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大地の宝石  作者: 森宮 スミレ
〜第一章 埋もれた小石〜
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過去の 2

 ランを探してあちこちを彷徨ったセリアが漸くその姿を見つけたのは、林に面した池の畔。人気もなく、落ち着けるこの場所は、彼等も気に入っているのだ。

一人になれる場所を探したのだろう、ポツリと立つランの後ろ姿は、何処か寂しげで脆く、弱々しい。

 立ち並ぶ木々の隙間からその姿を見つけ出したセリアは、静かに林の中に足を踏み入れた。

「…………」

「っ!セリア……?」

 何と声を掛けようか迷っているセリアが言葉を発する前に、その存在に気付いたランが目を見開いた。振り向いたその表情は、やはり沈んでいる様に見える。

「その、先程はすまなかった……どうかしたのか?」

「………ラン。あの……」

 そのままオロオロと口籠った後、セリアは目を逸らした。言いたい事は分かっているのだが、いざとなると言葉が出ない。

 俯いたまま視線を合わそうとしないセリアに、なんとなく何があったのかはランにも見当がつく。

「………聞いたのだな」

「っ!?」

「君は分かりやすい」

「…………ごめん。勝手に聞いたことは申し訳ないと思ってる」

 どう切り出そうか悩んでいたが、こうなっては仕方無い。ランの隣まで行き頭を下げる。しかし、彼から責める言葉は発せられなかった。

「いや。君には、知っていて欲しかった」

「…………」

 イアンも同じ様な事を言っていたが、どういう意味だろうか。

 ランの事を知れたのは嬉しい。彼は大切な友人だと思っているし、少しでも彼の事は理解したいと思っている。しかし、先ほどの話は、彼にとっても他人を受け入れ難い領域だろう。それを勝手に聞いても責めないというのは、少なからず彼も自分を信用していると思っても良いのだろうか。



 そのまま二人で池の眺めていると、ランが小さな声で言った。

「………当時は、朝目が覚める度に思ったものだ。これが夢で、部屋を出れば、何ら変わりない姉の姿を見れるのでは、と」

「…………………」

 夢であって欲しいと、どれ程願っただろうか。それが無駄だと理解したのは何時からだろうか。優しく笑いかけてくれる姉が、もう亡き存在だと実感したのは。

「私の所為だ」

「そんなこと……!」

「私を庇って姉が犠牲になったんだ。姉を護れなかった。どうしても、その事だけが頭から離れない」

 誰に何を言われても、どうしてもそれだけが、変えようの無い事実になって自分を襲う。自分達が危険に巻き込まれる切っ掛けを作ったのも、姉を死に至らしめたのも、他でもない自分だ。

 姉はいつも自分を守ってくれた。自分が弱かったから。自分よりも弱い筈だったのに。自分こそが姉を守らねばいけなかったのに。

「肝心な時には、何も出来なかった」

「…………」


 何と言葉を掛けて良いか分からなかった。彼の悲しみが全身から伝わって来て、見ているだけでも十分辛い。

 ランが自分を見据える瞳が、これほど悲しみや怯えに揺れているのを見た事がなかった。しかしその奥には、救いや許しを求める様な色が見える。まるで、必死に安息を求め、願っても与えられないものを欲する、迷子の子供の様に。

 ランが許しを請うのは、他の誰でもない、姉のものなのだろう。しかし、それは無理である。彼女は、この世の者ではないのだから。伸ばしても答えを得られなかった手が行き着いたのは、後悔と自己嫌悪。出ない答えを無理やり出し、得たものが更にランを苦しめているのだ。

「姉は、私を恨んでいるのだろう。不甲斐ない弟を持ったと」

「ラン……そんなことない」

 震える身体を抱きしめたかったが、体格差があるためそれは叶わない。そのかわり、その顔にそっと手を寄せた。

「お姉さんは、ランが大好きな筈だよ。だから何が何でも護りたかった」

「………………」

「守ってもらった事を、ランが悔いる必要はない。忘れられることなく想われてるんだもの。お姉さんもきっと幸せに思ってるよ」

 そこまで言うと、顔に寄せていた手を強く掴まれた。痛いくらいに強く。今にも泣き出しそうな顔で、縋る様な瞳を向けてくるランが、普段よりも一回り小さく見える。

「今でも覚えてるんだ。姉の服が赤く染まって、綺麗だった顔が苦痛に歪んで」

「ラン………」

「起きてくれるのではないかと、何度も何度も呼んだのに、身体はどんどん冷たくなっていって」

 幼い頃に見た光景は、悪夢となって心を蝕んだ。その度に、記憶の中の姉の笑顔が蘇って、余計に自分自身への怒りを増長させる。

「もう無駄なのに、姉上は居ないのに、それでも夢に見る度同じ事を繰り返すんだ。姉上の名を呼ぶ以外、自分は何も出来なくて」

「…………」

「自分でも愚かだと思う。こんな私を見れば、姉も呆れる筈だ」

「ううん……そこまで想ってくれる人は、そうは居ないよ」

 これが十年近く前の事なのは聞いた。それからずっとランは姉を忘れずに想い続けていたのだ。例えそれが罪の意識からでも。忘れる事なく想ってくれる存在がいるということは、それだけでとても幸せなことだ。

「自分を責めないで。今のランの姿を見たら、お姉さんはきっと喜んでくれるよ。だから…」

 そう言った瞬間、何かがセリアを包んだ。目の前が制服の色で覆われていて、それがランの物だと理解するのにも数秒要した。気付いたときにはランに抱きすくめられていて、セリアははっと息を飲む。反射的に離れようと手が動いたが、その前に理性で止めた。いくらなんでも、今ランを突き放す訳にはいかないだろう。

 決して弱いとはいえない力で抱きしめられて、少し息苦しい。どうしたのだ、とランの表情を伺おうにも、彼の頭は自分の肩に絡まるように乗せられていてそれは叶わず、首筋に彼の吐息がかかって、くすぐったい。

 妙に近いこの距離感に、理解力が追いつかない頭が戸惑いを覚えるが、そんな思考は次に耳に聞こえた声で現実に呼び戻される。

「君は……」

「えっ?」

「君は……行かないな……?」

 いつも議論の時にカールに言い聞かせる様な、そんな声からは想像もつかない程擦れた小さな声。自分を包んでいるのだから、身体は大きい筈なのにずっと小さく感じる。

彼の言っている意味を理解すると同時に、セリアは言葉に詰まった。

 行かない。つまりは、彼の前から消えない、ということだろうか。大切な存在を失った彼が、これ以上何かを失う事に恐怖を覚えるのは当然である。

ここで、行かない、と言えば彼は安心するのだろうが、簡単に口に出来る言葉ではない。

彼の言う行かない、が一体どんな形なのかが分からないのだ。命が消える事を意味するのか、周りから離れていく事を意味するのか。もし、ここで安易に約束をして、何らかの形でそれが破られれば、ランを裏切る事に他ならない。

「……ラン…………」

 言葉を続けようとした。とその時、何だか木々の裏から声が聞こえたような気がした。



「離せ、ルネ!!」

「まだダメだって。もう少し堪えて」

 林に生える木の陰から様子を伺っていたが、もう限界であった。しかし、踏み込もうとした体をルネに止められる。

 いや。自分は十分耐えた。もうこれ以上は我慢ならない。

 元は身から出た錆、自分で蒔いた種だ。少なからずこうなることは予想していたし、その上でセリアをランの元へ行かせた。結果は良好。ランもそれなりに落ち着きを取り戻したようだし、セリアにもランの過去を知ってもらえた。しかし、抱きしめるなんて自分の予定には入っていないし、そのままランの好きにさせる気もない。

 自分が引き起こした結果なので、今までは大人しく事の成り行きを見守っていたが、もう我慢の限界であった。

「お前ら。その辺でいいだろう」

「えっ!イ、イアン!?」

 突然の乱入者に、セリアが驚いて出かけていた言葉を飲み込んだ。すると途端にセリアを離したランが、正気に戻ったのかほんのり焦りだす。

「す…すまない。その、これは……」

 どうやら無意識での行動だったようで、ランは非常に慌てていた。ワタワタと言い訳を述べようとするランに、何処か複雑そうな表情のセリアは、先程の問いの答えを言うべきか迷う。折角、少しいつもの表情を取り戻したのだ。今、事を蒸し返すのも憚られるが、このままというのも難しい。

 しかし、ランは元から答えを求めていた訳ではないのか、それ以上追求するようなことはしなかった。





「それで……どうだったかね」

「見込み通り、ってところかしら。予想を裏切らない点では、喜ばしいわね」

 クルーセルの言葉に、校長は満足した様に頷いてみせる。上機嫌ではしゃぐ校長は、まるで新しい玩具を手にした子供だ。

 普段なら九割の確率で校長と一緒になってクルーセルも喜ぶ筈なのだが、今は何故か大人しくしている。それでも相変わらず、我が物顔でソファで寛いでいるが。

「でも、まだまだね。今はちょっと早すぎるわ」

「それは分かっているよ。まだ期ではない。しかし、近いうちに何かしらの動きはあるよ」

「フフッ。そうかもね」

 他人が聞けば意味を成していないだろう会話も、この二人には通じる様だ。お互い視線を合わすと、校長は何が嬉しいのか、また笑みを深くした。







 まったく、冗談ではない。少し面白い事になりそうだと思っていた自分が愚かだったのか。予想していなかった訳ではないが、幾らなんでも早すぎる。自分が手を打つ前に厄介なことになっては敵わない。早急になんらかの形で、この事に終止符を打つ必要があるかもしれない。

 だがしかし、これもこれで悪くはないかもしれない。最悪の場合でも、そうなった時の事態の重要性は高が知れている。多少の障害になりはしても、実際に自分達に影響を及ぼすような事にはならないだろう。

 だとすれば、このまま流してみるのも面白い。

 何より、後々事の次第によっては自分の仕事が格段に楽になるのは、想像に難くない。実際、それなりに面白い事が何度も起こっているのだ。学園の愚直な生徒は当てに出来ないし、かといって簡単に潰れてくれそうもない。ならば、やはりこれを利用しない手はないのではないだろうか。

 そう考えると口元が緩んでしまうのも仕方がないというものだ。あまり露骨にする訳にもいかないが、誰も気付くまい。







 ランが多少の落ち着きは取り戻したとはいえ、彼の気が完全に晴れることは難しかった。少し寂しそうな顔を見せたと思えば知らない間に姿を消している。イアンに聞けば、これは毎年二週間程続くらしい。

 毎年、暗い気持ちに区切りがつくのは、ランの実家であるオルブライン家が主催するパーティーに参加してからだと聞いた。悲しみに取り付かれる妻や息子の気晴らしの為に、と侯爵が開くものらしい。そんな父の気遣いに、ランは自分を奮い立たせ、また一年悲しみを胸の奥深くに隠すのだ。

 貴族が理由も無くパーティーを開くのは珍しいことではない。家族にどんな事情があろうとも、建前はただの夜会ということになっている。

オルブライン家主催の夜会の招待状が行き渡った頃、学園に数通の外出届が提出された。貴族が通うフロース学園の生徒は、社交の場に出席するため、夜間や短期間学園を離れる者は少なくない。

 今回提出された物の内五つはマリオス候補生から。そしてもう一つは、ヨーク・バルディが受け持つクラスの地味な少女からだった。

 六つの外出届は、現在職員室で受理される時を静かに待っている。丁寧に重ねられたそれらは、面白い物を見つけた様な視線が投げかけられても、微動だにしなかった。









「……提出、されていない?」

「はい。こちらの手違いだとは思うのですが」

 ヨークの言葉にセリアは困惑した。今夜のオルブライン侯爵家で行われる夜会に参加する為、学園に提出した外出届が出ていないと言われたのだ。数日前に出した筈が受理されておらず、セリアに外泊の許可は下りていない。

「どうしましょう?夜間の外出だけなら今からでも間に合いますが、外泊となると…」

 フロース学園で一日以上の外出、もしくは外泊の許可を得るには、少なくとも前日の内に外出届を提出する必要がある。それ以降になると、最低でもその日の晩には戻らなければならない。そうしなければ、無断外泊の校則破りとして処分もあり得る。

 ランの夜会の後、時間によっては戻るつもりだったが、恐らくオルブライン家の屋敷に滞在する事になるだろうと考えていた。ローゼンタール家での婚約披露パーティーもそうだった。夜会は大体が夜遅くまで続くので、朝学園に戻る予定だったのだが。

 しかし、受理されていない物は仕方無い。許可が下りていない以上、 提出した筈だ、とここで言い張っても意味が無い。かといって、ランにも誘われたし、イアン達にも来てくれと頼まれてしまったので、参加しない訳にはいかないだろう。

「……分かりました。夜には戻る様にします」

「では、そのように報告しておきます」

 すみません、と一言謝るとヨークはセリアから離れて行った。それを見送ると、セリアもはぁっと息を吐く。

 候補生達は滞在するのだろうが、自分はそういう訳にはいかなくなった。なるべく早く切り上げる事になるだろうが、そうしても良いものだろうか。建前上はただの夜会になっていても、実際はランや彼の家族の気を紛らわせる為の場だ。自分が居るからといって何かが出来るとは思わないが、心配は拭い切れない。

 誰も居ない廊下でセリアは再び大きく息を吐いた。その背後に、すっと影が立つ。

「あまり廊下で立ち止まらない様に」

「ヒワッ!!」

 後ろから突然声が掛けられ、思ってもいなかった事にセリアは飛び上がる。大袈裟に驚くセリアを、黒縁眼鏡の奥から冷たい瞳が見下ろしていた。

「廊下では騒がない様にしなさい」

「うっ。ハンス先生……」

 目つきの悪い教師に睨まれて、セリアは一瞬怯む。

「それと、先日提出してもらった化学のレポートですが、また名前が記入されていませんでしたよ」

「えっ!?あっ、すみませんでした!」

 それぞれの教師は担任を受け持つクラスとは別に、個別の科目も担当している。内容の基準によっては、科目が同じでも教師が変わる事もあるが。セリアが受ける化学の授業は、このハンスが教えていた。クラスが違う為内容にそれなりの差はあるが、マリオス候補生の授業も受け持っている。ちなみに、クルーセルは数学、ヨークは歴史の担当だ。

「次からは気をつける様に」

「は、はい……」

 セリアを冷たく一瞥すると、ハンスは再び廊下を進んで行く。突然のハンスの登場と説教に、セリアは本日三度目のため息を吐いたのだった。








「ごめんなさい」

「君が謝る事ではない」

 主催側の人間であるため、昨日から実家に戻っていたランを見つけると、セリアは未提出だった外出届の件を話し、深く謝罪した。

「本当にごめん。折角招待してもらったのに」

「いや。来てくれただけで十分だ。ありがとう」

 まだ寂しさを瞳に秘めたようなランだが、家族の手前気丈に振舞っていた。他よりも少し遅れて着いたセリアも、そんなランを心配げに見守る候補生達と合流する。

「相変わらず、華やかさの欠片も無い」

「うっ!」

 カールに言われ、その視線に居た堪れなくなったセリアは、ソロリと一歩下がる。彼の言いたい事は痛い程理解出来た。

 今セリアが袖を通しているのは、周りの輝かしいご令嬢方と比べてしまえば地味な容姿を隠そうともしていない、何の飾り気も無いドレス。装飾品らしい装飾品も身に付けておらず、年頃の娘らしさなど全く見受けられない。元々、社交の場から遠ざかっていたセリアだ。着飾るという経験もそれに比例して皆無に等しい。それでなくとも、もとよりそういった事には疎いのだ。

「カール。それは失礼だろう」

「フン。私は事実を言ったまでだ」

 ランが透かさず言い返すが、鼻で笑われてしまった。

 自分の好いた相手が着飾る姿を多少なりとも期待してしまったランも、言い返しはしても否定はしない。

「うっ。その……すみません」

 途端に多方面からも似た様な視線を投げかけられ、セリアは何故だか罪悪感に襲われた。



 その後も続く友人達との雑談に、セリアという存在が加わる事で、ランは今までに感じた事が無い程の安心感を覚えた。毎年この時期になると、痛感するのは自分の非力さ。護れなかった姉への罪悪感と、大切な存在を失った事への喪失感。

 幼い頃にぽっかりと開いた心の穴。埋まることの無かったそれを、栗毛の少女の存在が少しずつ塞いでいくのを感じていた。

 姉を失った悲しみや罪の意識を忘れることはどうしたって出来ないだろう。しかし、セリアなら簡単に手の中から消えてしまう存在ではないのでは、と思えてくる。非力な自分でも守り抜けるのでは、と。


 段々と穏やかになっていくランの心情を、イアン達候補生は敏感に感じ取っていた。





 しかし、楽しい時間とは過ぎるのも早いもので、もう既に時刻は夜の遅い時間をさしていた。他の貴族達は、まだまだこれからの夜会を楽しむ積もりだが、セリアはそうも言っていられない。オルブライン家の屋敷は、学園から比較的近いといっても馬車で三時間は掛かるだろう。汽車を使えばまだ早いのだが、生憎今から乗れる車は走っていない。

「ごめん」

「いや。少し待っていてくれ。すぐに馬車を用意させる」

 馬車を呼ぶ為、ランは一度その場を離れる。会場から出た候補生達は、セリアを見送るために玄関ホールまで来ていた。

「セリア殿。お一人で大丈夫ですか?宜しければご一緒しますが」

「そんな!平気だよ。それよりランの方が心配で」

 出来ればもう少しこの場に留まりたいが、それは流石に無理だ。今から帰っても既にギリギリの時間だろう。

 やはり夜の遅い時間に女性を一人で帰すのは、とザウルが渋っていると、突然背後に気配が立った。

「あの………」

「…っ!」

 その声に振り返ると、黒い服を着こなした初老の男性が立っている。頭には随分と白髪が目立ち、口は白い髭に覆われていてどんな形をしているのか判別出来ない。

「失礼ながら、セリア・ベアリット様では?」

「えっ!?は、はい!私ですけど」

 名前を呼ばれてそれに反応すると、男性はやはり、と嬉しそうに顔を綻ばせた。

「ルネ坊ちゃま方とご一緒だったので、もしやとは思ったのですが」

「ジャクソンさん。久しぶりですね」

「はい。お久しぶりでございます。坊ちゃま方においては、学園生活も充実されておられるようで、何よりです」

 ルネがジャクソンと呼んだ男性は、丁寧に頭を下げる。その姿にセリアがキョトンとしていると、その男性は上げた頭を再び下げた。

「失礼しました。私、このオルブライン家で執事頭をさせて戴いております、ジャクソンと申します。今宵はようこそお越しくださいまして、我が主も喜んでおられます」

「あっ!いえいえ、こちらこそ」

 彼が深々と一礼するので、つられてセリアも頭を下げる。そろっと視線を上げると、その姿をジャクソンがじぃっと見詰めていたのに気付いた。どうしたのか、とセリアが首を傾げると、ジャクソンははっとした様な顔をする。

「申し訳ありません。ランスロット坊ちゃまが、是非ご招待したいと仰られていた方ですので」

「ランが……?」

「はい。幼少の頃より女性とは常に一定の距離を保っておられた坊ちゃまが、貴方の事だけは嬉しそうに話して下さいました」

「えっと……」

 髭で隠された口が吊り上っているのが分かる程、にこやかに語る彼が、終いには涙まで流しだしたのでセリアは焦った。戸惑っていれば、ポケットからハンカチを取り出し涙を拭ったジャクソンが再び見えない口を開く。

「これは、大変失礼いたしました。しかし、ランスロット坊ちゃまがお心を開かれた事には、私も感動のあまり言葉を見つけられない程でありまして」

 幼少の頃から。つまり、ランが姉を失う前も、その後も見守り続けた執事頭は、ランが女性から距離を置く姿に胸を痛めていた。それがそのままランの心痛を表している様に感じたからだ。しかしだからといって、傷を抉る様な事をする訳にもいかず、長い間見守るしか出来ないでいた。いつか、彼が心を開ける存在が現れる事を願って。

「差し出がましい事ですが、ランスロット坊ちゃまを、今後も宜しくお願い致します」

「いっ、いえいえ!私の方がいつもお世話になっていますし。むしろこちらがお願いしないといけないような状況でして……」

 自分は決して、そんな涙を流しながらお願いされるような、そんな立派な存在ではない。むしろ、いつもいつも迷惑ばかりを掛けてしまっている。そう言えば、ジャクソンは驚きに見開いていた目を細めて、にっこりと微笑んだ。

「坊ちゃまが貴方様をお選びになったのも、分かる気がいたします」

「……?」

 ジャクソンの言葉が理解出来ず、セリアはうん?と首を傾げる。

「私も長い事この家にお仕えしておりますが、今の坊ちゃまは……」

「おっと待った。ジャクソン、それ以上は他言無用で頼むぜ」

 すっとイアンがセリアの肩を引き自分の後ろに隠せば、ハハッと笑いながらジャクソンの言葉を遮った。それを見て有能な執事頭は全てを悟った様で、一礼の後静かに口を閉ざす。

しかし、セリアは言われた意味が分からず、オロオロと視線を彷徨わせた。しかし、他の候補生と目が合うと途端に逸らされてしまう。なんなのだ、いったい。

「それでは、私は失礼させて戴きます。本日はお目通りできまして、大変光栄にございました」

「あっ、いえいえ。こちらこそ、ありがとうございました」

 なんだか分からないが、これ以上突っ込んでも答えは返って来なさそうだ。そう理解したセリアが丁寧に頭を下げると、執事頭は静かに、まるで影の様にすぅっとその場を去った。

「あの人も変わりませんね」

「うん。いつもランのこと心配しているもんね」

 執事の変わらないランへの気遣いに、候補生達は頬を綻ばせたのであった。




急がないと。とにかく急がないと。何が何でも急がないと。

それでも、間に合わないかも。本当にどうしよう。ああ、もう。どうしてこんな事になってるの!?何であんな目に合うの!?


とにかく、急いで戻らないと。



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