母親 3
娘の言葉で未だ目を白黒とさせるばかりのオスカルに、セリアは焦る気持ちも手伝って強引にその腕を引いた。
「セ、セリア!?」
「父様、一度母様が泣いてる傍に居てあげて」
「な、泣く?」
娘の言いたい事が分からないオスカルだったが、娘が自分の手を引きながら向かっているのが何処かは分かった。
「母様と、ちゃんと話して無いんでしょう。だったら、恨んでるなんて分からないじゃない」
確かに、セリアの言う通り、オスカルはクリスティーナと話すことをしてこなかった。
しかし急にそんなことを言われてもオスカルとしては戸惑うばかりだ。けれど気付けば引き摺られてクリスティーナが休んでいる筈の部屋の前に立たされていた。
「セリア。これは話し合いで解決するようなことでは……」
「自分が悪いと思ってる時はそう思うの。でも、それだけじゃ多分良い解決策は浮かばない。全部自分が悪いから、って気持ちが沈んで」
必死に言い募るセリアは、離すものかと父の腕を懸命に掴んだ。
「すぐに解決するとは思ってない。だけど、今この状態のまま母様と離れることが、一番の解決方法とも思えないから」
「………セリア」
オスカルを見詰めるその表情は何処までも真剣で、そこまで言われては娘の要求を突っぱねることも出来なくなる。
「セリア。お前には何時も苦い思いばかりさせてきたのに」
「父様?」
「クリスティーナや私のことを、憎く思っても仕方ない扱いをしてきたのに。それでも、お前はそんなに真剣に私達のことを考えてくれる」
「当然だよ。だって、誰も母様の不幸を望んでなんかいないもの」
母との関係が良好だったなどとは言えない。忌々しげに睨まれたことはあっても、優しく頭を撫でられた思い出も無い。
けれど、薄幸な人だとも感じていた。喜ぶ顔や、安らいだ顔を一度も見たことが無かったから。そんな母に、笑ってもらいたいと幼いながらに思ったことも、一度や二度ではなかった。
セリアの言葉にオスカルも思わず目を見開く。そして徐に表情を緩めると、そっとセリアの頭を撫でた。
「優しい娘に育ってくれたな」
「……父様」
「そうだな。誰も彼女の不幸を望んだりはしていない」
それをクリスティーナに伝えなければ。そう決意を胸にオスカルは部屋の扉に手を掛けた。
久しぶりに入った妻の部屋で、オスカルは寝台の上に横になったクリスティーナの青い顔を見つけた。しかしそれも一瞬で、自分の存在を確認するとハッと何時ものように表情を引き締め体を起こす。
「だ、旦那様」
「いい。具合が悪いのだろう。そのままで」
「そういう訳には参りません」
「……そうか。だが、無理はさせたくない。座っていなさい」
そう繰り返したオスカルに、クリスティーナも小さく頷き体を起こしただけで寝台から出ようとはしなかった。
「気分はどうだ?少しは良くなったか」
「はい。お見苦しいところを、失礼しました」
オスカルが寝台の横に寄せた椅子に腰を下ろせば、クリスティーナの肩が僅かに震えているのに気付く。そこから目が離せないでいると、唐突に深くクリスティーナが頭を下げて来た。
「申し訳ありません旦那様。あの娘が未だ貴族にあるまじき行動を取っているのは、私の責任です」
「クリスティーナ……?」
深く頭を下げるその姿に、オスカルは一瞬返す言葉を失った。
「言い訳のしようもありません。ですが必ず、必ずあの娘には勤めを果たさせます。これ以上のご迷惑はお掛けしません」
「……」
「既にお話はあるのです。オズワルド家との縁談が無くなってしまった今、すぐにでもそちらを纏めますので」
「クリスティーナ。セリアの婚姻は、本人が望まないならまだ決めることは無いだろう。妻としての役目を果たそうとしてくれる君の気持ちは嬉しいが、そう思い詰める必要は……」
「いいえ……… いいえ!」
必死に首を振りオスカルの言葉を遮ったクリスティーナは、頭を下げたまま強く拳を握りしめた。
その頑な態度が、まるで自分をも拒絶しているようだと、オスカルは昔の床に平伏した少女の姿を思い起こさせられる。
「今まであの娘に好き勝手を許し、旦那様の負担としてきたのは私の責任です。本当に、申し訳ございません」
「クリスティーナ。君が責められるようなことは何も無い。謝ることはないだろう」
「……………どうして」
ただひたすら謝るクリスティーナに、オスカルは繰り返し謝罪は必要ないと言いきかせる。この時点で、これほど言葉を交わしたのは何時以来だっただろうかと思える程に。
すると唐突に、耳に漸く届く程か細く響いた疑問の言葉に、オスカルは視線をまたクリスティーナに向ける。その肩は、先程よりも更に震えていた。
「どうして、責めて下さらないのですか?」
「……なに?」
「どうして、お前が悪いのだとはっきり仰って下さらないのですか?今も、あの時も。私の愚かさが招いた失態なのに」
「失態だなどと。私はそんな風に思ったことはない」
「いいえ。全て責務を果たせない私の未熟さが原因です。妻の勤めを一つとして果たせていない私を、疎ましく思っておいでの筈なのに…… なのにどうして?そうやって旦那様が何も仰らずにお許しになるから、私は償う機会すら失って」
気付けばクリスティーナの俯いた顔から涙がボロボロと落ちている。その姿と吐き出された思いに、オスカルは驚くしかできないでいた。
あの一件が妻に責任があるなどと、思ったことは一度とない。むしろ、全て思慮の足りない自分の所為だと思っていた。なのに、全てを拒絶したような顔でクリスティーナが謝るから、オスカルはその罪悪感の行き場を失っていた。
だから、クリスティーナの振舞いは全て、オスカルに対する憎しみや憤り故の行動だと、そう思っていたのに。
けれど今の言葉でオスカルは、セリアの方が正しかったのだと理解する。同時に、妻の心を初めて読めた気がした。クリスティーナは、ずっと自分自身を責めていたのだと。
その贖罪の気持ちの行き場を、己の役目以外に見出せなかった。自分と同じだ、と。
そうは思っても、昔と変わらず、責める言葉以外など聞きたくない、と肩を震わせるクリスティーナに、何を言えば良いのか。何と言葉を掛ければ理解して貰えるのか。
「クリスティーナ………」
「っ!?」
ゆっくりと、怯えさせないように、オスカルは言葉よりも先に震える肩を引き寄せた。
「すまなかった」
「……どうして、どうして旦那様が謝るのですか?」
やめてくれ、とクリスティーナは頭を振るが、オスカルは腕を離すことはしない。
「言葉が、足りなかった。私の落ち度だ。君に、きちんと伝えていなかったことを、今更ながら思い出した」
「……旦那様?」
オスカルの表情を伺うように、おずおずと顔を上げたクリスティーナの眦から、また涙が一雫伝う。流れ落ちて行くそれを指で掬いながら、オスカルは穏やかに微笑んだ。
「今更かもしれないが、クリスティーナ。ありがとう。セリアを生んでくれて。彼女は、私達の立派な娘だ。君は、もう役目を十分果たしているよ」
「な、なにを……」
信じられないとばかりに大きく目を見開くクリスティーナの頭を、またオスカルは自分の胸に引き寄せた。
「体は健康で、私の髪や目の色をしっかりと引き継いでいる。性格は穏やかで優しい、素晴らしい子だ。そして、何時の間にかマリオス候補生に選ばれるという立派な結果を出し。今やマリオス様や、国王陛下に目をかけられるているというじゃないか。こんなに誇らしいことはない」
「……………旦那、様」
「一度こうと決めたら、向こう見ずなほど突き進む素直な所は、君に似たのだな。君が生んでくれた、ベアリット家の誇りであり、私の自慢の娘。クリスティーナ、君はあんなに素晴らしい娘を生んでくれた。私には勿体ないくらいの。立派に妻の勤めだ」
「うぅ、くぅ………」
「もういいんだ。だからもう、そんなに自分を責めないでくれ」
漏れた嗚咽と共にまた涙が溢れ出したクリスティーナからは、もう全てに絶望し拒絶するような空気は消えている。
縋り付くように自分の背に回された腕に、オスカルは更にその身体を強く引き寄せた。