母親 2
クリスティーナが退室した途端、思わずセリアから力が抜ける。肩を落として振り返れば、やはり何処か気が沈んだ表情のオスカル。
「父様、ごめんなさい。お仕事だったんじゃ」
「それどころでは無いと思ってな。気にしなくていい」
そういうオスカルに、セリアは心底感謝した。もしあのままオスカルが現れなかったらどうなっていたか。
「セリア、帰ってそうそう悪いが、話があるのだろう。私の書斎に来なさい」
「あ、はい」
「ここは片付けさせよう」
チラリとオスカルが視線を向けたのは、床で無惨に砕けているカップだ。それだけで、この部屋での話し合いがどんな方向に向かったのか分かるのだろう、オスカルは何かを考えるように眉を寄せた。
屋敷内を移動し、オスカルの後に続いて彼の書斎の扉を潜ったセリアは、僅かに懐かしさを覚えながら部屋のソファに座った。
落ち着いたブラウンの色調で纏められた室内の一角には、大きな本棚が設置されている。その中から、クルダスの創世記やマリオスの英雄談の本を引っ張り出し、父に読み聞かせをよく強請っていた。
そう考えると、父はまだ幼い自分が取り出しやすいように、そういった本を何時も棚の下の方に仕舞っていてくれたのだな、と今更ながら気付かされる。
そんな風に意識を飛ばしていれば、セリアの向かいのソファにオスカルが腰を下ろした。
「さて、セリア。まずは、よく帰ってきたな。顔を見れて嬉しいよ」
「父様……」
「最近は、色々とあったからな。急に王宮から感謝状が届いたり、春の到来祭で反逆者を捕えるのに協力したと学園から報告があったり。後から聞くだけでは、信じられないような話ばかりだが」
「それは、その…… 色々あって」
どう説明すれば良いのか、セリアは言葉を探すが見つからず、結局そんな言い訳のような台詞になってしまった。そんなセリアに、オスカルも僅かに苦笑を漏らす。
「セリア。私は、お前がこうして元気に、充実した日々を送れているのなら、それで良い。国家だとか王宮の話などは、もうお前の方が近い存在だろう。説明しにくい複雑なこともあるだろうしな」
「あ、ありがとう、父様。父様はいつも、そうやって聞かないでいてくれて……」
幼い頃から何時も父はそうだった。自分が話し難かったり言葉が見つからない時は、こうして説明を強いることはしない。けれどそれでも理解を示してくれた。言葉がまるで足りていない筈なのに、それでも何もかもを察してくれているような、その雰囲気に何度助けられたことだろう。
セリアがフロース学園へ転入したいと言い出した時も、何も聞かずに母を説得してくれた。
「お前の判断を信用しているからだよ、セリア。お前にも考えがあり、それに従って行動しているのだと思えば、私が把握しなくても良い部分を無理に聞き出すことはない」
そこまで言うと、しかし、とオスカルはそれまでの穏やかな雰囲気を僅かに強張らせた。
「しかし、私も把握する必要のあることは、きちんと話して貰うことになる」
「……はい」
「今回の帰郷の件だが、クリスティーナと話していたということは」
「結婚の話です。イアン・オズワルド様との」
セリアは意を決してそう応えた。途端にオスカルも、そうかと短く頷く。そしてセリアの出した結論がどういうものかも、クリスティーナの反応で察したのだろう。
けれどセリアは、もう一度自分の口からきちんと父にも説明せねば、と言葉を選んでゆっくり口を開いた。
「青の盟約を受けたけれど、私はこの話は断ろうと決めて……」
「……そうか。どうなるかとは思っていたんだが」
何かを考えるように首を反らすオスカルの言葉を、セリアは息を飲んで待った。
「オズワルド家から青の盟約の件を聞いた時は、一体何がと思ったが。イアン君は同じマリオス候補生の友人だと聞いていたから」
娘の良き友人だと聞かされていた人物が、突然その娘に求婚したと聞き、流石のオスカルも焦った。
「セリア。お前が、結婚を望んでいるとは思っていないが、急に断ることにしたのは何か理由があるのか?例えば、仲違いをしたとか。彼が男として恥ずべき行いをしたとか」
「ううん。イアンはとても良い友達で、いつも支えてくれた。今も仲間だと思ってるし、これからも友人として付き合っていきたいと思ってる。ただ、彼のことを好きだとか、愛してるって思えなくて……」
そこまで言って、オスカルが目を見開いているのに気付きセリアは思わず言葉を止めた。それでもオスカルは変わらず固まったままで、何か言葉を間違えただろうか、とセリアは不安になる。
が、そうして続いた僅かな沈黙を、オスカルがハッと我に返ったあとで一つ漏らした咳払いが破った。
「そうか…… お前も、恋を語る歳になったんだな」
「えっ?あ、えっと、それだけじゃなくて、あの」
「いや、いい。むしろ、そういう理由なら安心した」
あのセリアが、一度はこの結婚を考えると言った。その穏やかな性格から、きっと断るということはしないのではとも。だからこそ、自ら結婚を断るなどいったいどういう理由で、と本音を言えばまるで検討がつかないでいたオスカルは、僅かに緊張を解いた。
「娘の成長とは、早いものだな。こうして、お前が成長したのだと後になって気付かされるばかりだと、寂しいが」
いつの間にやらマリオス候補生となり、知らぬ間に王宮の陛下やマリオス様達から直々の書状が届くようにまでなっていた。それだけで、娘の人としての成長を感じずにはいられなかったというのに。
今度は、愛を語る女性としての成長まで突きつけられた。
その変化は、嬉しさよりもやはり寂しさが強い。
けれど寂しがってばかりもいられないだろう。娘が決めたのなら、自分も決断せねば。
「クリスティーナは、何と言ってきたんだ?」
「……それは、その」
途端にギクリと肩を揺らし、言い難そうに視線を反らされれば大方の想像はつく。
「その、別の結婚話を、と」
「やはりか……」
セリアの顔色が少しずつ悪くなっていく様子に、オスカルも眉を寄せる。
「セリア。その件は、もう気にしなくて良い。私からクリスティーナに話を付けよう」
「父様……」
「これ以上、お前に苦労を掛けることは出来ないと思っていた。そしてクリスティーナに苦痛を強いることも」
「どういうこと?」
オスカルの言葉の先がまるで読めずにセリアは首を傾げた。そして、何かを決めたように口元を引き結ぶオスカルに、僅かに不安が増す。
「南のロザンス地方に別荘を用意した。気候も安定していて、人も穏やかな田舎だ。クリスティーナには、そこに移って貰おうと思う」
「う、移る?って、どれくらい?」
「どれくらい、というのは答え難いな。気の済むまで、と言おうか」
「だって父様、お仕事は?ロザンスだと、通うのは無理だし」
「いや、私は行かない。クリスティーナが一人でだ」
「っ!?」
その意味することに気付き、セリアは思わず言葉を失った。けれどオスカルの表情は冗談を言っている風ではなく、至って真剣だ。
「離縁は、すぐには難しいが。向こうの暮らしに慣れた頃、彼女が望むならそうしても良い」
「り、離縁って。でも、母様はそんなこと望まないんじゃ……」
「ロザンスで誰も自分達を知らない場所なら、体裁を気にする必要はなくなる。身分を詳しく明かす必要も無い。そこでクリスティーナが、柵から解放され新しい人生を始めることが出来るなら」
分からない。唐突なことにセリアは思考が混乱していた。どうしてそんな話になっているのか、オスカルの考えが読めない。
「クリスティーナも、きっとそれを望んでいるだろう。表立ってはそう言えなくとも。恨んでいる私とこれ以上生活を続けるよりは……」
「えっ?」
「今更遅いかもしれないが、少しくらいは償いになるだろうか。長年、彼女に重責を強いた私の」
二人の結婚は、政略結婚以外の何物でもなかった。互いに会ったこともない少女と青年が、親に決められた通りに婚約する。
結婚というものに特に拘りも無く、また逆らう理由も無かったオスカルはその結婚を何も考えずに承諾した。
ただ、妻となった女性を大事にしよう。互いに良き理解者となり、穏やかな人生となるようにと。
そんな妻となる女性、いや少女に、想い人が居たと聞いたのは婚姻を結んで後のことだった。まだ儚さと弱さを身体に纏う少女は、別の男を想って涙しているのだと。
それを知った時、オスカルは自分の考えの浅さを自覚せざるをえなかった。自分はこの結婚を受け入れたが、相手がどう思っているかを確かめずに頷くべきでは無かったのだ、と。
だからこそ、償いの積もりで少女に想い人と最後に会うことを勧めた。その時にみた少女の喜びに満ちた瞳に、この選択はきっと間違っていないのだと確信した。
けれど結果はどうだっただろうか。
オスカルがこの結婚に後悔を覚えたのは、目の前で床に膝を突き、絨毯に埋まるのではと思うほど深く頭を下げて謝罪を繰り返す少女を見た時だった。
慰めようかと思った。涙を流しながら謝罪する少女の肩を抱いて、君の所為では無い、と。
けれど、まるで何もかもを捨てたような、絶望したような少女の瞳は、オスカルの言葉を拒否していた。それがどんな言葉でも、聞きたくない、と震える肩がそう言っていたから。
そして次に、貴族の妻らしく、体裁を守り、跡継ぎを守り、この家を守る。それこそが己の全てだ、と立ち上がったクリスティーナは、既に少女ではなくなっていた。
それから、まるで妻としての役目を果たすことが己の生き甲斐だと振る舞うクリスティーナに、オスカルはそれ以降も言葉を掛けられないでいた。
「クリスティーナが懸命に役目を果たそうとしているのを、私は黙って見ているしか出来なかった。それを彼女が重荷に感じているのを知りながら」
「……」
「こんな私を、恨んでいるのに彼女はよく頑張ってくれた。だからもう、解放すべきだろう。最初はそれこそ、納得しないだろうが、その方が幸せだとロザンスの地で私からも、責務からも離れた時に思える筈だ」
「……………………」
「……違う」
セリアは、腹の底から湧き上がってきた言葉と共に、あの時の母の顔を思い出した。父を見た瞬間、怯えと悲しみとが混ざったような母の目を。
「父様、それは違う。母様は、父様を恨んでなんかいない」
「……セリア?」
「母様も父様と同じ、ずっと罪悪感があったの」
そうだ、とセリアは己の考えに己で納得した。そうなのだ。母は父を恨んでなどいない。むしろ、今の父と同じく、母も己の行いを後悔して、どうにか償おうとして生きていたのではないだろうか。
「母様と離れちゃ駄目!父様、考え直して」
「セリア……?しかし、クリスティーナにこれ以上は」
「自分が悪いって思ってる時は、一人になってもその考えが離れないの!むしろ一人で考えれば考えるほど、後悔とか罪悪感とかが大きくなって。私もそうだったから」
己の責任だと、自分を責める言葉しか浮かばず。どうすれば良いのかまともな解決策など、まるで考えられなかった。
どうしようもない無力感に、何をやっても失敗しか待っていないような不安が押し寄せ。自分が悪い、自分の所為だ。そんな言葉に胸を潰されそうになった。
「でも、でもね。そんな時、私を抱きしめてくれた人がいて。それだけで凄く救われたの」
そうだ。あの時、彼が自分を救い上げてくれたから。自分はまた立ち上がろうと思えた。彼に泣いている所を見られてしまったのだから、これ以上弱音は吐けない、と。胸の内に押し寄せる暗い感情が晴れ、また突き進もうと元の場所に戻れた。
自分がそれにどれだけ救われたか。もし、母を同じように救える存在が居るとしたら、それは父だけの筈だ。
真剣な瞳で父を見据えながら、セリアは強く口元を引き結んだ。