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大地の宝石  作者: 森宮 スミレ
〜第一章 埋もれた小石〜
26/171

過去の 1

 生徒達が緊張を解く合図である授業終了の鐘。その音が鳴り終わる頃、厩舎からは馬の嘶きに混じって数人の生徒の声が聞こえていた。

「アルセウス。久しぶり」

 立派な体躯の黒馬の鼻を撫でるセリアをカールが冷やかな眼で見つめていた。というのも、気位の高いこの馬が自分以外の人間を簡単に受け入れる場を始めて見たからだ。そんな主の視線を物ともせず、黒馬は栗毛の地味な少女に鼻先を擦り付けていた。



 フロース学園でマリオス候補生の地位を得ると、その記念に学園から在学中は自分専用となる馬が贈られる。この場にいる候補生達も例外では無く、それぞれ自分に与えられた馬の傍に立っている。

 そんな中、候補生でもなければ自分の馬もないセリアも、何故かこの場を訪れていた。気候はすっかり寒くなり、本来なら温室でのんびりと温まっていたい筈なのだが、そんなことより偶には遠乗りにでも行かないか、と誘われたのだ。

 普段は外に出たがらないカールも、ルネに言いくるめられたのか、渋々とながらついてきていた。説得に赴いたルネがカールと共に戻ってくるのに、どの様な手段を用いたのかは、本人達のみが知る。

 学園の敷地から繋がっている草原は、抜けるとかなりの距離があり、馬を乗り回すにはもってこいなのだ。市外へ抜けられる森や、林へも続いていて、どこからどこまでが学園の敷地かは正確には分からないらしい。

「………遅れてすまない」

 暗い声色に振り返るとランが一足遅れて入ってきたので、セリアはどうかしたのかと顔を向けた。すると、いつもの端整な顔にはやはりどこか影が差している。理由を聞いてみようと思ったが、さっさと動け、という後ろから魔人様が飛ばす睨みに竦み上がってしまい、叶わなかった。

「……大丈夫か?」

「ああ。心配をかけてすまない」

 あたふたと黒馬から離れるセリアを尻目に、イアンがこそっとランに問いかけた。その声にピクリと反応を見せたランだが、言葉少なに返してそのまま自分の馬の用意を始める。その姿をイアンが心配を拭い切れないといった眼で追っていたが、それも気づかぬふりをした。







「セリア……そんなんじゃ肩こるぞ」

 イアンが必死に噴出しそうになるのを堪えながら見つめた先では、セリアが前屈みの姿勢のまま青ざめていた。その後ろからは、カールの冷やかな視線が止め処なく降ってきているのだが、それを気にしている場合ではない。

 普段は一人乗りが基本のセリアでも、自由に乗り回せる馬がいない上、馬術の授業も受けていない。その結果、騎乗の許可は下りなかった。その為、必然的に誰かと同乗することになる。この際、誰の馬に乗るかで一悶着あったのだが、結局は一番体躯の優れている馬に、ということになったのだ。それが意味するところはカールとの相乗りである。別にそれは問題無い。問題なのは、今の今まで二人乗りの経験がセリアは皆無に等しいことである。

 貴族の令嬢のくせになにを、と思われるかもしれないが、下手な貴族よりもよっぽど馬の扱いに慣れているセリアが、わざわざ相乗りを必要としたことがなかったのだ。

 慣れない乗り方は、安定感が低い上に自分は手綱を握っていない為不安が募る。少しでも安定感を得ようと馬のたてがみにしがみ付いている訳だ。

「手綱が引きにくい」

「う、うひゃぁ!」

 静かに掛けられた言葉と共に、ぐいっと肩を引かれ、セリアは悲鳴を上げた。落とす気かー!と慌てるが、いくらカールでもそんなことをする筈がなく、気づけばすっぽりと腕の中に収まっていた。

 一拍遅れてセリアも状況を理解する。先ほどの前傾姿勢よりも安定はするものの、背中に感じる密着間に落ち着かなくなり、もう一度前に屈もうとするが、がっちりと押さえられてしまっていて、それは叶わない。普通の娘ならば「騎士に護られる姫君」の状態に、頬を染めて胸を高鳴らせるのだろうが、生憎セリアはそんな可愛らしい思考持ち合わせてはいない。

「暴れるな」

 少しでも距離を空けようとあたふたするセリアに、低い声で言ってやれば途端に大人しくなった。



 それを見て少し面白くないイアンだったが、それ以上に感心していた。それなりに長い付き合いになるカールだが、こんな風に他人を気遣う姿を見せたのは久しぶりだ。普段ならば、あのまま落としても構わないくらいの勢いで、しっかり支えてやるなんてしないだろうに。というより、相乗りを許した時点で奇跡ではないだろうか。しかし、なんだかんだ言っても、それもセリアだからこそだろう、という事は十分に理解出来た。そこでまた複雑な心境になるのだが、隣で顔を青白くさせている少女は、そんなこと微動も分かっちゃいない。






「わぁあ!」

「好い所だろ」

 学園の裏から暫く馬を歩かせれば、少し小高い丘に着く。そこは、それなりに見晴らしも良く、今は天気も良い。初めて訪れた場所に、セリアは感嘆の声を漏らした。

本来ならば最高の気分の筈なのだが、浮かない表情の者が一人。周りの少し後ろから付いてくるランに、他の者は皆、似た様な視線を向ける。周りの気遣う視線を撥ね除けて、ランは自分の馬を来た道へ戻した。

「ラン……?」

「………………申し訳ないが、失礼する」

 どうしても耐えられない、といった風のランは、そのままセリアの静止の声も聞かず、馬を飛ばして走り去ってしまった。

「えっ、ラン!?」

「捨て置け」

「でも……」

 まだしっかり抱えられながらも、ランの後を追おうと慌てるセリアにカールが冷たく言った。先ほどからどこか様子が可笑しかったが、一体どうしたのだ。考えてみても、セリアには思い当たる節が無い。しかし、他の候補生達には心当たりがあるらしく、難しい顔はするものの、誰一人ランを追いかけようとはしなかった。

「やっぱりダメだったか」

「少しでも気晴らしになれば、と思ったのですが……」

 セリアが振り返ってみれば、もうランの姿は見えなくなっていた。







 あれから結局ランに会う事はなく、一日を過ごしてしまった。イアン達の話によると、男子寮でも自分の部屋から出ようとしないらしい。流石に授業には出ているのだろうが、クラスが遠く離れている為確認にも行けなかった。

 ここ数日続く無気力なランの様子に、どうしたのかと心配する気持ちは残るセリアだが、まあそんな日もあるのだろう、と呑気にも結論づけていた。考えた所で自分には分からないし、もし個人的な事ならそんなに込み入ったことまで聞くのは憚られる、と思っての事なのだが……。

「セリア!!」

 授業も終わり、さて温室にでも行こうか、と考えていたセリアの耳に突然自分を呼ぶ声が響いた。

「ル、ルネ!?」

「ごめん。すぐに来て!」

 教室に飛び込んできた友人の名を呼べば、焦った様子のルネにそのまま引きずられる様に教室から連れ出されてしまった。走るルネの後ろを必死に付いていけば、たどり着いたのはマリオス候補生の教室。

 はて、一体何故自分はこの場に呼ばれたのだろう。と疑問符を浮かべるセリアの背を、ルネが押して教室の扉を開けた。

「それは傲慢というものだろう!!」

「お前こそ、そろそろ現実を見つめ直したらどうだ」

 いきなり聞こえた怒声に怯み、セリアはビクリと肩を振るわせた。

 中から聞こえたのは友人二人の声。会話の言葉だけならばもう聞き慣れている。セリアが驚いたのは、その声量、気迫、空気、そういったものだ。

 普段の温室での議論よりも数倍は声が大きく、圧倒的に雰囲気が違う。こうもピリピリと刺す様な空気は初めてだ。いくら付き合いが長くはない間柄とはいえ、セリアにも、これが日常茶飯事でないことくらいは容易に想像がつく。

「セリア。悪いが頼む。俺たちじゃどうしようもないんだ」

 入り口で立ち尽くすセリアに気付くと、イアンが非常にバツの悪そうな顔を向けて来た。その様子にさえ、議論に夢中の二人は気付いていない。

 後は任せた、と渡された資料にさっと目を通すと、そこに記載されていたのは「テロ対策」についての資料。一つはランのものと、もう一つはカールのもの。それぞれに目を通すが、セリアは途端に眉を潜める。

「これって……」

 一通り資料に目を通すと、セリアはさっそく二人の間に割って入った。教室の隅で顔を真っ青にしている教師らしき人物も、いったい何の用だ、と敵意の視線を向けてくる他生徒の視線も気になる。しかし、それよりも今はこの二人を落ち着かせる事の方が先だ。

「いくらなんでも、この政策は無理よ」

「…セリア」

 余程目の前の人物に集中していたのか、二人とも今セリアの存在に気付いたようだ。

「規制が厳しくなるのは仕方がないけど、検問の数が多すぎるわ。配備するだけでも手間がかかるのに、一つ一つ管理するのは…」

「しかし、たった一つのテロ組織を入国させただけで引き起こされる被害は計り知れない。その為にも、出来るだけ多くの審査は必要だ」

「でも、この数は一般の人からも反対されるわ。それこそ、商業や交通の妨げになる可能性だってある」

 ランの考えは恐らく間違ってはいない。今の所、審査や検問以外に他国の組織を入国させない手段は即席では思い浮かばないのだから。だからといって、一般のクルダス国民でさえ反発する程の規制を強いるのは、はっきりいって無理である。理解を求めようにも、明らかに上限を超えている。

「だからって、カールの政策は厳重すぎるわ」

「………」

「街の警備や視察は分かるけど、これじゃ市民に恐怖心を植え付ける様なものじゃない」

「テロでの被害と、多少の規制。どちらかを選べと言われれば答えは決まっているはずだ」

 カールの資料からは、街を闊歩する厳格な警官の姿がありありと想像出来てしまう。それも一つの手ではある。しかし、ランと同様、やりすぎだ。

「それより、検問の数を少なく纏めて、その分その箇所でそれなりに厳しく審査する方が効果的よ」

「しかしそれでは、その場で見落とした時の対処が出来ない」

 その後も、セリアの指摘に言い返したり返されたりの議論を交わした。しかし、その間でセリアが思ったこと。それは、二人がどうも普段の様子と違うという事である。特にランは、何かを思い詰めた様な表情で、一向に自分の意見や思想を変えようとしない。政策においての不備や疑問点は認めても、何処か別の処で譲れないものがあるかのようだ。


 しかし、議論は確実に進んでいる。全くの平行線だった二つの意見が、多少なりとも変わって来ている。その事に、イアンを始め他の候補生達はホッとしていた。二人だけの時は全く手が付けられない状態だったが、セリアを放り込んだことで今は少し落ち着きが戻っている。情けない話だが、自分達ではやはりどうにも出来なかったのだ。


確固とした意思のあるランと、それを捻り潰そうとするカールを緩和させられるのは、今この学園内においてセリア以外には居ない。お互いの意見を聞く気が無いくせに、相手の意見は否定するのだから、手の付けようがないのだ。

「……失礼する」

 分が悪くなったのか、これ以上話しても自分の思想を曲げる気がないのか。その判断はつかないが、ランはそのまま教室を足早に出て行ってしまった。

「ラン!?」

「今は無理だ」

「そんなこと……」

 咄嗟に追いかけようとするセリアをイアンが止めた。突然のランの行動にセリアは戸惑っている様だが、今はそっとしておく以外出来ないのだ。

「毎年のことだ。仕方ねぇんだ」

「……?」

 それはどういう意味だろうか。この様な事が毎年起こっているのか?確かに、ランは最近様子が可笑しかった。普段ならばもう少し現実味のある意見を述べる筈が、今回はかなり理想論が勝っていた。それに、ここ最近の彼の行動もいつものランからは考えられない様なものばかり。

 一体、何が原因だというのだろうか。気にはなるが、はたしてそれは自分が聞いても良いものなのだろうか。

「ここじゃちょっと話し難いからな。場所を変えよう」

 イアンがチラリと視線を送った先では、ランスロットとカールハインツの議論の間に割って入った乱入者に驚愕と戸惑いの視線を投げかける者で溢れていた。どうやら議論の最中にも観衆は増えたらしく、教室の外からも痛い視線を感じる。そして、そのどれもが好意的なものなどではなく、むしろ敵意めいていた。その理由が、自分の性別にあるだろうことは、セリアも理解している。生徒の憧れである候補生に、国政に口出し無用の筈である女生徒がズバズバと意見したのだ。気分を良くする生徒ばかりではないだろう。

 イアンに頷くと、セリアは候補生達と連れ立って出来るだけ静かに教室から離れて行った。






「で、やっぱ気になるか?」

 結局はいつもの温室へ集まった候補生達。この場に居ないのはランのみとなった。カールも冷ややかな視線をそのままに、ベンチの一つでなにやら思想に耽っている。つい先程まであれだけ議論に熱を上げていたというのに。

「まあ少しは。でも、勝手に聞くのはちょっと…」

 この場に本人が居ないにも関わらず、個人的なことまで聞くのはやはり後ろめたい。誰でも、知られたく無い事の一つや二つはあるだろう。自分だってそうなのだから。なので、幾ら彼等が友人であっても、素直に喜んで問うような事は出来ない。

「まあ、あんま気分の良い話じゃねえけど、聞いといてくれねえか?」

「……………」

「お前なら、アイツも文句は言わねえだろう」

「………でも」

 やはり渋ってしまうセリアに、イアンが苦笑する。

「いや、お前には知っててほしい」

「………?」

「ランの姉の話なんだけどな」

 セリアだからこそ話せることであるし、彼女には聞いておいて欲しい。ランが心を許した者なのだから。





「ランの……あいつの姉は」

 テロで死んだんだ


 イアンのその言葉に、セリアは息を飲んだ。




 当時、まだランは八歳と、十にも満たない子供。姉も十一になったばかりと幼かったが、二人共子供ながらにしっかりしていると、屋敷の者にも評判だった。年も近かったせいか、二人共とにかく仲が良く、女性には紳士的に優しく、というランの姿勢も姉から教わったらしい。

「姉上。父上がオルブライン家は僕が守るんだって言ってました」

「フフッ。じゃあ私がランを守ってあげないとね。貴方はすぐに泣いてしまうんだから」

 幼いながらに繊細で美しい容姿を持った姉弟は、周りからの期待も大きかったという。特に、弟のランスロットは跡継ぎの名に恥じぬ様にと厳しい教育も受けた。時折その重圧に息苦しさを感じたランの、心の拠り所とも言える存在が姉であった。本当に仲の良い姉弟だったのだ。


 そうして幸せな姉弟は、その日を迎える。

「姉上!今街に旅芸人が来ているらしいんです。凄く珍しい、異国の踊り子とか、動物とか。一緒に行きませんか?」

「まあラン。そんなこといって、家庭教師の先生の授業はどうするの?」

「終わらせてきたから大丈夫です」

「そう。でも街へ行くのは少し遠いんじゃない?」

「でも行ってみたいんです。異国の文化は本でしか見た事ないから。お願いします、姉上」

 大好きな弟の我が儘を、姉はよく聞いていた。普段はあまり我を張る事をしない弟だったが、姉に対してはこの様に甘えを見せることがあったのだ。

 大人びた二人は、子供だけで家を離れる、という普通なら躊躇しそうな事も平然とやってのけた。屋敷の者も、まあこの二人なら大丈夫だろう、と数人の使用人と馬車を用意したのだ。それが悲劇を生む事になるとは知らずに。

「いい?少し見に行くだけよ」

「はい。分かっています」

 目を輝かせる弟を見て、姉も顔がほころんでしまう。


 街まで来た二人が見たのは、人集りの中心で踊る異国の舞姫。見た事も無い楽器から奏でられる曲に合わせるその姿に、弟は特に感激の声を洩らした。

「綺麗ね」

「はい!」

 聞こえるのは聞いた事も無い曲と、多くの拍手。きらびやかな衣装は何処か神秘的で、周りには観客として十分な数の人間達が集まっていた。

 その様子に見入っていた二人に次に届いた音は、旅芸人の突然の悲鳴。そして響いたのはーー爆音。

「うわっ……!!」

 ランの小さな身体は爆風に吹き飛ばされた。その瞬間、何かに身体を優しく包まれる。そしてそのまま遠くの地面に叩きつけられた。

 一瞬何が起きたのか分からず、転がった身体を起こそうとすると、途端に感じた重み。はっとして目を開けると、自分を庇う様に力なく抱きしめる姉の姿があった。

「姉上!!」

 ガバッと起き上がると、そのままずり落ちる姉。額からは幾筋もの赤い液体が流れ、美しかった筈のドレスの背中の部分は赤黒く変色している。

「あ、あああああああああああああ!!」

 何よりも小さな弟を大事に思っていた姉は、悲鳴が上がった瞬間、その小さな、十一歳の少女の身体で弟を庇ったのだ。





「直接の爆心地からは離れてたし、爆発自体大きくはなかったらしいから、ランは助かったが………」

「…………」

 聞かなくても分かる。小さな少女が爆発に巻き込まれたのだ。無事である筈がなかった。

「調べたら、その旅芸人の中の一人が爆弾を抱えて人混みの中に走ってったらしい。丁度ラン達が居たのとは反対の方だったから助かったんだろうな」

「……じゃあ、テロっていうのは」

「それも調べた結果だ。そいつらの出身国とは元々国交関係が思わしくなかったがな。国の影響もあっただろうが、個人的にクルダスが気に入らなかったんだろう」

「……………」

 何と言っていいか分からなかった。何かを言うべきかも分からなかった。

「もしかして、ランの様子が最近可笑しかったのは……」

「姉上の命日が、丁度三日前だった」

「…………」

 毎年この時期になると、その時の事を思い出していたのだろう。姉を失った悲しみを。

「アイツは……今でも姉は自分の所為で亡くなったと思ってる」

「そんなっ!」

「そんなことないって言っても、アイツは認めようとしないんだ」

「……でもそれは」

 当時八歳だった少年が、最愛の姉を亡くしたのだ。テロがどういうものかも、何故姉が死んだのかも理解できなかったのだろう。悲しみを怒りにすり替えたくとも、恨む相手も、憎むべき敵も分からない。唯一出来たのは、自分を責める事だけ。

「自分が姉を誘わなければ、自分が姉を守ってればってな」

「………………」

「アイツは、まだ傷を抱えてるんだ。何年も経って、隠すのが上手くなったがな」

 彼の傷は完全に消える事はないだろう。幼い時の悪夢は、脆く未発達な心に根深く植え付けられた。

彼奴あやつの他者への甘さも、その過去故なのだろうがな」

「カール……」

「それをとやかく言う積もりはないが、この時期に彼奴あやつが覇気を無くすのは面白く無い」

「……だからさっきもあんな無茶な政策を?」

 言った瞬間、冷ややかなカールの眉がピクリと動いた。

「ほぉ。私の施策を批判するとはな」

「えっ!?いや、そんな積もりじゃ」

 焦った末に現実味の無い案を出したランが対抗出来るように、わざとあんな政策を出したのかと思ったのだが。 しかし、その考えもあながち間違いではないのかもしれない。

「フン。私に楯突く者が弱っては、退屈ではあるがな」

 まったく、素直でない。




「でも、そんな話、私なんかにしても良かったの?」

 やはり勝手に聞いてしまったのは、悪かったのではないだろうか。確実にランの個人的な部分に深く踏み入った話だ。彼等は心の置ける仲間であるし、付き合いも長いのだろうから良いとして、自分はそうではない。確かに友人ではあっても、彼の知らぬ間にあれこれと立ち入って良い間柄だろうか。

「ごめん。やっぱり……」

 何故イアンが知っていて欲しいと言ったのかも分からないが、 聞いてしまったものは仕方無い。聞かなかった事にも出来ないし、聞かなかったふりも出来ない。しかし、ランに隠しておくのも憚られる。どんな形であれ、彼の領域に踏み込んでしまったのだ。

 足早に温室を出て行くセリアの背中を、イアン達が優しく見送った。


「…………役者だね。それより策士って言った方が良い?」

「褒め言葉として受け取っとく」

 チラリと流されたルネの視線を、軽く躱す。

「どんな形にしろ、あいつにはランの事知っといて欲しかったんだ」

 姉を失ってから、ランが初めて心を許した少女。ランが好意を寄せたセリアには、彼の事を知って欲しかった。友人であり、大切な仲間であるからこそ、彼が心に抱えた傷をどうにかしてやりたかった。

 きっと、彼の傷が癒える事は無い。何が起きても何時になっても、姉の事を思い出す度に悲しみが心に住み着く。でも、せめてこれからの出会いにまで姉の事を引き摺ってほしくはなかったのだ。過去として、乗り越えてほしかった。

 それをさせてやれるのは、恐らくセリアだけであろう。

 無意識の内に、女というものとの壁を作ってしまっている彼だが、セリアには違う反応を見せた。それをきっかけに、少しでも壁を壊す事をしてくれれば良い。

 何より、乗り越えてもらわねば、自分が思い切りセリアを取りにかかれない。もし、セリアがランの唯一になってしまったら。彼の事情を知っているだけに、お互い気分が悪いだろう。遠慮する積もりはなくとも、自分が胸を張ってランからその存在を奪えないのだ。

「俺は、ランもセリアも大事なだけだ」

「それは、ここにいる全員が同じ気持ちですよ」





アイツがあんなに誰かを必要としたことなんて、無かったのにな。まさに、骨抜きって奴か。まあ、俺も人の事言えねえけどな。

大事に思っちまうのを怖がる理由なんて、本当はあるわけないんだよ。その事に、早く気付いて欲しい。

ただ、それだけだ。



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