遊戯 1
「わああああああ」
大きな叫び声と同時に、セリアは寝台から跳ね起きた。その瞳は、まるでこの世の終わりでも見たかのように、動揺の色で揺れている。
何が起きたかも判らず、ハアハアと荒い呼吸を繰り返しながら、セリアが辺りを見回すと、部屋は窓掛けからはみ出た朝の日差しで僅かに照らされていた。といっても、今が随分早い時刻なのは確認しなくとも解る。
そのまま暫く呆然とした後、セリアは漸く今の状況を理解した。
「ゆ、め……」
一度言葉にすると何と単純なことか。
けれどだからといって、笑い飛ばす気にもなれず、寝汗でぐっしょりと湿った寝衣を脱ぎながら、身支度を整える。沈んだ気分のままノロノロと動いていたが、なにせ目覚めた時間が早い。再び時刻を確認するが、まだ授業には程遠い。かといって、このまま何もせずに部屋でぼんやりしていても、また嫌な物を見てしまいそうだ。
どうしようかと悩んだが、どうしてもこのまま部屋に留まる気にはなれない。仕方なく、のんびり散歩でもしながら教室へ向かおう、とセリアは静かに部屋を出た。
朝の空気は早ければ早いほど清々しい。けれどセリアは、爽快感など微動も感じず、トボトボと道を歩いていた。
やはり、この様な時間に校舎へ向かおうと言う物好きは少ないらしく、他の生徒の姿は見当たらない。なんとなく人影を探して視線を彷徨わせて見るが、どうやらその甲斐は期待出来なさそうだ。
流石に、今校舎へ行っても同じく時間の無駄だろう。そんな風に考え、のんびりと歩きながら自然と足が向いたのは、林に面した池の畔。キラキラと朝日を反射する水の前に立てば、幾らか気分が晴れる気がした。そのままぼんやりと光る水面を眺める。
「セリアちゃん!」
「ぎわぁっ!!」
ぼうっとしていた所を突然後ろから声がかかったものだから、セリアは飛び上がって驚いた。といっても、この驚き方は異常である。朝の林に響く悲鳴にクルーセルは目を見開いた。
「ご、ごめんねセリアちゃん。驚かせちゃって」
「ク、クルーセル先生!?」
それがよく知った人物だと理解すると、セリアは心底安堵する。けれど、同時に急激に青ざめた。幾ら何でも、今のは失礼だっただろう。
「す、すみませんでした。本当に、ごめんなさい」
「いいのよ。急に声を掛けた私も悪いんだし…… でもどうしたの? なんだか顔色が悪いみたいだけど」
言われてセリアはギクッと肩を揺らす。まさか、悪い夢に魘されて、その所為で少し気を張っていた、などとは言えない。夢の内容を聞かれるなどもってのほかだ。と考えていたら、先ほど寝ている間に見た光景が思い起こされて再び気が沈んでくる。
顔色を更に青くしたセリアに、クルーセルは慌てた。
「ちょっ!? セリアちゃん! 大丈夫?」
「す、すみません。ちょっと気分が優れなくて……」
クルーセルにはそう言って誤魔化すことにした。すると、今日の授業は大丈夫か? と更に心配させてしまった。そんなクルーセルに、セリアは非常に申し訳ない気持ちで一杯になりつつ、平気なことを伝える。まさか、こんな理由で授業を休む訳にもいくまい。
平気なことを必死に説明すると、クルーセルは漸く納得してくれたようだ。心配そうな表情を見せながらも、引き下がってくれた。
「すみませんでした。ご迷惑お掛けして」
「そんなことないわよ。それに、こんな朝早くからセリアちゃんに会えて私も嬉しいし」
有り難い言葉には違いないが、そこでセリアは気づく。クルーセルが居るということは、もうそんな時間だったろうか、と。どうやらかなりの時間をこの場で過ごしてしまったようだ。
未だに気遣う素振りを見せるクルーセルと並んで、セリアは重い気分のまま、ゆっくりと校舎を目指した。
「で、どうしたの?セリア」
どうも一日冴えない様子のセリアに、候補生達が気づかぬ訳がない。どうしたのだ、と気を使いながら、その日は一日中セリアを観察していた。
授業後になっても青白い顔のままのセリアを見かね、ルネがとうとう切り出したのだ。聞かれたセリアは途端に顔から血の気が引く勢いで暗い表情を見せる。
「い、いえいえ。なんでもありませぬと申しますでしょうか。特にこれと言って変わった様なことはないと思いますですが」
「…………」
いつもの癖で、辛うじて理解出来る程の、不可思議な口調で喋るセリアに、候補生達は逆に何かあったのだな、と確信する。
「セリア。取り合えず落ち着いて」
目の前のテーブルに紅茶を用意しながら、まあ座れ、とルネが促すと、セリアは素直に従った。差し出された紅茶を一口含めば幾らか落ち着く。それを待っていたとばかりにルネが再び尋ねてきた。
「それで、どうしたの?」
「うっ、それは……」
天使の微笑みで聞かれては、嘘をつくことは最早不可能。下手な誤魔化しも彼らには通用しないことも、セリアは身を持って既に体験済みである。怯みながら辺りを見回せば、幾つも飛んでくる視線。どうやら、彼らが納得する理由を述べない限り、逃がしてはもらえなさそうだ。そう理解すると、セリアははぁっと息を吐いた。
「それが、悪い夢を見て……」
「どんな?」
「うっ、その……」
ポツリポツリとセリアは話し始めた。
「あははははははは!!」
今、温室内にはイアンの笑い声が大きく響いていた。当人はそんなこと気にした様子を見せず、腹を抱えながら涙を流す勢いで、いまだに笑い続けている。その横では、どうしたものか、と困惑したザウルや、堪え切れずに肩で笑い始めたルネの姿まで。
「それで今日一日ビクビクしてたのか」
「そ、そんなに笑うことないでしょう」
あまりにもイアンが笑い続けるものだから、セリアは恨めしそうに睨んだ。けれど、そんなもの効果がある訳もなく、イアンの笑いは止まる様子を見せない。
「相変わらず、ああいうのが苦手なんだな」
「うっ……」
セリアが見た夢の内容とは、昔から苦手としているものだ。
「それで、白い幽霊に食われるって? あははははははは」
「やはり、先日の一件の所為では?」
ザウルが言うと、セリアは多分、と自信なさげに答えた。けれど、それが原因であろうことは誰もが理解している。
ザウルの言った先日の一件とは、学園内で夜中に白い影が出る、と生徒達が噂した件だ。結局、一部の生徒の悪戯だと分かり、事件は解決したのだが、セリアにとっては恐怖の数日間であった。その名残が、今こんな形で出るとは。
「じゃあセリア、寝不足なんじゃない?」
「それほどじゃないから大丈夫なんだけど」
「でも顔色悪いよ」
一日中気を張り詰めていた所為で、かなり体力を消耗したらしい。言われたセリアは、たしかに疲れた表情をしている。
「下らん……」
低く響いた声にセリアが顔を上げれば、相変わらず冷めた瞳がこちらを見下ろしてきた。けれど、普段は涼しいその表情に、今は多少の苛立ちが含められているようにも見える。
「ありもしない幻想に脅えるなど、意味がない」
「うっ……」
「その惰弱した様で、己の目的など果たせるのか?」
口の端を僅かに上げ、挑発するようなカールの言葉にセリアもピクリと反応した。キッと視線を向けると、カールは更に口を吊り上げる。その様に、セリアもつい強い口調で言い返してしまった。
「なんですって!?」
「フン。事実を言ったまでだ。今日をその下らない理由で無駄にする積もりなら、好きにするがいい」
鼻で笑うカールに、セリアもとうとう怒りを抑えきれなくなる。まるで見計らったかの様にルネが差し出した資料を受け取ると、カールの前に立ちはだかった。
「いいわよ。無駄になんかしないから!」
「ほぉ」
バチッと火花を飛ばす勢いのセリアに、ルネ達も漸く安堵する。やり方に多少の問題がある気もするが、取りあえず、もうセリアの心配はないだろう。一度火が付けば、セリアもいつも通りの状態に戻るだろうから。実際、先程までまるで覇気が感じられなかったことが、今は嘘のように対峙している。
ただ、カールの行動が、それを狙ってのことだったかは不明だが。
カールの言葉に押され、午後は余計な事を考えずに過ごせたセリアだが、夜になり寮で一人になると、また不安がぶり返してきた。部屋の中を落ち着きなく歩き回りながら、クローゼットの中だとか、ベッドの下だとか、あらゆる箇所を恐る恐る確認している様は、傍目から見れば、かなり怪しいだろう。何が潜んでいる筈もないのに、視線はチラチラと部屋の様子を伺っていた。
ビクビクしながらでは、何かに集中することも出来ない。特にすることもないので、もう寝てしまおうかとセリアが思案していたところに、唐突に何かを叩く様な音が響く。その途端、面白い程に肩を揺らし、飛び上がらん勢いで反応したセリアは、慌ててその音の発信源を探した。
キョロキョロと部屋を見回していると、再びあの音が響いた。それが、外から窓を叩く音だと気づくと、慌ててそちらに駆け寄る。外を確認すれば、そこには驚いたことにここに居るはずのない人物が居た。
「イアン!?」
「だから、大きな声を出すなって」
口に指を当てて静かにしろ、と言うイアンは、いつものように木の枝に腰を掛けている。すっかり定着してしまったような位置だが、彼がここに居てまずいことに変わりはない。
「ど、どうしたの?」
「どうせまた脅えてるんだろうな、と思って来ただけだ。そしたら、本当に部屋の中をウロチョロしてるのが見えたからな」
「……いつから居たの?」
「10分くらい前だな」
ということは、先程からの自分の行動をバッチリ見られていたということになる。居るなら居ると言ってくれれば良いのに。と思ったセリアの内心を読み取ったのか、イアンは宥めるように頭に手を置く。
「本当に見てて飽きないな。お前」
「あんまり嬉しくない」
セリアが素直に感想を述べると、イアンは堪らず噴出した。セリアの頭に置いた手はそのままに、もう片方の腕で腹を抱えながら笑い出す。
「まあ、そう怒るな。どうせ一人じゃ寝られねえだろ」
「うっ!」
図星を突かれてセリアは言葉に詰まった。別に怒っていたわけではないが、一人で居ることが不安だったのは事実だ。実際、ベッドに入ったところで、すぐに寝付けたかどうかは怪しい。とそこで、これはもしや気を使わせたのか、と気づいた。
「ごめん。ありがとう」
「気にするなって。俺が勝手にしたことだからな」
「うん。でも、迷惑かけてごめん」
その一言にイアンは一瞬不満そうな顔を見せた。それと同時に、フッと短いため息が聞こえる。
こうして気を使うのも、心配で様子を見に来るのも、すべて自分が望んでいることだと、この少女はいつになったら理解するのだろうか。
もしどうでもいい相手だったら、わざわざ夜に部屋を訪れたりなどしない。自分はそんな失態はしないが、万が一見つかれば、いくらマリオス候補生といえども、どうなるか分かったものではないのだから。
迷惑だなどと思ったことは無いし。むしろ、こうして二人きりの時間が作れることが、自分としては至福なのだ。
自分から、女性に何かを与えたいと思ったのは、正直セリアが初めてだった。今までは相手が望めば、自分の出来る範囲で叶えてきたが、それで終わりだ。ここまで気にすることもなかったし、夜にこっそり抜け出して様子を見に来るだなんて、考えられなかっただろう。だから、迷惑などと思われるのは、正直言って不本意である。
そんなイアンの内心を、これっぽっちも読み取っていないセリアは、一瞬見せたイアンの不満そうな表情に不安を覚えた。やはり、このように気を使わせるのは迷惑なのではないだろうか。それに、いつまでもここに留まらせて居ては、見つかる確率が増えてしまう。わざわざ来てもらったのに悪いが、ここは直ぐに戻って貰った方が良いのではないか。
そう思ってセリアが言葉を発する前に、イアンがワシャワシャと頭を強く撫でてきた。突然のことにセリアも慌てる。
「わっ!な、なに!?」
「お前は余計なこと考えるな。いいから素直に甘えてろ」
「あ、あまえる……?」
訳が分からない、といった顔をするセリアに、イアンは苦笑してしまった。
今はどうしても、理解してはもらえないらしい。まあ、これからゆっくり、じっくりと分からせてやるのも悪くはないかもしれないが。
そんなやり取りをしていたセリアとイアンの横で、別の窓が開く音がしたものだから、二人は慌ててそちらを振り向く。すると、開いた窓からスッと青髪が覗いた。どうも虫の居所が悪いらしい。こちらを見据える視線は、何かもの言いたげだ。
また煩くしてしまったか、と心配したセリアを他所に、アンナはスッと白い封筒を差し出してきた。
「朝、居なかったようだったから預かったの。声が聞こえたから、こちらからの方が早いでしょう」
そういってアンナはイアンに封筒を向ける。確かに、部屋が隣だといっても窓から渡せば、わざわざ部屋を出る必要がないのだから早いかもしれない。早いというより、ただ本人が面倒だったからというだけかもしれないが。
イアンに封筒が渡ったことを確認すると、部屋に引っ込むかと思っていたが、まだ何か言いたいことがあるようで、アンナは口を開いた。
「それと、何度も言うようで悪いけど、静かにしてもらえる?」
「ご、ごめん」
やはりか、とセリアは慌てて頭を下げた。本当に、何度も迷惑を掛けているようで申し訳ない。けれど、アンナが更にその眼光を鋭くし、次にイアンへその視線を向けた。
「イアン・オズワルト様。発覚した場合に、こちらまで咎められるような事態にはしないと、お約束して頂けますね」
「あ、ああ。約束する。悪かった」
その答えを聞きアンナは満足したのか、さっさと自室へ今度こそ消えていった。その姿を目で追いかけていたセリアとイアンだが、隣の窓が閉まると同時に息を吐き出した。
「びっくりした」
「まあ、ちょっと騒ぎすぎたかな」
忘れてしまいそうになるが、今は夜なのだ。生徒達はもう寝静まっている頃であり、騒々しくすれば見つかるのは当然だろう。
多少反省したイアンは、その手に残っている封筒をセリアに差し出した。
「まあ、いい友達なんじゃねえか?」
彼女がセリアの心配をしてくれたからこそ、助かったこともあるのだ。それが本当に心配故の行動かは、微妙なところだが。取りあえず、こうして校則を破っているところを見ても、口を閉ざしていてくれているのだし。連帯責任が面倒なだけ、ともいえなくもないが。
結局のところどうなのだろう、とイアンが内心で思考を巡らせていると、セリアがその封筒の差出人を確認しているところであった。その瞳が嬉しそうに輝いたので、イアンは興味を引かれる。
「誰からだ?」
すると、セリアは笑顔で封筒を差し出して来た。それを受け取り、そこに記された名を見たイアンは、不覚にも一瞬怯んでしまう。
『カレン・ボワモルティエ』
楽しみだわ。今度も面白いものが見れそうだもの。
でも、駄目ね。セリアからの手紙は相変わらずだし、まったく変化がないなんて。
やっぱり、それなりに趣向を凝らす必要があるかしら。