隔意 3
何処の学園にも必ず一つはある校長室。他の教室より幾分か豪華な造りになっているそこでは、大きな窓から陽の光がぽかぽかと降り注いでいる。その大きな窓から外を眺めていた校長だったが、にっこりと微笑みながら振り向き、後ろに立っていた人物に向き直った。
「婚約が正式に決まったそうだね。おめでとう」
「ありがとうございます」
「うん。暫くは身辺も慌ただしくなるかもしれないが、君ならば心配は要らないだろう」
校長が生徒の成長に喜んでいる様子なのに対して、この部屋に元からいたもう一人は少し落胆した様子を見せていた。
「私はちょっと残念よ。大切な教え子が離れて行っちゃう見たいで寂しいわ」
「この学園で学ぶ事がまだ多いのは、自覚しています」
「あら、それは嬉しいわね」
まだ彼からは学ぶ事がある、とカールが意思表示した瞬間クルーセルはパッと顔を輝かせる。
「やっぱり私の指導が良いからよね」
カールは、パチンと片目を瞑って見せたクルーセルに、何故ここに居るのかとは聞けなかった。何時もの事には違いないが、彼は何故常にこの校長室に出入りしているのだ。そして、何故校長は何も言わないのだ。疑問に思う事は多々あるが、まあ今は横に置いておく。
「何はともあれ、生徒がこの学園を慕ってくれているのは喜ばしい事だ。しかしカールハインツ君。勉強だけが大切ではないよ。時には、若さを満喫する事も大事だ」
「あら、彼には言うに及ばずなんじゃないかしら」
「ああ。それはそうだな」
ハハハハハ、と実に愉快そうに笑う二人の教師に、カールは掛ける言葉が見つからず、この空間から出る機会を見出す事も出来ずに、ジッと二人の笑いが治まるのを辛抱強く待った。
その間も、遠くで少しずつ沈んで行く夕日は、数日後には行われる行事をカールに自覚させる。フッと短く息を吐いたカールは、改めて身を引き締めた。
大きなホールに集められた顔ぶれを見渡して、イアンは感心した様に呟く。
「流石に、ローゼンタール家の婚約発表だけあって、主立った貴族が揃ってるな」
何処を見ても、華やかな衣装と装飾品に飾り立てられた人々が、これでもかとばかりに愛想を振りまいている。
クルダス国内で富と力と地位を得た貴族の多くは、今夜この場所に招待されていた。その中でも、上位の地位を得ている者は、話の輪の中心に立ち、周りからの賛美の声に気を良くしたりしている。
中型以上の貴族なら、殆どがこの場に招かれている。ラン達の家にも当然ながら招待状は届いた。そして、それはセリアも同じである。普段のセリアならばこういった場には絶対に出て来る事はしないのだが、今回は友人の婚約発表。無視する訳にもいかず今回ばかりは、と着慣れないドレスに袖を通したのだ。
「カールは…?」
「まだ挨拶に回っているのではないか」
声に答える様にランが振り向くと、そこには普段より幾分か粧し込んだセリアが立っていた。といっても、華やかさとはほど遠く、いつも来ている制服の変わりに、ドレスを身にまとっているだけだが。そのドレスも、良く言えば清楚だが、はっきり言ってしまえばただ地味なだけだ。見る者によっては、普段着を着ているのでは、と疑いたくなる様な格好だが、セリアはこれでも結構気合いを入れた積もりである。
地味な感じの地味な少女が、普段からパーティーの花形であるランスロット達の傍に居るものだから、当然の様に令嬢達の冷たい視線を集める事となった。しかし、今の彼等はそれどころではない。今日はまだカールに会っていないのだ。婚約自体にはまだ納得しきれてはいなかったが、せめて今夜くらいは祝福の言葉を送りたい。
ルネが人混みの中からやっとカールを見つけ出すと、その場に全員で向かう。流石に、光輝く容姿を持った候補生達は目立つ様で、彼等が動けば自然と人々の視線も動いた。
「カール」
「……来たか」
声が届く範囲まで来たセリア達を確認すると、カールは冷ややかな目で出迎えた。
「本日はお招き、ありがとうございます。この度はご婚約、おめでとうございます」
「………」
いつもの如く見事な一礼をしてみせたザウルに、カールも無言で頷く。候補生が勢揃いした光景は、令嬢達の黄色い声を招き、ふうっとため息を吐く声も所々から聞こえる。
「相変わらず凄い屋敷だな。流石ローゼンタール公爵家…か」
「イアン達は前にも来た事があるの?」
「ああ。そんなに短い付き合いじゃないし。何度かパーティーにも招待されてるからな」
イアンが軽い感じで話すので誤解してしまいそうになるが、それはかなり凄い事なのではないだろうか。
「ベアリット伯爵家にも、今までにパーティーの招待状は行っていないのか?」
「これがそういった場に自分から出て来なかっただけであろう」
カールに指摘されてセリアもうっと詰まる。確かに、パーティーだのそういった物は苦手なので、今まで殆ど出た事が無い。行けと言われても、逃げるか躱すかだった。昔からずっとそんな事を繰り返していたので、ローゼンタール家に来るのは、これが初めてである。
「あら、未来のマリオス様達じゃない」
明るい声が響いて、カールの後ろから一人の綺麗な女性が現れた。水色のドレスに身を包み、輝くプラチナブロンドの髪は上で高く結い上げられている。年は三十から四十代、といった所だろうか。ひょっこりと現れた女性の登場に、候補生達は一瞬驚いた様子だが、すぐに我に返る。
「公爵夫人。お久しぶりです」
「ランスロット。本当に久しぶりね」
「はい。お元気そうでなによりです」
そう言うと、ランはその女性の手を取って甲に軽くキスをする。他の候補生達も次々に同じ動作を繰り返して行った。それに華の様な笑みで返す女性は、実に嬉しそうに候補生達を見ている。
「あら。こちらは?」
セリアに気付いた彼女は、好奇心を瞳に宿してにっこりと微笑み掛ける。急に話しかけられた事にセリアがキョトンとして答えられないでいると、カールが横に立った。
「フロース学園のセリアです」
「あ、セリア・ベアリットと申します」
はっとしてペコリと頭を下げると、女性は再び嬉しそうな顔をした。
「初めまして。カールの母、イレーネ・ローゼンタールよ」
「えええっ!?」
セリアは、目の前に立つ、明るくて気さくな女性がカールの母と知って驚いた。確かに、見事なプラチナブロンドはカールと同じだが、どうすればこんな柔らかい感じの人から、カールみたいな魔人様が生まれるのだ。チラリとカールを見れば、相変わらずの冷めた表情。公爵夫人の優しそうな笑みと見比べてしまうと、やはり親子だとは信じられない。
「今日はようこそ。嬉しいわ、カールにこんな可愛らしいお友達が居たなんて。今まで女の子を紹介してくれた事なんてなかったもの」
「あ、いえ…」
「でも、カールとお友達でいるのは大変じゃない? いつも怖い顔をしているでしょう」
「ええ。それはもう…」
言った瞬間、首筋にジリッと殺気を感じてセリアは竦み上がった。チラッと横を伺えば、カールがもの凄い形相で睨んでくる。しまった、と思いセリアは慌てて取り繕った。
「いえ。でも、優しい表情をする時もありますよ。たまに。それに、頼りになって、いつも迷惑ばかりかけてしまって」
「あら、そうなの? それを聞いて安心したわ。これからもカールを宜しくね」
ニコリと公爵夫人は笑うと、カールに一言二言残して、その場を去ってしまった。しかし、その後もカールの睨みは終わる事なく注がれている訳で、セリアは今、非常に逃げ出したい気分である。
「相変わらず、楽しい人だね」
何度もパーティーに招待され、その他も何かと公爵夫人とは交流があったので、ラン達とは今ではすっかり知った仲なのだ。彼等がマリオス候補生である事も承知しており、またカールの友人である事も歓迎している。
セリアは未だに信じられなかった。少し話しただけでも、公爵夫人が親しみのある人柄だという事は十分理解出来る。なのに、その息子は視線だけで人を射殺せるのでは、と疑いたくなるような魔王。どうにも信じ難い。
「何か言いたい事があるのか」
「うぇっ!?」
無意識の内にジッとカールを見ていた様で、ジロリと睨み返された。唐突に地を這う様な声で言われて、思わず上擦った声が出る。
セリアがその冷たい睨みに背筋を凍らせ、候補生達がその光景に苦笑している中で、イアンだけは吹き出しそうになる笑いを必死に堪えていた。
そんなこんなでやり取りをしているセリアの視界に、彼女の目を引く存在が映った。まさかと思い、さり気なく視線を向けると、その先で見つけた人物に目を見開く。
「あれって、コーディアス議会長と、ヴィタリー殿下じゃ…?」
黒い髪のオールバックが目立つ髭の男性は、現議会長コーディアス侯爵である。ずっしりと立つ姿は、今の地位に相応しい振る舞い、というべきか。しかし、噂ではかなり野心のある人物で、議会長の座に就くまでに、相当裏で色々してきたらしい。
そしてその横に悠々と立つのは、何を隠そう、今の国王の弟君、ヴィタリー王弟殿下だ。
「なんで王弟殿下が…?」
「気晴らしがしたい、と仰られたので、父が招待したのだ」
コーディアス議会長も貴族の中でも高い地位を持った有力者だ。なのでこの場に招かれているのは不思議では無い。しかし、王弟殿下がこの場に居るのは明らかに可笑しい。というのも、王弟殿下については、コーディアス侯爵以上によくない噂があり、かつては王位を狙っていたとまで聞いた。しかし、国の仕来りで王が即位した際、その兄弟が王位に就く事は出来ない為、一度は王位継承権を失っている。
そして、コーディアス侯爵は、議会内でヴィタリー殿下を強く後押ししていた。何をどうやったのかは知らないが、コーディアス議会長の計らいで、ヴィタリー殿下が、王位継承権第一位の座に返り咲いた程だ。古い伝統を無視すると言って、かなりの反発もあったがそれらを撥ね除け、コーディアス侯爵はそれを見事やってのけた。現国王に跡継ぎが居ない事もあったのだろうが、それでも異例の事態である。
そんな噂があるコーディアス侯爵とヴィタリー殿下が行動を共にしているのは不思議では無い。しかし、ここはローゼンタール家とパンデラス家の婚約発表の場。この二つの家は、現国王陛下との関わりも深く、信頼も厚い。その二つが結び付く場に、王弟殿下が気晴らしで来たいなどと言う筈は無い。
「…………」
セリアが見詰める先では、二人の男性がワイングラスを片手に優雅に笑っている姿が映っていた。
前置きも終わり、カールがローゼンタール公爵に呼ばれて行くのを見送ると、候補生達は静かに人混みに紛れる。観衆が見守る先では、ホールに伸びる大階段の前に立つカールとその腕に自身の細腕を絡ませる美少女。彼女がリディアーヌ・パンデラス公爵令嬢だろう。ラン達の危惧していた事とは裏腹に、カールの横に立つ彼女は幸せそうに笑っていた。この分なら、婚約後の二人の関係も心配無いだろう。
「皆様、本日は我が息子カールハインツと、パンデラス公爵家令嬢、リディアーヌの婚約の儀においで戴き、ありがとうございます」
ローゼンタール公爵が二人を紹介する。その間も会場内は何かとざわついていたが、低く通る声は、その場の全員に届いただろう。
「……!?」
セリアが会場の前で公爵の話を聞いていると、人混みから離れて行く影に気付いた。そのまま真っ直ぐ出口へ向かって行くのは、ヴィタリー殿下だ。それに他の候補生も気付いた様で、不審に思い目でその姿を追う。嫌な予感は否めず、会場内に目を凝らしたが、不審な点は見当たらない。
「っ!?……あれを」
ザウルが声を発すると、その視線はカール達の居る階段の陰に向けられていた。この距離では、はっきりとその姿を確認する事は出来ないが、それが招かれざる客なのは嫌でも分かる。その場で影が動いたのに気付くと、セリアと候補生達も動いた。人混みをかき分け、急ぎ足で観衆の前へ出る。
その場にそぐわない動きを見せる候補生達に、カールも気付いた様で怪訝な目を向けて来た。
「カール!!」
「お前達、なんの積もりだ」
冷ややかに言われるが、今はそれどころでは無い。影が先程まで居た場所にもう一度目を向けると、その場所には明らかに不自然な長細い包みが置かれている。いよいよ嫌な予感が現実的な物になって、候補生達は動きを速めた。
「直ぐにそこを離れて!」
「時間が無い」
ランとルネがカールと公爵令嬢を引き寄せ、ザウルがローゼンタール公爵を庇った。セリアも咄嗟にその場で固まっている先程会ったばかりの公爵夫人を突き飛ばし、その上に覆い被さる。
その途端、耳を劈く様な爆音と共に、先程までカール達が居た場所がーー吹き飛んでいた。
その即座に起こった爆風に抗えず、セリアは公爵夫人を庇ったままその場に転げる。
「ぐっ…!」
多少の痛みが体を走ったが、怪我はしていない。バラバラと音を立ててこちらへ飛んでくる瓦礫の破片から守る様に、公爵夫人を自身の小さい身体で精一杯隠す。
突然の爆発に、観衆から悲鳴が上がった。その悲鳴に掻き消されて、ローゼンタール家から遠ざかる一台の馬車の音は、誰の耳にも届いていない。
「公爵夫人!お怪我は!?」
はっと我に返ると、セリアは咄嗟に自分の下でピクリとも動かない女性の安否を確認する。何度か声を掛けたり肩を揺すって見たが、何の反応も返って来ない。一瞬ヒヤリとするが、見た所外傷は一切無いので、どうやら気を失っているだけのようだ。
爆発事態は小規模だった様で、実際に吹き飛んだのは階段の裏を中心に、カール達が立っていた場所ギリギリまで。観衆には届いていない。しかし、もしあの場所に本人達が立ったまま爆弾が爆発していれば、確実に巻き込まれていただろう。
「っ、皆は!?」
バッと振り向くと、同じ様に爆発を逃れた候補生達と、無事なカールの姿。それを見たセリアはホッとしたが、すぐにランの怒りの形相に気付く。
「では、お前はこうなる事に気付いていたというのか!?」
「フン」
ランの言葉にカールは軽く鼻で笑う。えっ、とセリアが混乱した顔をすると、ザウルに庇われて難を逃れた公爵が声を上げた。
「カールハインツ、無事か?」
「はい。問題ありません。彼女も、気を失っているだけです」
カールが抱え上げたのは、先程まで幸せそうに笑っていたリディアーヌ令嬢。その表情から先程の笑みは消え、眉は苦痛に歪められている。気を失ったリディアーヌ令嬢とローゼンタール公爵夫人が別室へ運ばれて行くのを見送ると、公爵は動揺している観衆を落ち着かせるためにその場を離れた。すると、ランが再びカールに詰め寄る。
「お前は、知っていたのか!?」
「議会と王宮。結び付くのに、政敵が黙っている訳もあるまい」
「それを分かっていて、それでも押し進めたのか!」
「ここまでやるとは予想していなかったがな。しかし、これだけ派手な事を起こしたのだ。探せば幾らでも証拠が出る。敵の大本は掴めずとも、強力な切り札の一つになるだろう」
そこまでカールが言った所で、その場を離れていたイアンが戻って来た。すぐさま階段で見た影を追ったのだが、捕らえるには至らなかったようだ。すまねえ、と言ったイアンは肩を竦めて見せた。
まだ混乱している会場を後にして、セリアは一人バルコニーに出ていた。ホールの中では、人々が騒ぐ声が聞こえるが、それは公爵が説明と謝罪を繰り返した事で幾分かマシになっている。予想もしていなかった爆発に、驚く者や一刻も早く帰りたがる者が殆どなので、バルコニーには他の誰も居ない。
そこで少し頭の中を整理するなり、セリアははぁっと息を吐いた。ランとカールの会話から察するに、カールはこの事態を予測していたのだろう。そしてそれを逆に利用した。敵をあぶり出す為に。
「何をしている」
後ろから聞こえた声に振り向くと、相変わらず感情の冷めた様なバイオレットの瞳。あれだけの事件に巻き込まれたにも関わらず、動揺一つ見せないとは。
「母が世話になった。礼を言う」
「あ、うん」
「…………お前も、私に何か言いたい事がありそうだな」
どうやら考えが顔に出ていたらしい。カールに視線を送るとセリアはゆっくりと言葉を吐き出した。
「危険な事は知っていたのね。それを分かってて、最初からリディアーヌ公爵令嬢を利用していたの?」
「何も無ければそのまま婚約していただろう」
「彼女は、本当に幸せそうだったのに」
「私と一緒になるより、いつか本当に惹かれた相手と結ばれる方が、お前達の言う、幸せ、というものだろう」
「…………でも、もしかしたら、カールだって怪我じゃすまなかったかもしれないのに」
「例えそうなったとしても、なんらかの形でこちらにも益はあった」
「っ!?全部分かってたのね。最初から、私達が止めようとした時も、ずっと。危険も承知で」
「だったらどうする」
冷ややかに言うと、カールは一瞬目を見開いた。セリアがその細腕で、カールの胸ぐらを掴み、そのまま引き寄せたのだ。体格差があるため体がかなり前屈みになるが、敢えて抵抗はしなかった。少女の茶色がかった瞳が臆する事なく自分を睨む様は、久しぶりに見るものだった。
再び瞳に冷たさを宿したカールだが、すぐまた驚きに目を見開く。今度は先程よりも長く。目の前では、自分より遥かに小さい少女が、自分の胸ぐらを引き寄せながら、心底安心した顔を見せているのだ。
「よかった。カールが無事で。本当に…」
「…………」
「お願いだから。出来る範囲で良いから。今度からは話して」
「…………」
「心配で、さっきはびっくりして……」
もう一度、よかったと零すセリアをカールはジッと見詰める。彼女の行動からして、怒るか責めるかするのかと思ったが、どうもこの少女の行動は予測不能である。胸ぐらを掴むという行為からして、普通の女がする様な行動ではないが。
その頬には、先程作ったのだろう、複数の真新しい擦り傷。その傷に指を這わせれば、今まで強気だった瞳がギョッと驚いた色に変わった。パッと胸ぐらを掴んでいた手は離されたが、カールは頬に添える手を降ろさない。
「………お前なのか…?」
この少女ならば、自分の隣に立ち、自分と同じ場所から同じ物を見る事が出来るのだろうか。カールはそんな疑問を抱いた。
利用出来る物は利用する。それが自分のやり方だ。婚約も、どこかの貴族の令嬢も、自分にとってもは利用価値があるか無いか。あれば今回の様に利用し、無ければそのまま捨て置く。ならば、結婚とて同じ事。自分に有益な縁談ならば、なんの迷いも無く受けるだろう。
しかし、この少女を手にするのは、他の女人によってもたらされる利益全てを投げ打つ価値があるといのだろうか。自分が望んだ、その存在になれるというのか。
真剣な瞳を見せるカールに対して、セリアは内心ビビりまくっていた。勢いでカールの胸ぐらを掴んでしまったのだ。しかも、強く。先程から自分を見詰める瞳は冷えきっていて、その口からはなんの言葉も発せられない。
セリアは、自分の頬に寄せられているカールの手は、なんとなく拘束する為なのではないだろうか、と考えていた。実際は、そんな事全くないのだが、恐怖で思考が麻痺したセリアには、そんな正常な判断下せる筈もない。それに、出来たばかりの擦り傷を、決して優しいとは言えない力で撫でられて、少し痛いのだ。
セリアがオロオロとしている場に、救世主が現れた。
「こちらでしたか、公爵がお呼びです。………カール?」
「……ああ」
直ぐに返事が返って来ない事を不審に思ってもう一度呼びかけると、それに漸く反応したにカールが背を伸ばした。その拍子に、今まで影で隠れていた小さな身体が目に飛び込む。
「セリア殿!?」
こんな人気の無い場所で何をしていたのだ。しかも、カールと二人っきりで。
何も無いだろう、という事は理解している。が、一瞬の動揺が顔に出てしまったのも事実。ザウルの表情の変化をカールが見逃す筈は無かった。すれ違い様にカールはフッと鼻で笑うと、ザウルの耳元で囁く。
「何を動揺している。今は、まだ何も無い」
今は、の部分を強調して言い捨てると、カールはそのまま何事も無かったかのようにホールの中へ戻って行った。カールの言葉に弾かれた様にザウルは振り向いたが、見えるのは長い銀髪を揺らす後ろ姿だけ。
まさか……!
「セリア殿!」
「は、はい!」
「カールに何か言われましたか?」
「えっ!あの、それは……」
途端に目を逸らしたセリアにザウルは唖然とした。セリアの行動を別の意味で取ったようだ。セリアは、もしやカールの胸ぐらを掴んだ光景を見られていたのか、と気まずくなり目を逸らしたのだが。しかし、ザウルにはそれが伝わらず、全く別の意味で捉えてしまった。
しかし、直ぐに冷静を取り戻し、そんなまさか、と考え直す。幾らなんでも、カールがそんな事を口にするとは思えない。
「セリア殿。カールと何をお話しされていたので?」
「えっと…その、今回の事、カールは最初から知っていたのかって」
「……………そうですか」
セリアの答えに取り敢えずは安堵する。しかし、カールの去り際に言った言葉がどうしても気になった。『今は、まだ』、そしてあの態度。あまり考えたく無い事態が容易に予想出来てしまって、ザウルはらしくもなくがっくりと肩を落とした。
「婚約を解消したそうじゃないか」
「はい」
「まあ、あれだけの事があれば無理もないだろう。君も色々大変だったね」
「お気遣い、ありがとうございます」
「何はともあれ、君が無事でいてくれて良かった」
カールハインツから改めて婚約解消の話を聞き終えると、彼が静かに退出するのを見送る。今日は珍しくクルーセルが居ないので、校長室は幾分静かであった。
校長がチラリと視線を動かした先には、今朝の新聞が豪華な机の上に置かれている。そこにはローゼンタール家で起きた爆破事件が、大きく取り上げられていた。しかし、肝心な所は一切が排除されており、テロや過激派の行き過ぎた行為、という事になっている。恐らく、世間体を気にしたローゼンタール家とパンデラス家が手を回したのだろう。
「犯人は毒物によって自殺……さて、何処までが本当なのやら」
『爆破犯、自殺』と新聞には書かれているが、果たしてこの記事を信じる者がどれだけ居るというのか。そのまま新聞から目を逸らすと校長は、部屋に構えている大きな椅子にゆっくりと腰を下ろした。
何はともあれ生徒が無事だった事に、校長はホッと胸を撫で下ろす。
だから、何でこの学園はこうも行事が多いのよ。それは楽しい事なのかもしれないけど、私は絶対に嫌。お祭り騒ぎが嫌いとかいう訳ではないけど。でも、やっぱり嫌だ。
どうして参加必須になんかなってるの?
それ以前に、こんな時までザウル達を頼る訳にはいかないよね。




