焦燥 5
すっかり日も沈み、夜の時間帯になる頃、セリアに連れられたアシリアは学園内のある場所へ来ていた。
「ここは……」
あまり人の来ない場所、と聞いてセリアが思いついたのは、ランとカールが決闘の場所として選んだ林に面した池の畔である。昇り始めた月が水面に映し出され、まるでそのまま二つ目の月が落ちている様だ。
ポツリと零したアシリアの言葉にセリアが返す。
「ここ。ラン達と初めて会った場所なんです」
「……ランスロット様と」
アシリアはギリッと唇を噛み締めたが、闇が邪魔してその姿はセリアには見えなかった。噛んだ唇を離すと、自分の少し前に立っているセリアにゆっくりと近づく。
そういえば、あの時は夢中で二人の間に入ってしまったのだったな。などとセリアは懐かしんでいるが、その横をアシリアが静かに通り過ぎたので本来の目的に集中する。
「あの、それでお話というのは」
「………」
自分を通り過ぎて池の近くに佇んでいるアシリアに声を掛けたが、その返事はいくら待っても返って来なかった。不審に思い、沈黙を守っている背中にもう一度問いかけると、その肩がゆっくりと上下する。アシリアが大きく息を吸うと、静かな声がその場に響いた。
「例の事件を起こしたのは……」
いよいよか、とセリアは真剣な面持ちでアシリアの次の言葉を待った。
「セリアさん。貴方ですよね」
「……はっ!?」
言葉の意味よりも、アシリアの今までに聞いた事が無い冷たい声に驚いて一瞬理解が遅れた。はっとして前を見れば、ユラリと怪しげに振り返るアシリアの姿。月明かりに照らされた少女は、普段の穏やかな性格からは想像もつかないほど冷ややかな目でこちらを睨んでいる。それはもう、何処かの魔人様もびっくりな程であろう。
「ち、違いますよ。私では…」
「いいえ。貴方です」
否定しようとした言葉を遮り、きっぱりと言われてしまってセリアも困惑する。
彼女の雰囲気からして明らかに冗談を言っている風ではない。しかし、なんでこんな状況になっているのか分からない訳であって、どう解釈したら良いのだろうか。
「人の物を盗んだのだから、学園を出て行くべきではありませんか?」
「えっと。ですからそれは」
「………なんでよ!」
突然響いたアシリアの怒鳴り声にセリアもビクリと肩を振るわせる。そんなセリアに構わず、アシリアは髪を振り乱す勢いで続けた。
「なんで貴方みたいなのが、ランスロット様の傍に居られるの!?」
ずっと、彼等を見て来たのだ。長い間ずっと。近寄る事も出来ず、でも忘れる事も出来ずに。
今でも聡明に覚えている。初めて彼等を見た時の、あの衝撃を。国の期待を一身に背負い、それに見合う光を放つ彼等は、いつでも周囲の憧れと羨望の眼差しの的だった。
自分も同じ様な視線を向けていたが、その内に彼等の一人に強く惹かれているのに気付いた。始めは戸惑ったが、それを幸せに思えたのだ。例えそれが憧れの延長線であっても、自分にはそれで十分だった。
ランスロットに対し、自分と同じ様な感情を持つ者がどれだけ居るかなど知っていた。それも当然だろうと納得もしていた。しかし、そこから一歩踏み出した者達の中に、望む結果を得た者が居ないのも事実。
どんな相手に対しても丁寧に接する様から、彼にとって大切なのは国と彼の仲間であると、何度も見せつけられた。女性に対し、優しく、そして決して特別を作らずに一線引いて接する場を見ては、その事は痛感したものだ。
しかし、それは自分も特別にはなれないが、他の誰もが同じだということ。それならば、遠くから見ているだけで十分だ、と決心した。自分達が、その特別の地位を望むなど恐れ多いと思うほど、彼等は高嶺の花であったから。
しかし、どんなに頭では理解していても、僅かな夢を見てしまうものだ。もしかしたら、自分を見てくれるのでは、と。少しでも彼等に近づける様に、少しでも彼等に見合う様に、と今まで必死に努力してきた。自分が生まれ持った「女」を磨いて、彼等の目に留まるように。それだけで、儚い夢を保つ事が出来たのだ。その状態が続いていれば。
「いきなり現れたクセに!」
「………」
それなのに、いきなり現れた冴えない転校生が、たった数日の内に彼等の隣に居た。今まで自分が思い描いていた、彼等の隣に立つ女性像とはかけ離れている地味な少女。始めこそ、彼女が彼等に勝手に纏わり付いているのだろう、と思っていたが、その考えが間違いだった事に直ぐに気付く。長い間ずっと彼等を見ていたのだ。微かであっても接し方や態度が変われば分かる。彼等はその地味な少女を、今までの一線引いた間柄ではなく、確かに仲間として見ていた。
「ランスロット様に相応しくもないクセに!」
セリアに近づいて、彼女を知っていく内に、自分の中で黒い物が段々と成長していくのを感じた。知れば知る程、セリアは自分の理想からかけ離れた存在だったからだ。これが、自分が目指しながら思い描いていた、完璧な貴族の令嬢に近い存在だったならば、まだ諦めもついただろう。
しかしセリアの行動は、まるで今までの自分の努力を嘲笑うかの様だった。裁縫の一つも満足に出来ず、奥床しさの欠片も無い。礼儀作法も完璧にはこなせていないセリアを、彼等はそれでも受け入れたのだ。
それを見た瞬間、自分の中で何かが切れた。抑えの利かない何かが。
「始めに階段から突き飛ばしたのも貴様か」
アシリアのでもセリアのでもない、まるで背中を這い上がる様な恐ろしい声が後ろから掛けられた。驚いてセリアが振り向くと、そこには木々の間に立つ魔人様。その睨みは決して自分に向けられている訳ではないが、横から見ているだけで竦み上がりそうである。しかし、アシリアはその視線を受け止め、剰え睨み返しているのだから驚きだ。カールの突然の登場にも、全く同様していないようである。
「あれで候補生様が離れて行ってくれれば良かったのに」
もし、彼等がセリアから少しでも離れて行ってくれればそれで良かったのだ。セリアなど、取るに足らない存在だと、自分達が恐れるに値しない存在なのだと、示してくれればそれで満足出来た。しかし、そんなアシリアの期待を見事に裏切って、彼等はセリアに対する信頼を自分に突きつけたのだ。
だから今回の事を起こした。
アシリアとカールのやり取りを聞きながら、セリアは幾らか心が痛んだ気がしていた。普段はこれでもか、という程鈍い頭をフル回転させ、必死にこの現状をまとめる。
つまりアシリアも、他の女生徒方同様、候補生と自分が親しくするのを快く思っていないのだろう。自分と友人になってくれたと思っていたアシリアが、まさかそんな風に思っていたとは。予想外なアシリアの行動は、少なからず衝撃を与えた。昔から、自分が好意を抱いた者からの拒絶や嫌悪には慣れている筈なのに。今までとそう変わらない筈なのに、ここまで打撃を受けるほど自分は弱くなってしまったのだろうか。候補生達が自分を受け入れてくれたから、自然と甘えが生じていたのかもしれない。
その内に、遅れていた候補生達も次々とその場に集まって来た。バラバラに探していたが、見当たらないとなると、やはりこの場所が思い浮かんだようだ。そして、アシリアとセリアを睨むカールを見て瞬時に状況を察する。
ランスロットもその場に来たことを確認すると、アシリアは一瞬怯んだが、またすぐにセリアを睨みつけた。
「何がどうあれ、それなりの処分は免れんだろう。退学は覚悟することだ」
「えええっ!!」
カールの言葉に驚いたのは当のアシリアではなく、セリアだった。オロオロとするセリアを、今度は何だと呆れ顔のカールが見やる。
「そ、そこまでする必要はないんじゃ…」
「自分を貶めようとした人間を庇うのか」
「庇うとかそういう事じゃなくて……実際被害も出てない訳だし」
退学までする必要は無いのでは。と続けようとしたが、後ろから腕を掴まれ、それは叶わなかった。
「同情なんてまっぴらよ!!」
グイッと掴まれた腕を引かれそのまま池へ向かって投げ出された。咄嗟の事にバランスを崩したセリアは、重力に逆らわずそのまま落下していく。反射的にセリアが腕を伸ばしてアシリアの腕を掴むと、予想していなかったのか、二人分の体重を支えきれずにアシリアも一緒に落ちてしまった。
全く予想外の出来事に、候補生達は目を見開いて二人が落下していく様を見詰める他ない。バシャッと派手な水音がして波紋が池の真ん中辺りで輝いていた月まで到達すると、セリアとアシリアは同時に水面から顔を上げる。
池自体はそんなに深くは無いが、頭から突っ込んだセリアは全身ずぶ濡れの状態だ。池の底に座り、胸の辺りまで水に浸かった状態で呆然としていたが、肩を掴まれ揺さぶられた為に直ぐに現実に引き戻される。
「なんで貴方なんかが選ばれたのよ!」
何度考えても、必死に思考を巡らせても、その答えだけが出て来ない。どんなに怒りを押さえようとしても、いくら諦めようとしても、最終的にその疑問が頭に浮かび、押さえつけた筈の感情がぶり返した。
「どうして、私じゃなくて貴方なのよ……」
セリアを揺さぶる手を止め、項垂れながら吐き出した言葉は、今までとは違いとても弱々しい。
「あの……アシリアさん…」
声を掛けた瞬間にギロッと睨まれ、条件反射でセリアは怯むがそれでも負けじと言葉を続ける。
「その…私と彼等はただの友人ですし、アシリアさんもそうだったではないですか。選ばれたとか、そうでないとかでは無いです。
それと、アシリアさんのお気持ちは分かりますが、こんなことをしては周りも、アシリアさん自身も傷付くだけなのでは?」
その言葉にはっとしてアシリアが横を見ると、ランスロットの非常に残念そうな、悲しそうな瞳と視線がぶつかった。そして体からサアッと血の気が引いて行く。セリアに言われて、漸く自分がした事は、ただ自分を更に彼等から遠ざける結果に終わったのだと悟った。それを覚悟していなかった訳ではない。しかし、ランスロットのあんな表情を見るのを、自分は何より恐れていた筈なのに。
セリアの言葉を理解すると同時にジワリと込み上げて来た涙を見られまいと、アシリアはサッと立ち上がりその場から駆け出した。
「……」
その場から逃げる様にして走り去ったアシリアを追おうとしたセリアを、候補生達が止める。
「今お前が行っても逆効果だろ」
「そうだね。少しそっとしておいた方が良いかも」
それでも心配そうな顔をするセリアの隣にすっとランが立った。驚いてそちらを向くと、彼はすぐさま上着を脱ぎ濡れた肩を覆う様に掛けてくれたのだ。
「ああっ!ふ、服が濡れるよ!」
「濡れたら乾かせば良い。それより、そのままでは風邪を引く」
慌てて上着を返そうとするセリアをラン自身が制した。
今の季節は冬に近い秋で、夜の風はかなり冷たい。そんな中、全身ずぶ濡れの状態でいれば、風邪でもなんでも簡単に引いてしまうだろう。セリアは、出来るだけ早く寮に帰した方が良い。アシリアの件は明日考えるとして、セリアを安全に(これ以上何かに巻き込まれない様に)寮まで送るべく、候補生達は歩き出した。
候補生達に四方を囲まれるようにして歩いているずぶ濡れの少女の姿を見た一般生徒達は、ぎょっとしていたが、彼等の間を流れる緊迫した空気にさっと目を逸らす。
そんな視線に気まずい気持ちのまま女子寮の前まで来た所で、連行されている気分から解放されたセリアは、ホッと安堵の息を漏らした。
「今夜はお疲れでしょうが、出来るだけ身体を暖めて休んでください」
「じゃな」
無事セリアを寮まで送り届けると、候補生達もそれぞれのいるべき場所へ帰ろうと踵を返した。しかし、その背中をセリアが咄嗟に呼び止める。
「あ、あの!」
「どうした?」
「その、アシリアさんの事はもう少し待っていただけないかと」
「はっ………!?」
「えっと、まだ話したい事があるとというか、なんというか」
当事者であるセリアが望むなら、それを優先させるべきなのだろう。待ってくれ、と改めて言われてしまえば、候補生達も言い返せなくなる。しかし、なにをする積もりなのかと不安になるのも事実。候補生達が眉を寄せると、セリアがまた焦りだす。
「候補生の立場も理解しておりますですが、被害は出ていないし、明日一日程で良いので、だから……」
もはや自分でも何を言っているのか思考が追いつかない状態だが、それでも必死に考えを言葉にする。その様子に候補生達もフッと笑うとゆっくりだが頷いた。これ以上粘られても、セリアの身体が冷えるだけだ、と思っての行動だ。漸く安心した様子のセリアにさっさと中へ入るよう施すと、彼等は今度こそ寮へ向かって歩き出した。後ろから大きな声でセリアが「ありがとう」と言ったのを聞きながら。
何に対しての感謝なのかは分からないが、自然と口の端が吊り上がってしまうは、気のせいではないだろう。
「…………」
セリアの意見に頷いたものの、彼等は実際どうしたものか、と悩んでいた。勿論、約束したのだからアシリアの件を学園側に報告する事はまだしない。しかし、だからといってセリアを不用意にアシリアに近づけてよいものだろうか。
「まあ、大丈夫じゃないかな。アシリアも、流石にもう何かする事はないだろうし」
「ですが、セリア殿に任せるのもどうかと」
思い浮かぶのは、頼り無さげなセリアの姿。なんだかんだと言っても不安は拭いきれず、候補生達は頭を抱えていた。
「なんにせよ、お前も後々どうするか考えておく必要があるよな」
チラリとイアンが送った視線の先では、ランが思い切り難しい顔をしながら、なにやら考え込んでいた。一応、彼にもアシリアの行動の理由が伝わったらしい。見方によっては、相手の気を引く為にした可愛気さえある行為とも取れるのだが、それでもあまり気分の良いものではない。自分達の友人がそれで酷い目にあっているのだ。今回ばかりは快く受け入れられるものではないだろう。
しかし普段は女性に対して非常に寛大で、それを貫き通して来たランだ。アシリアも女性、という事でどう対処して良いか悩んでいるのだ。
「とにかく、様子を見る以外ないよな」
仕方が無い、といった風の言い方をするイアンに、それ以外方法は無いだろうと、再び肩を落とす候補生達の影が談話室にぼんやりと映った。
「退学願い!?」
「そうなのよ。急な話でね。何か聞いてない?」
午前の授業が終わった昼休み。クルーセルに言われた言葉にイアンとランは驚いた。
今朝、アシリアが校長室に来て退学願いを提出して行ったのだという。その場に偶然にも(いつものように)居合わせたクルーセルも理由を聞いたが本人が何も答えなかった為、最近彼女と親しくしていた彼等に何か心当たりがないかと聞いて来たのだ。
「いえ。自分達は何も……」
「あらそう。それにしても残念ね。セリアちゃんにとっても良いお友達だったのに」
「…………」
本当に残念だわ、とがっくりと肩を落とすクルーセルを置いてイアンとランは足早に歩き出した。セリアにもこの事を知らせる為だ。アシリアの退学願いは数日の内には正式に受理されるだろう。だとしたら、セリアと対話できる時間も限られてくる。昨日の今日でいきなりこれとは、どうもアシリアという娘は自分達が想像する以上に大胆な少女らしい。
廊下を去って行く二人を、クルーセルは先程まで嘆いていた姿がまるで嘘の様に微笑んで眺めていた。彼は常に周りで起こる物事を面白がっているが、今も実に楽しそうな目で小さくなっていく背中を見送っているのも、その為なのだろうか。クスクスと忍び笑う声が暫くの間廊下に木霊していた。
「…………」
「…………………」
非常に微妙な空気が温室に流れる中、アシリアは休む事無くセリアを睨み続けていた。その視線を懸命に受け止めながらセリアはどう切り出そうかと考えを巡らせている所である。
廊下で偶然擦れ違ったアシリアをなんとか呼び止めここまで連れてくる事には成功したのだが、この後どうしたものか。
いや。ここで怯んではダメだ。彼女に会って確認したい事があったのではないか。と自分を奮い立たせなんとか口を開く。
「あの……」
「何よ!私は貴方に謝るつもりは無いわよ」
「うっ!あの、そう言う訳では……」
「だったら早くしてよ!私は貴方の顔も見たくないの!」
言われる度にグッとくるものがあるが、ここで怖じ気づく訳にはいかない。
「あのですね……アシリアさんは、その……ランのことが、す、好きなの、ですよね?」
さも自信がないといった風にアシリアに尋ねた瞬間、彼女の眼光に鋭さが増したので、今まで必死に抑えていたが遂に怯んでしまった。
「アナタ!私をバカにしてるの!?」
「い、いえ。決してそういう訳では」
「あんな素敵な方、惹かれないなんて無理よ!!」
そう大声で言われたアシリアの言葉にセリアはやっと納得する。昨日の会話で薄々だがそうなのかと予想していた。確証を得る為に確認したが、やはりそうだったのだ。
「あの、そのことランには」
「……今更……伝えられる訳が……」
「そ、そんな!ダメですよ」
「はっ!?」
思っていなかったセリアの反応にアシリアは聞き返してしまった。
セリアにしてみれば、折角のアシリアの気持ちを部外者である自分が知っていて、本人に伝わっていない、というのは非常に勿体ない話ではないか、という事なのだが、それを今まで知らなかったのは自分だけということを、セリアは少しも理解してはいない。
「あの、私今からランを呼んできますから」
「ちょっ!?」
「そしたらランと少し話しを…」
「待ちなさいよ!!」
今にも温室を飛び出そうとしていたセリアに遂に我慢の限界が来たアシリアは怒鳴りつけた。
「何処まで私を馬鹿にするつもり!そんなこと出来る訳がないでしょう!それに、私なんかランスロット様は相手にしてくれないわよ!」
一息で言い切ったアシリアは、激しく肩を上下させている。そんなアシリアにセリアは振り返ってゆっくりと口を開いた。
「あの……そんなことないと思いますよ。ランだってそんな女性の気持ちを無下に扱うようなことはしないと思うのですが」
「………」
「それに、ランは凄く優しい人ですし。それはアシリアさんもよくご存知なのでは……」
あのランが他人を不用意に傷つけるとは思えない。何より、こんな美人に好かれてランも嬉しく無い筈が無いだろう、というのがセリアの素直な考えである。
「とにかく、少しここで待っていて下さい」
「あっ…」
困惑した表情のアシリアを置いて、セリアは温室を半ば飛び出す勢いで出て行った。その姿を、止める間も無くアシリアはただ呆然と見送るしかなかった。
「あいつは何をしてるんだ?」
「………」
温室の外でセリアとアシリアの会話を立ち聞きしていたイアンは、思わず隣のランに尋ねた。尋ねられた方も何と答えたら良いものか、と表情を崩す。
決して立ち聞きする積もりでは無かった二人だが、セリアとアシリアのしている会話の内容を知って、入るに入れない状態だったのだ。そうして聞いている内に段々と妙な方向へ話が向かってきたので焦りだしたのである。
中の様子を伺っていると、セリアが外へ出てくる所なので、イアンはその場で呆然としているランを残してさっさと隠れてしまった。出て来たセリアは、その場に丁度探していた人物が居た事に驚いている様だ。
「ラン。あの、温室に用事だよね。えっと……私は用事があるので、先に中に入っていて貰えますでしょうか。宜しく」
変な喋り方をして、何か隠していますというのがバレバレであるセリアは、ランをそのまま温室へ押し込むと、自分はサッとその場を離れた。
頭の整理をする暇も無く、温室に入れられたランは、突然の来客に呆然としていたアシリアと同時に我に返った。そして、妙に胸の内がすっきりしない様な感情に襲われる。というより、セリアの行動にちょっとばかし不満を覚えた。アシリアと。自分に好意を寄せる人間と二人きりにして、それでセリアは何も思わないのだろうか。
と、そこまで考えて、自分の思考に疑問を抱く。自分はセリアに何を感じて欲しいのだ。いや、特に何も思って欲しい訳では無い。それに、セリアのこれくらいの行動は不思議ではないではないか。直ぐに行動に突っ走ってしまう彼女だ。それは十分理解している訳であって、彼女の行動を不満に思う必要など無いのではないか。
しかし、そこまで理解しても、胸に捨てきれない行き詰まりの様な物は消えなかった。その事にも疑問を抱く。
「ランスロット様……」
弱々しく吐き出された言葉は自分の名前で、その声にはたと現実に引き戻された。声の方を見ると、昨日の姿からは想像が出来ないが、力なくこちらを見詰めるアシリアの姿。それを見て、ランはまだぼんやりと残る疑問を頭の隅に追いやる事にした。
ランを温室に押し込めたセリアは、次の自分の役目を果たすため少し離れた場所で待機していた。彼女の役目とは、ランとアシリアの話が終わるまで、温室に誰も近づけさせないというものである。二人を引き合わせたのは自分なのだから、これも自分がするのが当然である、とセリアは妙に気合いを込めていた。しかし、そんなセリアの意気込みを他所に、いきなり関門が現れる。
「よぉ、セリア」
「イアン!」
咄嗟に隠れた場所から、こっそりと回り込み何食わぬ顔で出た来たイアンは、引き攣る頬を必死に押さえながらセリアに近づいて行った。その内でも内心では、一体何をしているんだお前は、と叫んでいるのだが。本来ならここはアシリアの行った行為への対処を考えるべきであって、恋路を応援している場合では無い。にも関わらず、何をするかと思えば、また頭を抱えたくなるような事を。
「あっ!その……今は温室には近づかない方が良いというか。私がさせない、というか」
必死にイアンを遠ざけようとして、他人が聞けば若干物騒にも聞こえる言葉になっていたがセリアは気付いちゃいない。
その姿にも笑ってしまいそうになるが、ここは我慢である。
「中にいるのはアシリアか?」
「……!?」
何故バレたのだ!?とセリアはかなり動転していたが、イアンが事の成り行きを立ち聞きしていなくても焦りまくっているセリアから容易に想像出来る事を、本人は全く分かっていない。
「アイツは今朝、退学願いを出したそうだぜ」
「えええっ!!」
「驚き過ぎだ」
驚愕したセリアを落ち着かせる様にイアンは彼女の頭に軽く手を乗せたが、あまり効果を成していない。
いきなり伝えられた事にセリアが驚くのも無理はないが、考えてみればそれは当然かもしれない。アシリアの行為が学園側に知れれば、退学を進められる事は想像に難く無い。気位の高い貴族の令嬢が、学園から退学を言い渡されるのは堪え難いだろう。
それに、例え今回の事を候補生とセリアが学園へ真相を報告する事をしなくても、アシリア自身は恐らく学園に留まる事を良しとしない。もうセリアと友人関係を続けて行く事は出来ない、ので当然候補生達からも遠ざかる。再びセリアと候補生達が親しくする様を見せつけられながら過ごすのは、彼女にとって最も辛い事だ。
そうなると、これが彼女にとって一番良い方法なのかもしれない。
「お前がそれで良いなら、そっとしといてやれ。勿論、学園側に何があったかを報告して、きちんと処分を決めて貰うのもありだが」
イアンが言うと、セリアはブンブンと首を横に振った。予想通りの反応に、イアンも苦笑してしまう。今回、被害を被ったのはセリアだ。その彼女が良いというなら、自分達は口出しはしない。これが、昨晩彼等が出した結論である。
しばらく二人で温室を見守っていると、中から目を腫らしたアシリアが出て来た。そのままこちらを見ようともせずに去ろうとするので、セリアも声を掛けられずにその姿を見守る。あっという間にアシリアは遠くの方を歩いていて、その姿を学園内で再び目にする事は無かった。
「やはり、今回も失敗か」
残念です。と語った口調は、全く残念そうではない。
学園内のある一室で、夜なのに明かりも点けずにその影は壁に背を預けていた。
今回は少し方向性を変えてみたのだが、中々上手くいかないものである。
「これで一体何度目だろうか」
まあ、元々見込みはなかったので、落胆も少ないが。しかし、この学園の生徒はいずれも自分の期待を裏切ってくれる。以前も、下らない理由で恨みを抱いた生徒に手紙を送ってみたが、それもあっさり失敗に終わった。やはり、憎しみや怒りで目を曇らせた生徒では駄目だという事だろうか。
いずれにせよ、自分に目が向く様な要素は何処にも残していないので、身の安全は全く心配していないが。
「まあ、多少の収穫は…」
今回の事で、事態が今までに無い動きを見せた事で、この先の行動もこの方面にしようかと考えた。そういう意味では、少しの成果があったといえる。
何にせよ、また次の機会を待たなければ。
しかし、焦る必要は無い。まだ時間は十分あるのだ。
暗闇に向かって怪しい笑みを送ると、その影は一度その顔を月に映し、再び静かに夜の闇に溶けて行った。
彼は常に高みを見据え、そこへ向かって真っ直ぐに向かっている。自分とは比べ物にならない程、カールは強いお人です。いつも自分の情を切り離し、その時々の必要に応じて正しい判断をする。だからこそ、彼の胸の内を理解するのは難しい。
どんなに理性で正しいと思っていても、彼は感情で何を思っているのでしょうか。