公爵家への招待
カールとセリアの甘々な話を……
煌びやかな輝きを放つ王宮の廊下を、視線は資料に落としたままセリアはせっせと歩いていた。
マリオス補佐としてジークフリードの下に着いてから五ヶ月。目まぐるしい補佐の仕事にも漸く慣れてきた頃だ。
とはいえ、慣れたからと気を抜く暇はない。ジークフリードの視察へ同行してクルダスの南地方から戻ったばかりのセリアは、ジークフリードが陛下への報告事項を伝えている間に、視察の結果を財務府へ提出しなければならない。
その後の予定を考えると、財務府へ行った後に昼食をねじ込みたい所だが。
官職や貴族の集うサロンでじっくり調理され丁寧に盛り付けられた料理をゆっくり味わう時間はない。ということは、またこっそり使用人用の大食堂に紛れるしか方法は無いだろう。
あそこならば行儀を気にする必要はないし、仕事に勤しみ時間の無い使用人の為に食べやすいメニューも頼める。そしてセリアにとって好都合なのは、食堂を占める大勢の使用人に紛れてしまえば誰も彼女に気付かないという点だ。
そんな風に予定を決めていると、煌びやかな廊下の奥から、磨かれた壁や窓以上に光り輝く男の姿が見えた。
見紛う筈もない。今ではセリアと同じく、マリオス補佐として日々仕事に勤しみ、更に言えば恋人という立場になるカールハインツ・ローゼンタールだ。
「カール……カールも財務府だったの?」
「いや、軍部だ。遠征訓練の演習地への口出しが、よほど気に入らんらしい」
「あ、まだ陸軍が…… 隣国のレイスレルダスとの山岳地帯周辺の国境問題は、軍部も分かってる筈なんだけど」
政治的問題よりも、誇りを気にする複数の陸軍将官の顔がセリアもすぐに浮かんだ。とはいえ、そこにある国への忠義の心を知っているので、彼等も最終的には受け入れるてくれるとセリアも心配はしていないが。
それよりも心配すべきは目の前の男の忍耐だ。
「顔を立ててやっている、というこちらの温情が理解出来んとは。これ以上意味の無いことで私の時間を取る気ならば、その身の程知らずな顔を、次こそ潰すまでだがな」
「そ、それはちょっと…… ほら、またそんなこと言うとランと喧嘩に…」
「あの男の名を出すな。不愉快だ」
仮にも友人であるというのに。名前だけで不愉快と吐き捨てるとは。
言葉の選択を間違ったかもしれない。とセリアは若干冷や汗を流した。
カールが本気で怒れば、きっと彼の言葉通りゴネる将官に何かするかもしれない。それも、後々に遺恨を残すような下手をこの男がする筈がないので、彼等が今後カール相手に意見しようなどと思わなくなるほど徹底的に。悪ければ再起不能なほどに。
ローゼンタール家の権力と、この僅か数ヶ月でマリオス補佐として積み上げた目覚ましい功績を考えれば、決して出来なくはないことだから恐ろしい。
とはいえ、あまり立ち話をしている時間はないし、カールも同じく忙しい筈だ。こうして少しでも会えたなら十分だとセリアは小さく笑って話を切り上げる。
「それじゃあ私は行くね」
「……待て」
「えっ?」
予想外に呼び止められ、セリアは目を見開くが、呼び止めたカールの方が何処か難しそうな顔をしていた。
どうかしたのだろうか。先ほどの軍部の話をした時よりも、眉が寄っている。
セリアが首を傾げると、カールが諦めたとばかりに短く息を吐いた。
「母が……またお前を招待したがっている」
「えっ?あ、ああ。イレーネ様が」
もっと重大な案件を予想していたので、思わず拍子抜けしてしまった。しかし、これはこれで十分重要な事でもある。
「ジークフリード様との視察が問題なければ、三日後は予定が空いていた筈だな」
「うん。三日後の午後から、翌々日まで。一応お休みを貰ってて…… えっと、特に予定も無いし」
「ならば、仕事の後部屋へ迎えに行く」
「あ……お、お願い」
セリアが頷いたのを確認すると、カールは今度こそ話しを終えて廊下を歩き出した。
その背を見送りながら、セリアは今の会話を反芻しては期待が膨らむのを自覚する。カールと休日を過ごすのは初めてのことだ。
補佐として仕事の合間に休みを貰えることになっているが、それぞれ付いたマリオスの予定によって、休みを挟める日は異なる。補佐の役目に着いてから、カールや他の友人達と休みが重なる日は稀だった。
それだけ補佐としての仕事が充実していたと言えるのだが。次の休日がこれだけ楽しみなのは、久しぶりだ。
それに、カールの母でありローゼンタール公爵夫人であるイレーネに会えるのもとても嬉しい。フロース学園を卒業し、マリオス補佐に就任するまでに一度だけカールに招待され、イレーネに驚く程歓迎して貰ったのだが。
財務府への道すがら、その時のことをセリアは思い出す。
セリアの生家、ベアリット家に一通の招待状が届けられたのは、セリアがマリオス補佐就任の書状を受け取り、喜びを噛み締めてから数日後だった。
公爵家の使者から丁寧な挨拶と共に是非公爵家へ来てくれという内容の書かれた手紙を送られたのだ。
それを見た時の父、オスカルの表情は非常に混乱したものだった。友人の家からの招待にしては、使者を使ったり招待状を送ったりと妙に仰々しい。
どういうことだ?と父に問われ、セリアもかなり悩んだ。どう説明したら良いか分からず、というか説明する為に使用しなければならない言葉の数々が気恥ずかしくて仕方なかった。
けれどなんとか、カールを好きだということと、彼も同じ言葉を返してくれた、という事実を喉から引きずり出せた時はホッとしたのだが。
そして驚愕に目を見開き、口まで開いたままのオスカルが気持ちの整理がつく前に、約束の日となり手紙にあった通り、一人の男がセリアを迎えにやってきた。
「カール!久しぶり」
「ああ」
玄関ホールで出迎えたセリアを見たカールは、短く頷くと徐に手を差し出してきた。どうかしたのか、とセリアがそれを黙って見つめていると、カールがその麗しい眉を寄せる。
「さっさと手を出せ」
「えっ?あ、はい」
何故だ、と問う間もなく、鋭く睨みつけられセリアは素直にそれに従う。すると、自然な動作で差し出した手を取られ、ゆっくりと腰を折ったカールが甲に口づけを落とした。
と分かった瞬間に、カッと熱が広がったセリアは、思わずその手を思い切り引いてしまう。
「わっ!?わ、わぁっ!!」
「…………」
途端にしまったと思った。カールの纏う雰囲気の温度が下がり、寄っていた眉が更に皺を作る。
「相変わらず、礼儀の欠片も心得が無いのか。お前は」
「だ、だって!だって、カールがいきなり…… そんな、あんまりされたことないのに。急にだったから、驚いて」
が、この場合どう見ても悪いのはセリアであり、自覚もある為どうしても言葉が尻すぼみになる。なんとかこの状況を打開せねば、と必死に思考を動かしたセリアは、なんとも単純だが話題を変えるという手に出た。
「そ、その、えっと。む、迎えに来てくれてありがとう。ごめんなさい、わざわざ」
「……構わん」
カールの返事まで一瞬の間があったが、短く返された答えに、セリアはホッと安堵する。
そんな会話を玄関でしていると、後ろからここ数日で定着してしまった、若干頬の引き攣った笑みのオスカルが現れた。
「カ、カールハインツ君。あ、ええ……娘を迎えに来てくれたこととても感謝しているよ。悪かったね、わざわざ」
「…………いいえ。お構いなく」
セリアの声は届いていなかった筈だが、ほぼ同じ台詞で会話を始めたオスカル。その動きは、引き攣った笑み同様、何処かぎこちなかった。
「ベアリット伯爵。ご令嬢を我が家に招待すること、許可して戴き感謝します」
「い、いや。娘もとても喜んでいるよ」
「……では、セリア嬢をお預かりします」
「ああ、あ、ああ。頼もう」
そのままセリアをエスコートしながら扉の外へ向かうカールの背に、オスカルは内心必死に声を出そうと喉を叱咤していた。
やはり、ここで聞くべきだろうか。カールハインツに、まさかセリアと結婚を考えているのか、と。いや、娘には自由な恋をしてもらいたいと望んでいたが、相手がローゼンタール公爵家の嫡男になると誰が予想しただろうか。
父親として、娘を守るべき立場を持つ父として、断言しても良いが、セリアに公爵夫人は荷が重い。マリオスになると言われた時は、純粋にそれを応援する気持ちだけが湧いたのに。公爵夫人と言われては不安しか無い。
しかし、それを言えばもしかしたら、伯爵家へ婿に来いと言っているようにも聞こえるかもしれない。ローゼンタール家の嫡男を婿に取るなど、自分ですら何を言っているのか分からない。
そもそも将来的に結婚につながるようなことなのか。
とにかく、なんでもいい。何か言わなければ。そうオスカルは思うのだが、引き攣った笑みと喉がそれを阻む。結果、扉の向こうへと消えていく娘とローゼンタール家嫡男を、オスカルは笑顔で見送ることとなった。
実家から馬車で駅まで移動し、汽車に乗りまた馬車でカールの家を目指す。その途中の汽車の中で、セリアはホッと息を吐きながら目の前の男に視線を向けた。
「あの、聞いたよ。カールもマリオス補佐に就任したって。おめでとう」
「当然だ」
当たり前のように言われ、セリアも一瞬頬が引きつる。こちらが、マリオス補佐の通知が来るまで生きた心地がしないほど緊張していたというのに。就任は当然だと言ってのける自信が、羨ましい。
「お前の就任も当然だろう。何を今更」
「……そんな風に言い切れるほど、私は自信があった訳じゃ」
「我々が目指すのはマリオスであり、その先だ。補佐程度でその様に弱気になってどうする」
「それは、そうなんだけど」
相変わらず棘のある言い方だ。が、男がセリアの就任も当然だと言ってのけたのが、セリアには若干むず痒くもあったので、あまり言い返す気にはなれなかった。
それにしても、マリオス補佐をその程度とは。補佐だとて、マリオスを支え国の為に貢献する立派な職務だというのに。
しかしそれを言えば、十にも百にもなって冷たい視線と共に反論が返ってくるのは解っているので、セリアは言葉を飲み込んだ。
そんな風に他愛も無い会話を繰り返していれば、あっという間に汽車を降りる時刻になった。
エスコートされるという事にあまり慣れていないセリアだが、ここでまた手を跳ね除けてカールの睨みを向けられることも避けたい。ので、ぎこちなくはあるが、カールの腕を取って汽車を降りる。
「ぎこちないな」
「……ご、ごめんなさい」
「もう少し寄れ。歩きにくい」
「うっ、うん」
セリアがガチガチと身体を硬くする為、必然的にカールも動きにくくなる。だらといってセリアの腕を離すことはせず、小さく眉を寄せるだけに止めた。
カールにぎこちないからと軽く引き寄せられたが、セリアは更に身を硬くしてしまう。カールに触れるとそれだけでその部分が熱を持つのは相変わらずだ。その熱を感じると、どうしても動きが鈍くなってしまうのだが。
が、それも駅を出るまでで、待ち構えていたローゼンタール家の家紋付きの立派な馬車にさっさと押し込められる。公爵家のものだけあって見事な装飾と造形に、見惚れる暇もない。
素晴らしい外見に違わず、中もフカフカの席と床に、横になれる程の広さの馬車で、セリアは思わず小さくなっていた。
明らかに、カールの機嫌が下がっている。やはり先ほどのエスコートの件で、気分を悪くしたのだろうか。しかし自分はそういうのにどうしても慣れていない。しかも相手がカールでは、緊張と熱で身体が硬くなってしまうのはどうしようもないというのに。
内心文句はあるものの、やはり自分が悪いのだろうと、セリアは小さく謝罪を口にする。
「あの、ごめんなさい」
「……なにがだ」
「えっ?だから、エスコートに慣れてなくて」
「そんなことはどうでも良い」
言われてセリアはキョトンと目を見開く。そのことで怒っていたのではないのか。ならば一体カールの不機嫌の原因はなんだろうか。
湧き上がった疑問は、すぐにカールが解消してくれた。
「それよりも…… 覚悟しておけ」
「へっ?か、覚悟?」
思いもよらなかった言葉に、セリアは当然身構える。この男が覚悟しろというなど、珍しいどころの話ではない。常に余裕気な態度を崩さないカールが、顔を渋らせて警戒するなど、相当のことなのだろうか。
「……母が、お前を非常に歓迎している」
「えっ!?あ、ああ。うん、イレーネ様もお元気そうで良かった」
招待状に添えられた手紙には、イレーネからのものも含まれていた。カールとのことで少し気まずくなるのでは、とセリアは危惧していたが、文面からはセリアのよく知る優しさや朗らかさが滲み出ていた。
学生時代も、自分達候補生をカールの友人として何度も招待し、その度に手厚く歓迎してくれたイレーネのことは、セリアも慕っていたからホッとしたものだ。
けれど、今回は少し事情が違うし、一人で公爵家を尋ねるのは初めてのことなので、イレーネとどう話を切り出すかまだ少し悩むところだが。
「すぐにでも、お前を迎えたいと言って、こちらの言葉を聞かれない」
「えっと、うん。今日も招待して下さったんだし」
「そうではない」
「えっ?」
カールの眉間の皺が増えるものだから、セリアもどうしたのだろうかと首を傾げてた。イレーネが歓迎してくれるのはむしろ有難いことなのだが、何が違うというのか。
「我がローゼンタール家に迎えたいと」
「だから、今回の招待が……」
「花嫁として、すぐにでも式を挙げ、盛大に我が家へ迎え入れろ、と。仰っている」
「…………え、えええええ!」
馬車の中だということも忘れて、セリアは思い切り声を張り上げてしまった。目を白黒させて事態を整理しようとするが、言葉の意味は理解出来てもそれ以上は思考がから回るばかりだ。
つまりすぐにでも結婚しろと言っておられるのか、カールの母は。それは、幾らなんでも気が早すぎるというものではないだろうか。
セリアがパクパクと声にならない声で口を動かしいれば、カールが短く息を吐き出した。
「私の言葉だけでは納得されない。お前からも説得しろ」
「……あ、えっと、うん」
説得しろ、と言われセリアは我に返ったが、それならば何と言えば良いのだと思わず俯いた。
カールとの結婚を考えてくれているイレーネに、考え直せと言うことはつまり、カールとの結婚を自分が望んでいないということになるのではないだろうか。
そう思うと、セリアは小さく拳を握って内心で首を振った。自分は決して、結婚を望んでいない訳ではない。真剣に考えると小恥ずかしいが、カールを好きだという気持ちは本当だ。カールの傍に居たいと願った。以前の自分なら考えられなかった結婚というものだが、カールを想う今、それを望む心が自分にはある。それなのに、イレーネの言葉を否定するのは違うのでは。
俯くセリアが眉を寄せて拳を握る姿に、カールはまた短くため息を漏らした。
「解っている」
「えっ?」
「どうするにしても、今は時期ではない。お前は叶えたい望みの為に、果たさなければならないことがあるはずだ。勿論私も」
「……うん」
「互いに、身辺を慌ただしくすることは望ましくない。婚約も、同じこと」
落ち着いた声でそう言ったカールに、セリアは大きく同意した。
今はとにかく、マリオス補佐の就任が決まったばかりだ。マリオスを目指す自分達には、それが何よりも優先されるべきもの。国の為にと、交わした誓いを今再び胸にしっかりと刻む。
しかし……
「あの、カール……」
「なんだ」
「でも、その、あの……私は」
言いづらそうに口籠るセリアにカールが静かな視線を向ければ、意を決したようにセリアが顔を上げた。
「私は、望んでない訳じゃなくて。マリオスの事で今は頭が一杯で。だからしっかりと考えてる訳じゃないけど」
マリオス補佐就任のことで、結婚というものをきちんと考えている暇が無かった。公爵家と伯爵家だとか、互いの立場だとか。きっと悩むべき事柄は幾らでもあるのだろう。
そもそも、カールの事を好きだと自覚し、そのことを伝えてからそこまで時間が経っていない。ゆっくり考える時間などなかった。まず第一に、結婚がどういうものか、そこから理解していない部分が多い気がする。
「でもずっとカールの傍に居たいって思う気持ちは本当で。考えなきゃいけないことが多すぎてきちんと纏まらないけど。だから……」
その気持ちがあることだけは、きちんと伝えたい。万が一にでも、カールに誤解されたくはなかった。考えている暇が無かったと言ったが、だからといってまるで願っていない訳ではないのだ。カールへの気持ちを自覚した時、思わず自分で想像してしまった程なのだから。
そう懸命に言葉を紡ぐセリアを見て、カールはその紫の瞳を細めた。そしてゆっくりとセリアの手を取る。
手にカールの手が重ねられた瞬間、ビクリと肩を跳ねさせてしまったセリアだが、カールはそんなことには構わずセリアの手を自分の口元へと寄せる。
「ならば……」
途端に何をされるのか解ったセリアは、カッと頬に熱が溜まったが、今度こそは咄嗟に手を引くのを何とか堪えた。その為、手の甲に柔らかく口付けられることになる。
「このくらいのことには、さっさと慣れろ」
「うっ、えっと、うぅ……」
手を引いて逃げることは堪えたが、だからといって羞恥が無くなる訳ではない。むしろ何をされているか分かるだけに余計に恥ずかしい。
頬を染めて必死に顔を反らし、反論する余裕すらないセリアは、ただただカールの長い口付けを手に感じ続けていた。
やっぱり、折角くっつかせたのだから、甘い話が書きたくなりました。