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大地の宝石  作者: 森宮 スミレ
〜第二章 磨かれる原石〜
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冷雨 1

 昨日まで清々しい程に晴れ渡っていた空も、今日は朝から雨雲に覆われていた。今にも崩れそうな空を見上げる人々の視線は何処か心配げで、その日の用事を早めに済まそうと、足を急がせる者が目に付く。

 まだ日が沈むには早い時刻にも関わらず暗闇が辺りを包み込んだ頃にはやはり気温も下がり、大粒の雨がしとしとと音を立てて降り始めた。そうなれば必然的に道を行きかう人々の姿も疎らになる。

 いよいよ本格的に降り出した雨を一時でも凌ぐため、ザウルは近くの店の軒下へと逃げ込んだ。水が掛からない場所を確保出来た事に安堵しながら、肩にしつこく纏わり付く水滴を払う。急に降り出した雨だが、幸いそれほど濡れずに済んだようだ。

 目の前で地面に叩き付けられている雨粒を眺めながら、ザウルは雨が小振りになるまでここで時間を潰して行くことにした。正直、あまり好ましいことではないが、今は仕方ないだろう。

 そのまま静かに佇みながら、激しく落ちて行く水滴に視線を向ける。その琥珀色の瞳は、普段の穏やかさこそ残しているが、どこか不安げに揺れていた。



 …雨は嫌いである。とくに、今のように悲しげに、空そのものが泣いているかのような雨は。こんな天気の日は、色々と思い出してしまい、どうしても複雑な心境になるのだ。


 フッと細められた瞳に、雲に覆われた空の様に、今は僅かな陰りが見えた。


 雨が降り出すと、まず思い出されるのは、今はもう亡い母の事だ。この世を去る時まで、その顔が優しく微笑んでいたことは今でも覚えている。けれど、その心が故郷への想いからいつも悲鳴を上げていたのは、幼いながらにも理解していた。それでも、周りに気を使い懸命に耐えた母は、やはり悲しみも表には出さなかった。

 そして寝台に横たわり、涙を流す力すら残されていなかった母の代わりに、空はその日泣いていた。

 失意に父が落ち込んでいる時も、空には常に雨雲が広がっていた。父の心を表すかのように雨を降らす空が、自分は好きではなかった。母は泣かなかったのに、父が悲しみを耐えているのに、何故空はこうも簡単に涙を崩すのだろう、と。まるで、代わりに泣いてやるからお前は泣くな、と言われている気すらしたのだ。


 父にクルダスへ行きたいと申し出た日も雨であった。滅多に雨など降らない季節だったにも関わらず、その日は朝から湿った空気に混じり、雨粒が降り注いでいたのだ。瞳を伏せ自分の言葉に耳を傾ける父の姿が、雨の音と陰った色の所為で、更に思い悩んでいる風にも見えた。まるで父が泣いているのでは、と錯覚した程に。心痛を堪えるかの様な父の表情から、自分は目が逸らせなかった。


 昔から、こうして空が泣く度に、自分の周りで誰かが涙を堪えていた。それが何よりも辛いことのように思えて、雨の度に一抹の不安を覚えるのだ。今、誰かが泣いているのではないか、と。そんな馬鹿な、と自分でも思うが、感情はどうにも切り離せない。



 ジッと雨の降る道を見据えていると、唐突に横から声が聞こえた。

「あれっ!ザウル?」

「セリア殿!?」

 驚いてそちらを振り返れば、全身ずぶ濡れの状態のセリアが息を切らせながら自分の居る軒下へ避難してきたところであった。恐らく、街に出ていた所を自分と同じ様に雨に降られたのだろう。服や髪から雫が滴り落ちて、濡れていなかった筈の床に染みを広げて行く。

 セリアはザウルがこの場に居た事が意外だったようで、乱れた呼吸を整えながら目を見開いている。

 セリアのあんまりな姿にザウルはギョッとすると、すぐさま自分の上着を脱ぎ、雨にぐっしょりと濡れたその肩に優しくかけてやった。けれど、その行動を全く予想していなかったらしいセリアは慌ててそれを返そうとする。けれど途端にザウルに制されてしまった。

「ザ、ザウル!?」

「そのままでは風邪を引かれてしまいます」

「でも、それじゃザウルが寒いし」

 雨の所為で辺りの気温は確実に下がってきているのだ。それなのに、上着を取り上げてしまうのはセリアとしても心苦しかった。けれど、自分は平気だと押し切られてしまった為、渋々だが有難く借りる事にする。というより、返そうとしても受け取っては貰えなかったのだが。

「驚いた。大丈夫かなと思ってたのに、急に降ってくるから」

「そうですね。じきに弱まってくれると良いのですが」

 学園まではまだ多少距離があるため走って帰るのは難しいだろう。最初の頃より雨脚は若干弱まった様な気もするので、ザウルにとっては大した距離ではない。けれど、まだ雨は激しく降っていることに変わりはなく、そんな中セリアをずぶ濡れに走らせる、という選択肢はザウルには考えられなかった。

 と、そこで気付く。急に降ってきたとは言っても、本格的に振り出すまでに何処かの屋根の下へ逃げる事は十分可能だった筈だ。実際自分はほぼ濡れずにいたのだから。けれど、横に佇む少女は、頭からグッショリと濡れた状態で現れた。

「セリア殿。まさか、あのまま学園まで走って戻られる積もりだったのでは? 」

「えっ! う、うん。そんなに遠くは無いし、出来れば帰ろうと思ったんだけど、流石に雨が強くなってきたから」

「そ、そうですか……」

 セリアが答えた瞬間、ザウルは聞いた事を後悔した。分かっていたことだが、どうしてこうも余計な所で要らない行動力ばかり発揮するのだろうか。雨に降られながら、その下を走り回るなんて、年頃の娘のすることではない。本当に、風邪でも引いたらどうするのだ、と若干思考が保護者のそれになっていたのだが、本人はそのことに気付かない。

「街に何か用事だったのですか?」

「書店に少し。ザウルは?」

「自分は、便箋が切れてしまって。ただ、空模様が思わしくなかったので諦めたのですが」

「私も」

 早く晴れないか、と呟きながら二人はぼんやりと空から落ちる水滴が道に広げる波紋を眺めていた。けれど、その希望を打ち砕くかの様に、雨は一向に止む気配を見せない。


「止みませんね」

「そうだね」

 何度目かのそんな会話をした頃、セリアの視界の端で小さな影が動いた。反射的にそちらに視線を移すと、それは派手な音をたてて道に崩れ落ちた。

「えっ!?」

 突然の事に驚いてそれを見ていたセリアも、その影が一向に起き上がる気配を見せず、遂には啜り泣きまで聞こえて来たので慌てて雨の中、道に飛び出す。その後ろをザウルが追ってきたのを気配で悟りながら、影の横にしゃがみ込んだ。

「えっと……大丈夫?」

「んぐっ……」

 声を掛けた途端、キッと反抗的な緑色の瞳がセリアを睨んできた。ボサボサに撥ねた枯れ草色の髪から覗く、その瞳の端から流れているのは雨なのか、涙なのか。それを判断する前に、転んだ影、少年は再び顔を伏せてしまった。顔が見えない為年齢が判断しにくいが、道に転がった背丈から察するに、七、八歳だろうか。

「セリア殿、彼は……?」

「……」

 雨の中道に転んだ体制のまま起き上がる気配の無い少年を、セリアはどうしようか、と見詰めていた。そうして少しの間悩んだが、やはりこのまま道に転がしておく事は出来ないだろう、とゆっくりと手を差し出す。その仕草を感じ取ったのか、少年がゆっくりと顔を上げ、ジッとセリアを見上げて来た。その視線に、セリアは安心させる様に、にっこりと微笑みを返す。

「大丈夫? 怪我は無い?」

「…………か…ちゃ…」

「ん?」

 ボソリと呟かれた声が上手く聞き取れず、セリアは一度聞き返した。けれど、少年の次の行動にセリアだけでなく、ザウルも目を見開く。

 転んだ少年はスクッと立ち上がったかと思うと、セリアの胸に思い切り飛び込み、しっかりと抱き着いたのだ。

「母ちゃん!!」

「は、はぁ?」

 母ちゃん、と呼ばれた理由が解らず、セリアは何度も瞼をしばたたかせる。辺りを見回しても、彼の母親らしき人物は見当たらないし、彼は明らかに自分に向かってその言葉を放った。けれど、自分は彼の母親になった覚えはないし、なにより彼の名前すら知らない。

 困惑した視線で横に佇むザウルを見やれば、同じ様に戸惑いを含んだ瞳を返されてしまった。かなり思考が混乱しかけたが、今は何より雨を凌げる場へ移動しなければ、と冷静になり判断する。見れば少年も、自分も、そしてザウルも全身ずぶ濡れではないか。けれど、動こうにも少年が抱きついたままで動けないのだが、どうしたものか。


 仕方ない、とセリアは一つ息を吐くと、少年を抱きかかえたまま立ち上がった。幾らセリアが小柄と言っても相手は子供だ。抱き上げるくらいなら何とか出来る。突然の事にも、少年はセリアの胸に顔を埋めたまま離れる気配がない。

 セリアがそのまま先程までザウルと二人で居た軒下へ避難した所で、少年は漸く顔を上げた。そのまま彼を降ろすと、セリアはそっと問いかける。

「君、何処から来たの?」

「……」

「お母さんは?」

「………………」

 聞かれた問いに、少年は迷う事なくスッとセリアを指差した。これにはセリアも苦笑してしまう。どうやら、本当に母親にされてしまったようだ。

「名前は?」

「……ロイド」

「そっか。家は?」

 その言葉に、少年はフルフルと首を振って応えた。先程から、何か質問をしても無言かこうして首を降るばかりだ。けれど、その瞳が幼いながらにも必死に涙を堪えている姿から察するに、彼なりの事情があるのだろう。その所為か、ロイドはまだこちらをとても不安げに見詰めて来る。

 どうしようか、とセリアが再び悩んでいると、フッと雨が小振りになるのを感じた。視線を移せば、まだ水滴は落ちているものの、動けない程ではない。

「ザウル…… 彼を学園に連れて行っても平気かな?」

「学園にですか? ですが……」

 セリアの問いにザウルは瞳を見開いた。いくらなんでも、それは問題があるのではないだろうか。

 ザウルが戸惑ったような声を発した途端、キッと力強く少年に睨まれた。ギュッとセリアの服の袖を握りしめるその拳は、若干震えている。それを見たザウルは、少し考える素振りを見せ、チラリとロイドに視線を移すと、ゆっくりと口を開いた。

「雨の中、子供を放置する訳には行きませんし。少しの間保護する、ということなら……」

 その言葉に、ロイドは心底安心したように瞳を輝かせた。セリアも安堵したように頬を緩めると、小さな手を軽く引いてセリアはロイドを立ち上がらせる。まだ晴れ渡ってはいないものの、今のうちに移動した方が良いだろう。また何時雨が激しくなるか解らないのだから。

 そうしてセリア達は灰色の雲の下を、急ぎ足で学園へ向かって歩き出した。








「漸く、収まって来た様だな」

「そう? でも、まだ雲が厚いし、多分また降り出すと思うよ」

 温室の壁を叩く水滴の音が静まり、ランが呟いた言葉にルネが返した。二人の視線の先では、ルネの言った通り、まだ灰色の雲がどんよりと空を覆っている。

「そういえば、セリアは大丈夫かな?」

「アイツがどうかしたか? まだ来てねえけど」

「街に買い物だって言ってたよ。急に降り出したから、今頃何処かで雨宿りしてるんじゃないかな」

「……大人しくしててくれりゃあいいけどな」

 アイツなら雨の中走り回っていても可笑しくはない、とイアンが眉を寄せると、ルネが明るく笑って否定した。

「流石にセリアもそれはしないんじゃないかな。大丈夫だよ」

「そう、だよな……」

 流石のセリアも、こんな雨の中、ずぶ濡れになりながら走り回るような真似はしないだろう。ルネの言葉にイアンは納得したように表情を緩めると、一度ハハハと軽く笑った。けれど、その空気を割るように訪問者が現れる。

 ヒヤリと冷たい空気を感じたかと思うと、ポタポタと水が滴り落ちる音が響く。人が入って来た気配にそちらを見やれば、見るも無惨に全身ずぶ濡れの状態のセリアが立っていた。

「セリア!?」

「ご、ごめんなさい。取り敢えず、ここかなと思って」

「……?」

 そのまま中へ入るセリアを見ていた候補生達は、その裾にしがみつく妙な物を見付けた。目を見開いてそれを凝視していれば、ザウルがその後から大変気まずそうに温室に現れるのが目に入る。

 彼なら事情を知っているだろう事を瞬時に理解した候補生達は、説明を求めるような視線を投げかけるが、何を聞く前にその琥珀の瞳は逸らされた。言葉は無くとも、今の状況を察するには十分だ。

「……またか!?」

 何を、と聞かずともその場の者全員が、イアンのこの言葉の意味を理解したことは、言うまでもない。

 妙な沈黙が流れるが、それをいち早く割ったルネが慌ててセリアに駆け寄った。

「セリア。取り敢えずそのままじゃ風邪引くし、着替えて来たら? 君も、乾かさなきゃいけないしね」

 そう言ってルネがロイドの前に屈むと、途端に警戒心を強めたロイドがセリアの裾をギュッと握った。

「俺、母ちゃんと一緒に居る」

「…ん?……!?」

 母ちゃん、と言ってセリアにしがみつくロイドに、その場の全員が頭に疑問符を浮かべる。そして、小さな少年の言葉が、セリアに向けて放たれた言葉だと気付くと同時に驚愕した。

「……はあ!?」

「あ、あの。これには、色々と事情と言うものがありましてと言いますでしょうか。ですから、その、なにから話しすればよろしいのか……」

 責めるような、怒られているかのような、そんな苛立ちの様なものを含んだ瞳を一斉に向けられ、セリアは大いに怯んだ。というより、何で自分がこんな目に合わなければならないのだ。

 言い淀むセリアに痺れを切らし、候補生達が横のザウルに再び視線を向けた。今度は逃がさない、とでも言わんばかりに強く。鋭く睨まれたザウルも、何から説明すれば、と口籠る。どんなに睨まれたところで、自分でも事態を把握しきれていないのだから。

 全員がその場で混乱し出す中、奥に座って事の成り行きを見守っていたカールが動いた。そのまま静かにセリアの前に立つと、外の空気よりも冷えた視線を向けて来る。

「手短に説明しろ。それは何だ」

「い、いえ。あの……」

 それ、と言われた先には、カールを見てすっかり怯えた表情のロイド。それもそうだろう。今のカールの形相は、いつもの彼を見慣れたセリアでも竦み上がってしまう程に恐ろしい。しかも、周りの空気が急激に冷え始めれば、誰でも固まってしまうというもの。

 数秒は呆然としていたロイドだが、ハッと正気に返ると、急に目に涙を浮かばせ、嗚咽を上げながらセリアの背に隠れてしまった。その様子に慌てたようにセリアが屈んで慰めにかかる。けれど、ロイドはすっかり恐れをなしてしまったようで、嗚咽は段々と泣き声に変わって来る。

「う、うわあああん。母ちゃん!!」

 遂には大声で泣き出し、母ちゃん、と叫びながらセリアに抱きついてしまった。その様子に、カールの眉間の皺は、更に深さを増す。額にはくっきりと怒りの証が刻まれており、苛立ちは最高潮に達したようだ。段々と不穏な空気を醸し出すカールに慌てながらも、必死にロイドを泣き止ませようとセリアは努力するが、その甲斐空しく、幼い子供の声は温室の外にまで響き渡った。


 すると、その声を聞きつけたのだろう、とても厄介な人物がこの場にやってくる事になる。

「皆、どうしたの? なんだか子供の声が聞こえたみたいだけど……」

 どうかしたのか? と半分は心配で、残りは好奇心で彩られた瞳を輝かせたクルーセルが温室に顔を覗かせた。そしてセリアに抱きつく少年を見つけ、こちらも目を見開く。

「ク、クルーセル先生!?」

 突然現れた担任教師に、まだ自分を母と呼びながら泣きつく子供を宥めながらも、セリアは驚きで声を上げる。何故ここに彼が居るのだろうか。というより、コレはもしやかなりまずい状態なのではないだろうか。


 それまで驚いた様に温室の入り口で固まっていたクルーセルだが、ハッと何かに気付いたような顔をした。すると途端に瞳を真剣にさせ、ロイドに合わせて屈むセリアの肩にそっと手を置いた。

「セリアちゃん。正直に答えなさい」

「……は?」

 クルーセルの表情が余りにも真剣だったものだから、セリアのみならず、候補生達もそちらに集中した。一体何を聞かれるのだろうか、と疑問に思ったセリアだが、嘘を許さぬ雰囲気に押され、おずおずと頷く。

 温室内を走った緊張で、周りの空気が一瞬静まり返ったような錯覚の後、その言葉はゆっくりと発せられた。

「父親は誰?」

「……は、はああ!?」

 予想だにしなかったクルーセルの問いに、セリアを含め、温室内の候補生達が、未だかつて無い程の絶叫を上げた。


それは、誰でも自然に求めるもので。誰もが当然与えられる筈のもので。

でも、それを手に出来ずに苦しむ人も、実は多い。


だけど、伸ばした手が誤ったものを掴んでも、意味がないから。



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