告白 1
胸に石が詰まったような息苦しさが抜けず、セリアは俯いたまま短く息を吐いた。未だ耳には昨日聞いてしまったカールの言葉がこびり付いている。
『アレと婚姻を結ぶことに価値などない。結婚に関して言えば、他に有用的な女人が幾らでもいる』
盗み聞く積もりではなかったのだが、温室に着いた所でそんな声が聞こえてしまい、思わずそのまま逃げてきてしまった。
その直前に、ザウルが自分の名前を声にしていたので、恐らくあれは自分に対して向けられた言葉なのだろう。
一体どうしてそんな話になったのかは解らないが、そこまで考えている余裕は今のセリアにはない。
価値、という言葉にセリアはまた胸を抉られるような痛みを覚える。
そこまで、考えていなかった。いや、考えていないというと少し違うが。
カールがきっと美しい女性を選び、やがて結婚するのだろうということは頭の何処かでは理解していた。ただ自分の中に生まれた感情の甘やかさに夢中で、そのことに意識を殆ど向けていなかったのだ。
確かに、カールからしてみれば自分には、結婚を考える女性としては何の価値もないだろう。
美しくもなければ可愛らしくもない。女性らしい趣味も無いし。それに身分の点でも、公爵家が伯爵家に対して感じる魅力など欠片も無いだろう。
ならば、気持ちを伝えることになんの意味も無い筈なのに。
この心を伝えたいと、羞恥で頭をぶつけたくなっても昨日までは思っていた。けれど今はそれがとても恐いと萎縮してしまう。なのに、まだ胸の奥の何処かでそんな気持ちが抜け切っていない。
どうしてだろうか。
「……アちゃん。セリアちゃん?」
「あ、はい!」
急に現実に引き戻され、セリアは今が授業中だったことを思い出す。反射的に机の上に開いた教科書を確認し、必死に何を聞かれていたのか考えを巡らせた。
「えっと、レク・アニサ詩文集の13節に関しては、五年前に発表された論文通り、作者の故郷であるアニサ地方の……」
「セリアちゃん!?」
「えっ?」
ハッと気付けば前方に居るのはクルーセルで、セリアはどういう訳だと一瞬言葉に詰まる。つい今まで別の教師による授業を受けていた筈が。
そこで唐突に後ろから肩を叩かれ驚いて振り向けば、後ろの席のザウルが何とも複雑な表情をしていた。
「セリア殿。授業は終わっています」
「え、…… あっ!」
まさか、と思って周りを見回せば、ザウルの言葉通り教科書を開いている者は他には居ない。今は、その日の最後に授業のまとめや連絡事項などを確認する為の時間だ。
教室の前に居るクルーセルも多少困り顔で、セリアは途端にいたたまれなくなる。
「セリアちゃん、大丈夫?ぼんやりしてたみたいだけど」
「あ、あの、すみません!」
「いいのよ、もうすぐ終わりだしね…… 卒業式の段取りはこんな所かしら。皆の晴れ舞台楽しみにしてるわ。それじゃあ今日はここまで」
そう言って笑顔で手を叩くクルーセルの合図に、一瞬唖然としていた教室内もその緊張を解いていく。だが、セリアはショックで顔を上げられないでいた。授業が終わったことにすら気付かなかったなんて。
呆然としたままのセリアの様子に、当然候補生達も気まずい思いを覚えながら一応声を掛ける。
「セリア、どうかしたのか?」
「え、えっと、ううん。なんでもない。平気…… 私用事があるから、それじゃあ」
ランの気遣うような視線に更にいたたまれなくなり、セリアは咄嗟に立ち上がる。その際、教室の一角に座る男を反射的に振り返りそうになるのを抑えながら、教室から逃げるように出た。
気まずいのは勿論だが、こんな恥ずかしい状況で彼の顔を見たくなかったし、同じように顔を見られたくもない。
そんな思いで教室を飛び出すように足を動かしたセリアだが、ふと何処へ行こうかと悩む。こんな状態では、温室に行くのもなんだか気まずい。
ふらふらとどこへともなく校内を彷徨くセリアだったが、キャッキャと黄色い声に急に現実に引き戻された。ハッと顔を上げれば、廊下の向こうでは数人の女生徒が顔を突合せて何やらはしゃいでいるようだった。
「カールハインツ様、受け取って下さるかしら」
ビクンと聞こえた名前に思わず肩が跳ねたセリアは、咄嗟に廊下の物影に隠れてしまった。
「甘いものはお好きではないって早めに情報が回って来て良かったわ。私ずっと手作りのお菓子にしようと思ってたから」
「マリーのお菓子美味しいって評判だったものね」
聞耳を立てるようなこと、良くないのはセリアも解っているのだが。けれどその会話内容がどうしても気になってしまい、地面に足が縫い付けられたようにその場から離れることが出来ない。
「だから別のものに変えたんだけど。それでね、お渡しする時に私、直接告白しようと思って。愛の言葉を考え中なのよ」
「きゃっ、大胆!私、告白なんて恥ずかしくて、ザウル様にはプレゼントと一緒にお手紙でお伝えしようと思ってるのに」
「でも卒業パーティーは競争率高いじゃない。一人一人にあんまりお時間割いて下さらないもの。だったら、ちょっとでも印象に残るようにしないと」
「そうね。特にカールハインツ様は、婚約者をお探しだって噂だし」
その言葉が耳に届いた瞬間、セリアはえっ、と乾いた声が洩れた。
「あ、それ私も聞いたわ。確か、レイルスレーン侯爵家の方と、あとウェルミーア侯爵家の方が今有力候補ってなってるんでしょう。お二人とも凄い美人よね」
「そうそう。私なんかじゃ駄目だって分かってても、やっぱりね……」
「ああ、でもあのお二人に見つからないように当日の告白のタイミングは気を付けないと。気まずいものね」
「分かってるわよ。それより、そっちはどうするの?ランスロット様とイアン様のプレゼント」
「私達はこれと、これにしようと思ってて」
その辺りで女生徒達はその場を離れてしまったらしく、声が遠ざかっていく。
セリアは未だ物影に居ながら、呆然と彼女達の会話の内容を思い出していた。
「カールが、婚約者を……」
そうか、だからあの時温室であんな話になっていたのか。とセリアは若干納得した。何がどうして自分の名前が挙がったのかは解らないが、もしかしたらイアンとのことが切っ掛けでそういう話になったのかもしれない。
その部分は納得しながら、セリアにはもう一つ、心に引っ掛る言葉があった。
彼女達が言う、告白というものだ。
そのことがグルグルとセリアの頭を廻り始めたその瞬間。
「セ、リ、ア、ちゃ〜ん!!」
「ヒギャァッ!?」
唐突に後ろから肩を掴まれ、セリアは頓狂な声を上げながら飛び上がった。声の主を確認すべく振り返れば、やはりというかクルーセルが満面の笑顔でそこに居た。
「クルーセル先生?」
「ウフフ、驚いた?なんだかまたぼんやりしてたみたいね」
「あ、す、すみません」
授業中のことを言っているのだろうか、とセリアは途端に気まずさを思い出し頭を下げる。それでなくとも、ここは廊下だ。ぼんやりと立っていては邪魔になっていたかもしれない。
「そんなに謝らなくていいのよ。セリアちゃんも色々悩みくらいあるでしょう」
「えっと、あの、はぁ……」
「あら?もしかして、具合が悪かったのかしら。ちょっと顔色も良くないみたいだし。そういう時は無理しちゃ駄目よ。寮まで送ってあげましょうか?」
「いえ。体調は良好です。ご心配お掛けしてすみません」
「そうなの?まあ、具合が悪いのでないならいいのよ」
ニコニコと普段の笑みで笑うクルーセルは、本当に授業に集中していなかったことを咎める積もりはないようだ。そのことにほんの少し安堵を覚えるセリアを前にクルーセルは、それでね、と用事を切り出してきた。
「実はセリアちゃんにちょっと相談があって」
「はい?私に、ですか?」
「えぇ。卒業式とその後のパーティーでの卒業生の式辞なんだけど、誰にしようかって今話してて」
フロース学園で卒業生の一人に任せられる式辞は、とても名誉ある役割だ。全生徒、全教師の前でたった一人が許されるその役。その場で発せられる言葉は、そのままその年の卒業生達を表す言葉と言っても過言ではないだろう。
その役目を与えられるということは、それだけ学園全体から信頼され、期待されているともいえる。
「って、建前はそんな感じだけど、選出は単純で。何時も成績や在学中の功績とか、あと身分や家柄で選んだりするんだけどね」
「は、はい」
「で、今年はカール君になるだろうって話だったんだけど、私としてはセリアちゃんが興味ないかなって思って」
「わ、私ですか!?」
「そう。だって、女性初のマリオスって素晴らしいじゃない。マリオス候補生に女性が選ばれる為の道を切り開いた、たった一人の女生徒。卒業生の代表にピッタリだと思わない?」
クルーセルはそう言うが、セリアにしてみればとんでもない申し出だった。女性初のマリオス候補生が卒業式の式辞をする、という話の流れには納得する部分もあるが、それが自分となるとセリアは激しく首を振った。
自分は、そんな偉そうな立場ではないし、候補生になれたのも自分一人の実力ではなく、裏で起こっていた色々な事件も関係している。
それに在学中いくつも問題を起こしていたし、何より他の生徒達からの信頼があるとは言えない。式辞を任されるには、やはり他の生徒が納得する人材でなければ。
「私は、そんな大層な役目は、ちょっと……」
「そうなの?マリオスの責務に比べたら、軽い方だと私は思うんだけど」
「あ、うぅ!あの、それは」
「クスッ、冗談よ。セリアちゃんならそう言うんじゃないかな、とは思ってたから。ただ、やっぱり最後にちょっと確認してみたくてね」
そう言って片目を瞑ってみせるクルーセルに、セリアは安堵して短く息を吐いた。
王宮の秘密を知っていたり、あの場に校長と共に現れたりと、彼には驚かされてばかりだ。今もこうやってビックリさせられたが、同時に何度も助けて貰った、と卒業を間近に感じ、セリアは改めて目の前の男へ感謝を覚えた。
結局、聞いても答えてくれなかった彼の正体は分からず終いなのだが、そんなクルーセルを教師と呼べる学園生活がもうすぐ終わってしまうと思うと、やはり淋しさを感じる。
「ところでセリアちゃん。卒業式といえばもう一つ、重要なイベントがあるでしょう」
「へっ?な、なんでしたっけ?」
唐突にニッカリと笑みを作ったクルーセルに、セリアはギクリと肩を揺らす。しまった、そんなイベント、セリアには全く覚えがない。もしや、授業中に聞き逃してしまった部分だろうか。
「もっちろん、愛の告白よぉ、告白」
「はぁっ!?」
あんぐりと口を開けて驚くセリアを置いてけぼりに、クルーセルは瞳をキラキラとさせながら続ける。
「ああ、今から楽しみだわ。一日中あっちこっちで愛の言葉が色々と飛び交うのよ。全部集めたら素晴らしい詩集が出来ると思わない?」
「あ、集める?って、どういう……」
「特に、今年のマリオス候補生の人気は凄いものね。傍で聞耳を立ててるだけで、うっとりしちゃいそうよ」
ウフフ、と朗らかに笑っているが、彼の言う集めるという言葉は何を示しているのか。考えない方が正解である。
「セリアちゃんもよ。貴方の魅力にメロメロになった男子生徒達がたくさん来ちゃうかもしれないわ」
「それは、有り得ません。絶対に!」
何を考えているのか訳が解らないが、変なノリで妙な言葉を繰り返すのを止めなければ。とセリアは強めに否定しておく。
とはいえ、彼の言葉が今のセリアには気になってしまうのも事実だ。
「あの、先生」
「なに?」
「その、卒業式は、そんなに沢山の人達が、その、あの……こ、告白、ということをするんでしょうか?」
「あら?あらあら!?」
キラリと目の奥を一層輝かせたクルーセルは、恋の話に初めて乗ってきたセリアに胸を弾ませた。
「まあ、セリアちゃん。嬉しいわぁ、貴方とそんな話が出来るなんて」
「は、はぁ……」
「そうねぇ、やっぱり卒業式みたいなイベントだと多いんじゃないかしら。ほら、切っ掛けって大事だしね。そういうものに人は背中を押されたくなっちゃうじゃない。特に女の子は」
「そういうもの、なんですか」
何故、男である筈の彼が“女の子”の心情をさも当然の様に語っているのか。本来であれば疑問を覚えるべき場面だが、既にセリアは慣れてしまったのか違和感を覚えた様子はない。
「やはり、告白、というものは、大事なんでしょうか?…… その、それがきっと実らない想いでも」
皆が皆、これだけ想いを伝えることに必死になっている。けれどそれは同時に、それだけ自分が選ばれる可能性が低いということだ。先程の女生徒も、駄目なのは分かっていても、と言っていた。
それでも、やはり告白というものはしたくなるものなのだろうか。
少し俯き気味のセリアに、クルーセルは好奇心が胸を擽る。これはもしや、そういうことだろうか、と期待せずにはいられない。
「そうねぇ。私は、大事だと思うわ。想いを伝えたいっていう心は、恋心と一緒に生まれるとっても大事な要素の一つだもの。相手に受け入れて貰えたら、っていうのとは別に、たとえ報われなくても、この気持ちを相手に知って欲しいと思うのは、とても自然なことよ」
満面の笑みで語るクルーセルの言葉に、セリアはほんの僅かに胸が軽くなった。彼の言葉通りなら、自分の中に未だ残る、彼に心を伝えたいという思いは、決して奇妙なものではないらしい。
その不安ながらも何処かホッとしたような、まさに年頃の娘の顔を浮かべるセリアの表情に、クルーセルは更に笑みが深くなる。
「セリアちゃん」
「は、はい!」
「これは、恋ね。恋の匂いね」
「へっ?」
「ああぁん、素敵。もう、普段はあんなに勇ましいセリアちゃんが、今は恋する乙女なんて」
「あ、あの、えと、これはちが……」
やばい、とセリアが気付いた時には既に遅い。一人盛り上るクルーセルのテンションは、最高到達点を超えている。
「こうなったら、全力で応援するわ。さぁセリアちゃん、教えて頂戴。貴方の心を射止めた素敵な王子様は誰?」
「えと、これは、ただ聞いてみただけで」
「さっそく校長に報告ね。あ、お祝いの花束も注文しなくっちゃ」
「だ、だから、クルーセル先生。お願いですから落ち着いてください」
セリアは必死に彼を説得しにかかるが、当然の如くそれは無理な話である。とはいえ次々と飛び出すクルーセルの言葉は、セリアが到底見過せるようなものではない。
そんな絶望的な状況で、セリアは廊下の反対側から一筋の希望の光を見た。
何を騒いでいるんだお前達は、とその眉間に浮かんだ皺と眼鏡を直す仕草で心情が読み取れる、ハンスだ。救世主にも見えるその姿に、セリアは涙目で訴えた。
「ハ、ハンス先生!」
「貴方達は、一体何をしているんですか」
注意する積もりで来たハンスだが、生徒には涙目で、そして同僚にはキラキラした目で見つめられ、ピクリと眉を上げた。
「ハンスちゃん!ビッグニュースよ、これからセリアちゃんがお姫様になって、王子様を迎えに行くのよ」
「……はい?」
「ああ、もう羨ましいわ。若いっていいわよねぇ。セリアちゃんの悩める乙女の顔も素敵よ」
「…………」
ついに正気を失ったかコイツは。と出かけた言葉を飲み込み、ハンスが少し視線をずらせば、もうこの世の終わりでも見ているのではと思えるほど、顔を真っ青にした教え子の顔。
「ハンス先生、お願いします!どうか、どうかクルーセル先生を止めて下さい!」
「あら、そんなセリアちゃん。恋する乙女は立ち止まっちゃいけないのよ」
「どうか、助けて下さい。ハンス先生ぇぇ」
なるほど、とハンスは怒りを通り越した脳内が、すぅっと冷えていく感覚を覚えながらガッと腕を伸ばした。
目にも止まらぬ速さでハンスが掴んだのは、クルーセルの襟首。
突然の事態にセリアも、それまで騒いでいたクルーセルも一瞬反応を返せないでいるその間に、ハンスがセリアを一瞥する。
「セリアさん。これのことはもう気にしなくて構いませんよ。もう行きなさい」
「あ、はい」
「それと、廊下は騒がないように」
当初の目的だった注意の言葉を最後に、ハンスはギリッと掴んだクルーセルの襟首を引きずった。
「クルーセル・ブロシェ!」
「な、なによハンスちゃん。セリアちゃんの一大イベントなのよ、応援しなくてどうするの」
「生徒の個人的な問題に、不必要に立ち入ることが教師の仕事だと?貴方が何処で常識を落としたのか、これからじっくりと検証させてもらいましょうか」
「ちょっと、離してったら。私はこれから忙しくなるんだから。セリアちゃんの為に、やるべき仕事は山積なのよ!」
「貴方の仕事は教師です!教師の仕事とは何か、今から思い出させてやるので…… いいから、こっちへ来い!」
最後の方は見たことも無いような、鬼の形相でクルーセルを引き摺って行ったハンスに、セリアは深い感謝を覚えながら、大きな溜息を吐き出した。