まだ候補生達に視線を向けたままだったセリアは、驚いて目の前の赤髪の青年に目を戻す。腰に回っていた手に急に力が加わり、その所為でグッと距離が縮まったのだ。突然のことに慌てて身体を離そうとするが、腕の力は思いの外強く、ビクともしない。どうしたのか、と驚いて見上げれば、穏やかな表情で微笑まれた。
「今は、自分のことだけを考えてください」
「は、はぁ……?」
言われた言葉の意味が解らず、セリアは首を傾げたが、ザウルはそれを気にすることなくステップを再開し始めた。それも、セリアの身体を引き寄せたまま。当然セリアも足を動かすことを余儀なくされる訳だが、お互いの身体がかなり密着しているため、セリアにしてみれば非常に動きづらい。腕に力を入れて再度距離を取ろうと試みるが、結果は同じであった。
「ザ、ザウル?」
「はい」
「あの、動きにくいというか……」
「では、以前のように足に負担が掛からない方法にしましょうか?」
ザウルが耳の傍で喋るものだから、吐息が首筋に掛かりくすぐったいのだがそんなことを気にする前にセリアは唖然とした。おおいに青ざめながら見上げれば、ザウルはそれにクスリと小さく笑いながら微笑み返す。そのいつもと違う様子に、セリアは言葉を失った。
な、何を言っているのだコイツは。この場で、あんな風に抱きかかえられるなんて冗談ではない。カレンに見つかれば何といわれるか解ったものではないではないか。それ以前に、公共の場でなんということをしようとするのだ。本当に目の前に居るのはザウルか?まさか、偽者では。
目の前で明らかに動揺しだすセリアは、混乱から思考があり得ない方へと向かいだす。その様子に、ザウルは再び小さく笑った。
普段は中々お目にかかれないセリアの姿に、頬を緩ませたのはランだけではない。その上、セリアが唯一手を取るのが自分だけだと思うだけで、胸が高潮するのだから。だからこそ、今だけでも、彼女の視界に映るのも自分だけであってほしい。なのに、セリアがまだ他の友人達を気にしていては、面白くない。
そんなザウルの内心をセリアが理解する筈もなく。まだ僅かな疑問を抱きながらも、今の体制からは抜けられそうにないなと結論を出すと、転倒だけはしないようにと懸命に足を動かしていた。
そんな候補生達の様子を、カレンはギルベルトの手を握りながら実に嬉しそうに眺めていた。予想外にことが面白い方向へ進んでいることに、喜びを隠せないようだ。
「そろそろかしら?」
もう待ちきれない、とばかりにカレンが呟けば、横のギルベルトはふっと息を吐いた。それを合図に、カレンはスルリとギルベルトの手を離れ、ホールの奥へと足を進める。
「君にしては、よく耐えた方じゃないかな」
疼く身体を押さえセリアを見守っていたカレンに、ギルベルトはやれやれともう一度溜め息を漏らす。それが聞こえたのか、一度カレンは振り返ると、実に上品で美しい笑顔を見せた。けれどその瞳が、貴族の令嬢に似合わぬ、悪戯好きの少年のような光を宿していたことは、ギルベルトしか知らない。
数曲踊り終わり、一休みするため候補生達の下へ戻ったセリアを、ルネが笑顔で迎えた。
「セリア。随分上達したね」
「うん。ありがとう」
確かに、昔と比べてそれほどの苦手意識は無くなったが、やはりそれはザウルが相手である時に限る。他の候補生達とでは、すぐに転んでしまう為、とてもダンスにはならないのだから。
そんなことをしんみりと考えていたセリアは、ふと音楽が鳴り止んだことに気づいた。候補生達は勿論、他の客も同じように、どうかしたのか、と辺りを見回している。そうしていると、フッと明かりが消された。そして、ホールの奥で幾つかのランプが灯る。その横では、淡く光るそれらの一つを手に取ったカレンが立っていた。
「皆様。実は私、今夜は少し楽しい遊びをしたいと思いましたの」
鈴が転がるような、可憐な中にも何処か静けさを宿した声に、周りの者達はほうっと感嘆の息を漏らした。ランプの光に横顔を照らされた微笑みは、何処か儚げに見える。最早、この場の視線は全てカレンに釘付け、と言ったところだろう。
「さあ、女性の方はランプをお取りになって。今、屋敷の明かりを全て消していますから、それを持ってお好きな所へ隠れて頂きたいの」
カレンの言葉と同時に、ランプが女性客達に配られる。当然それはセリアの元へも来るわけで、オロオロとしながらも受け取った。が、青ざめて行く表情は、これから何が起こるのだ、と不安な気持ちを隠しきれていない。
「男性の方は、あちらの大時計が時間を指したら、女性の持つランプの明かりを頼りに、探しに来てください。その先で、素敵な姫君をきっと見付けて下さいね」
笑顔で微笑まれれば、その場の誰もが肯いてしまう。反論の声は一切上がらなかった。
カレンが先頭に立つ女性客達は、暗い屋敷の中をランプ片手に男性が迎えに来るまで待つ、というなんとも雰囲気たっぷりの趣向に胸を躍らせる。けれど、セリアにしてみれば冗談ではない。慌ててカレンに近づいて行った。
「あ、姉様!いったい何を!?」
「あら。どうしたのセリア? 貴方も大好きだったかくれんぼですわよ」
さもあっけからんと言うカレンに、セリアも絶句する。だから、どうしてこの場でそんな遊びをしなければならないのだ。普段ならばなんの問題もないのだが、今は違う。屋敷中が明かりを消しているのだ。はっきり言ってしまえば、気味が悪いのである。つい先日、悪夢に魘されたセリアにとって、そんな中ランプの灯りだけを頼りにうろつき回るなど、苦痛以外のなんでもなかった。
けれど、そんなセリアの考えを読み取ったかのように、カレンがにっこりと微笑む。
「駄目よ、セリア。怖いからって逃げたら」
「ぐっ……」
ずばり図星を突かれ、セリアは押し黙った。しかも、逃げるのか、と言われてしまえば、セリアの足も自然と止まってしまう。
「ほら、セリアも行って」
笑顔のカレンに背中を押され、セリアは渋々ながらホールを後にした。こうなっては仕方ない。腹を括るしかないだろう。けれどどうしても納得がいかない。なぜ、こんな遊びをしようなどと思ったのだろうか。そんな疑問を抱きながら、セリアはノロノロと少しでも明るい場所を求めて歩き出した。
女性客達が去ったホールで、候補生達は唖然としていた。あの行動力や大胆さはセリアの従姉だと言われれば納得だが。
「諦めた方がいい」
呆然としている候補生達の後ろから、聞いたことのある声が響いた。振り返ればやはり、カレンの婚約者、ギルベルトが苦笑しながらそこに立っている。
「彼女は、面白いことがなによりも好きでしてね」
「……それは、どういう……?」
ランが訝しげに問えば、ギルベルトは答える代わりに笑みを返す。言われなくとも解っているだろう、という意味らしい。それを理解したランは、僅かに眉を寄せた。
確かに、カレンが自分達にさせようとしていることは解らなくもない。それを高みから見て面白がっているのだろうことも。けれど、なによりも面白くないのは、手のひらで踊らされていると解っていても、逆らえずにこの後セリアを探してしまうだろう自分だ。そして、カレンはそれさえも解っているのだから、尚更性質が悪い。健闘を、とだけ言い残し、自分達から離れて行くギルベルトを目で追う。
どうやら、時間まで明かりが完全に消されることはないらしく、ホールではまだぼんやりと幾つかのランプが灯っていた。
「セリア、大丈夫かな? 」
ルネが心配げに呟けば、他の者も同時に反応した。
確かに、今は多少神経質(?)になっているセリアだ。薄暗い中一人で放置するのは、やはり気掛かりである。
「早く見つけてあげないとね」
「……」
解っているのかいないのか、ルネのこの言葉は他の候補生達に火を付けることになった。
ー こ、こわい。
情けない、と自分で思いながらも、セリアはビクビクと震えていた。カレンの言い付け通り、隠れたはいいが、そのままどうしてよいか解らなくなったのだ。目の前では、持たされたランプの灯りが、ユラユラと不規則に揺れていて、余計に不気味さを増している。誰か人が来る気配も無いし、本当に、どうしたものか。
何故自分がこんな目に、などと誰に向けるでもない恨み言をブツブツと呟いていると、唐突に後ろから伸びた大きな手によって口を塞がれた。
何事だ!? と、あまりのことにセリアは咄嗟に悲鳴を上げるが、口を塞がれている為、くぐもった音しか出せない。同時に手足を動かし暴れようとするが、腕も後ろの影にがっちりと掴まれていて、まったく動けないのだ。
異常な事態から、必死に逃れようともがくが、殆ど効果がない。突然の事に混乱していると、自分を拘束している影が低い声で唸るように言った。
「大声を出すな」
空気が凍るような、今では聞き慣れてしまった声に、セリアもはっとして後ろを見やる。とそこには、明らかに不機嫌そうな雰囲気を醸し出しているカールが立っていた。
「っ!?」
思っても見なかった影の正体に、セリアは目を見開く。けれど、カールはそんなセリアの行動を予想していたのか、未だに拘束を解かないまま、不機嫌そうに眉を顰めた。
「大人しくしろ」
再び低い声で要求された内容に、セリアも慌てて首を縦に振る。なんにしろ、解放してもらうには、従うしかないだろう。というより、早く拘束を解いてほしい。口が塞がれたままの為、非常に息苦しいのだ。
セリアが頷いたのを確認すると、カールは漸く手を離した。それと同時にセリアは懸命に不足していた酸素を取り込む。
「カ、カール。なんでここに?」
「下らん遊戯に付き合う積もりはない。逃れられるよい機会だと思って来てみれば、やはり貴様か」
時間になって男共が屋敷の中を探索しだす中、誰も居ないだろうと思って向かった場所で、見つけた揺らめく灯り。近づいてみれば、案の定縮こまりながら肩を震わせる栗毛の後姿。
「大方、月明かりでも頼りにしてきたのだろう」
「うっ……その、屋敷の中は暗かったし」
現在、セリアが居るのは、侯爵邸が誇る広い庭の一角であり、備えてあるベンチに座っていたのである。
始めこそ、屋敷の中の何処かの部屋にでも隠れようかと思っていたのだ。けれど、屋敷は完全に明かりを消している為、かなり暗い。その上、女性客はセリア一人ではなく、他にもランプを片手に屋敷の中を動き回っている者も居る。そのお嬢様方が持つランプが、暗い中ぼうっと光るものだから、セリアも遂に耐え切れなくなり、辛うじてまだ月に照らされ明るさの残る外へ出てきてしまったのだ。本人はそれを認めないだろうが、逃げて来た、と言ってもよい。
隣で佇むカールに、次はどんな嫌味を言われるのだろうか、とセリアがビクビクしていると、意外なことにそれ以上の言葉は飛んでこなかった。変わりに、非常に気まずい沈黙が流れる。チラリとカールを見やれば、何かを考えているのか、それとも単に不機嫌なだけなのか。眉間には相変わらず皺が寄っていた。
「カールは、戻らないの?」
「騒々しいのは好まん。利点があるのならともかく、それ以外で意味の無い行事に参加する積もりはない」
そう言ったカールは、本気で面倒くさがっているようだ。そういえば、今日もルネに無理やりに近い形で半ば強制的に付き合わされていたのだったな。
とセリアが複雑な思いで納得していると、バサッと肩に何かが掛けられた。急なことにセリアは仰天する。驚いて確認すれば、どうやら上着らしい。けれど、空から上着が突然降ってくる筈がない。ということは……
チラリとカールを見やれば、相変わらず冷たい瞳で見下ろしてくる。訳が解らない、と疑問に思っていると、更に冷めた声が掛けられた。
「貴様は、その薄着でいつまでも屋外に出ている積もりだったのか?」
「で、でも、そんなに寒くないし」
確かに、外の空気は思ったよりも冷たく、多少肌寒いとは感じたが、我慢出来ない程ではない。この程度なら平気だろうと思っていたのだが。しかし、上着を取ってしまってはカールが寒いのでは、と返そうとすると、もの凄い形相で睨まれた。
「ならば、貴様が中へ戻れ」
「えっ!? そ、それは、ちょっと……」
屋敷の中では、窓から見える幾つかの明かりが、ぼんやりとだが揺らめいている。恐らく、まだ「かくれんぼ」は続いているのだろう。それで屋敷の中へ戻るなんて、冗談ではない。
懸命に首を振るセリアを、カールはまた鼻で笑った。それにまたセリアもムッとする。けれど、言い返す言葉が見つからない。なぜこうも相手の神経を逆なですることしか出来ないのだ、この男は。
グッと言葉に詰まっていると、自分の隣にカールが静かに腰を降ろした。どうやら、本当に暫くは戻る積もりもなく、ここに居座る気らしい。
しかし、自分はどうしようか。流石に、ずっとここに居る訳にもいかないだろう。かといって戻る気にもなれない。
うー、とセリアが訳の解らない呻き声を洩らしていると、再びあの冷ややかな視線が飛んで来た。
「貴様は、少しは静かに出来ないのか」
「うっ。ごめんなさい」
「フン……」
セリアが漸く黙ったことに満足したのか、長い足を組み直すと、カールはそのまま目を閉じてしまった。 色々と考え事をしたり、思索にふける時の彼の癖である。この状態のカールの邪魔をすれば、それはもう凄まじいまでの嫌味と毒舌が飛んでくるので、セリアは下手に動く事が出来なくなってしまった。
なんとなく気まずい空気に、セリアもどうしようかと戸惑う。けれど、まあ一人で居るよりも、カールが居てくれた方が遥かに安心できるな、と考え直し、セリアも上げかけた腰をもう一度ベンチに落ち着けた。
グシャリ!!と横で自分の手が何かを握り潰した音に、イアンは瞬時に我に返った。と同時に、手の平から伝わる鋭い痛みに気付く。けれど、痛みの原因を手放す事が出来ず、そのまま更に強く一輪の薔薇を握りしめた。薔薇を守るべく茎を覆っていた棘に破られた皮膚から、赤い雫が滴り落ち、白い薔薇を赤く染め上げて行く。
無惨に花弁を散らしながら、手酷く潰された白と赤の混じった薔薇に、イアンはゆっくりと視線を映した。そして、半ば呆然とそれを見詰める。
まただ。また、抑えられない感情が沸き上がった。
時間になり、自分の瞳が探したのは、やはり一人の少女。どうしても、誰よりも先に見つけ出したかった。屋敷の中を早足で進みながら、必死に耳をすまし、目を凝らす。そんな中、偶然窓から見えた庭の中にポツリと取り残されたかのように揺れた明かり。直ぐにセリアだと分かった。女の夜会着は何かと薄着の物が多いのだ。にも関わらず、室外を隠れ場所に選ぶなんて、あの少女の他に考えられない。
急いで向かったが、そこへ辿り着く前に足を止めた。そこに、思っていた人物と、もう一人が居たからだ。それを確認した瞬間、何故か足が固まり、ぴくりとも動かなくなった。
特に二人の間で何があったという訳でもないだろう。そんなこと考えずとも分かる。にも関わらず、ベンチに隣り合って座る二人を見た時、自分の視界は赤く染まっていった。身体中の血が逆流するような感覚を覚え、思わず自分が隠れた薔薇の垣根の一輪を握りしめていた。
けれど、何故そんなことになるのか、まったく理解出来ない。いや、理解したくないのか。
嫉妬と呼べる程度の感情なら、今までにも自覚はあった。本気で欲しいと思ったこともある。セリアを好いているのだから当然だろうと、それまでだったら言えたのだ。
けれど、今背筋を這い上がったものは、それらとはまるで比べ物にならない。何かが根本から違う。もっと屈折した、抗い様のない醜いものだ。感情と呼ぶ事すら戸惑われる。
傷ついた手は、血を失った筈なのに妙に熱い。手の平だけでなく、身体中が燃えているようだった。まるで、熱を持ち過ぎた炎が白むように、不気味な色の熱。その所為か、喉が異様に乾き、ひりつく。頭を振って逃れようとしても、更に泥沼に嵌っていくかのように、己を蝕む熱は深まるだけ。
嫉妬や苛立ちなどと呼べるような、そんな程度では済まされない。何故、これほどまでに腹の底が煮えくり返る? どうして、セリアに触れる者全てがこれほどまでに憎らしく見える? 面白くないと思ったり、戸惑ったりならまだ分かる。けれど、相手は自分の仲間であって、セリアにとっても友人だ。そんなことは納得済みだった筈ではないか。しかも相手は自覚が無に等しく、警戒心の欠片もないセリアだ。幾らなんでも憎悪を覚えるべきではない。いや、そもそも、こんな理由で他人に抱いていい種類の感情ではない。なのに、何故?
傷を負ったにも関わらず、更にキツク握り締めていた為だろうか。気づけば、自分が握っていた白薔薇は、その本来の色を殆ど残していなかった。掌から流れた赤が侵食し、所々に握られ痛んでしまった白が見えるのみ。
それを見たイアンは何を考えるでもなく、ごく自然な動きで僅かに残った白の部分に己の手を滑らせた。血がまだ滴る手に触れられた白は、いとも簡単にその色を変える。最後の白が消えるのを確認した瞳が一瞬揺れる。そして、そうか、と唇だけがその言葉を紡いだ。
フッとイアンは自嘲するように笑うと、赤く染まってしまった薔薇をもう一度強く握り締める。と同時に、新たに数枚の花弁が散った。
最初は興味だった。変わった考え方や行動が斬新な、今までに自分が見たことのなかったような少女。
次に気づいたのは、恋心だった。知れば知るほど分からない、放っておけない可愛い存在。
けれどそのどれもが、その程度だったのだ。自分で自覚出来る程度の感情でしかなかった。胸の内に潜んでいた、恐ろしいまでのモノに、気付きたくなかった自分が、一時の時間稼ぎにその感情の名を利用しただけ。
分かってしまえば簡単なものだ。醜くも芳しく、浅ましくも甘美で、自分ではどうしようもない。この薔薇のように、あれの全てを染め上げたい衝動に駆られる。
一度手の平を解けば、哀れにも痛々しげに潰れてしまった一輪の花。この花の様に潰してしまわないよう、自分はこの感情を押さえ付けるべきなのだろうか。
一瞬、そんな考えが過ぎるが、すぐに無理だと首を振る。だってそうではないか。自分でも、これが何処まで深く根付いているのか、何処まで大きくなるのかすら分からないのだ。それを抑えるなど、到底出来ない。
ならばいっそ、身を委ねてしまおうか。抗わずに、貪欲にも手にすることだけを求めてしまおうか。
答えなど、とうに出ている。逆らう術など知るはずもなく、拒絶すること事態が愚かにすら思える。
「お前が……欲しい」
呟かれたのは、どうしようもない程の想い。今はそれ以外、考える余裕がなかった。
俺は、どうしたらいいんだ。もう何が何だか訳が分からねえ。考えれば考える程、抜け出せなくなっちまう気がする。もう、どうしようもねえよ。
どうしてこうなっちまうんだ。なんで、余計な事まで望んじまうんだ。
だったら、俺が離れるしかねえよな。そうするしか、思い付かねえよ。




