焦燥 2
「セリアさん」
「ああ。アシリアさん」
授業も終わり、いつもの如く温室へ向かおうとしていたセリアに、昨日友人になった人物、アシリア・リンドロースがヒョコリと顔を出し、声を掛けた。
クルクルとした目が輝いていて本当に可愛らしい娘だな、と改めて思う。クラスが違うので、わざわざ会いに来たのだろうか。
「セリアさんはこれからどうされます?」
「えっと。これから温室へ行こうと思っていたんですが」
「是非ご一緒させて下さい」
頷いてみせると、わぁっと頬を染めるアシリアにセリアもつられて微笑んでしまう。
流石リンドロース家の令嬢だけあって、アシリアはラン達のように気さくに話すという訳には行かなかった。直接聞いた訳ではないが、彼女自身が丁寧な言葉を貫くので、セリアも自然とアシリアに大しては若干畏まった物言いになる。といっても、本来これが普通であって、セリアがかなり特殊であるだけなのだが。
二人で連れたって温室へ向かう姿を、敵意むき出しの視線が追うのだが、セリア一人の時に向けられた程露骨な物は少ない。やはり、美人が相手では分が悪いと思ったのか、視線はどちらかというと控え気味であった。
「いい加減にしないかカール!」
セリアとアシリアが温室へ足を入れるなり響いた声に、アシリアはビクリと震え上がった。しかし、セリアは誰の声かも、その原因も分かっているので平気だ。「大丈夫です」とアシリアに言って中へゆっくりと誘導した。
温室の中では、やはりというかなんというか、ランとカールが睨み合っていた。テーブルの上には何枚にも積まれた資料。セリア達が入ってくるのを確認するなり、ランはセリアに自分の意見案を手渡して来た。
「セリア。これなんだが、君はどう思う?」
セリアはマリオス候補生クラスの授業を受けていない。なので、彼等の議論の内容を知るためには、一から資料や案を読む必要があるのだが、そこは流石というべきか。なんとも読みやすく分かりやすい資料が手渡された。ざっと目を通して、セリアは自分の意見を頭の中で整理する。
「これなら……」
そして、いつもの様に三人での議論に突入した。
それをしばらくは呆然と見ていたアシリアだが、怪訝な顔をしながらイアンに訪ねる。
「セリアさんは、いつもあの様に候補生様方と議論を?」
「ああ。まあな」
アシリアの問いにイアンは苦笑しながらも答えた。
昨日の剣と言い、今日の議論と言い、普通のご令嬢には奇異に映るだろう。やはり少し受け入れがたいのか、アシリアは眉を寄せたままの顔を崩さない。
「まあ、ちょっと変わった所もあるが、昨日ランも言ったろ。あれがセリアだって」
「……はい。そうですよね」
アシリアも、自分に言い聞かせる様に頷いた。
人の得手不得手に口を出す積もりは無いし、何よりセリアは自分の恩人だ。不条理な理由で絡まれていた所を助けに入ってくれた時、まるで救世主の様にさえ自分には見えた(実際はそんな風には全く見えない)。
勢いでつい友人になりたいと口に出してしまったが、セリアはそれも快く受け入れてくれたのだ。今までにあまり見ないタイプだが、セリアは本当に好感の持てる人物だ、とアシリアは納得した。
一人納得するアシリアを見て、イアンは少し感心してしまった。こんなにすんなり受け入れるとは意外である。普通ならばもう少し悩んだり、奇異に思ったりするだろう。
それが悪い訳ではない。クルダスの長い歴史の中で、貴族内での偏見や先入観というのが深く根付いているだけなのだ。
それをアシリアは、かなりすんなりと納得した。やはり類は友を呼ぶのか。アシリアも少々変わった考えの持ち主のようだ。
アシリアとイアンがそれぞれ心中で色々考えている間にも、ラン達の議論は一段落したらしい。まだ確認などはしているが、資料を片付け始めている。
その後、セリアが満足そうに頷きながら温室を出て行くカールを見送った。その時になって、議論に夢中になりアシリアを放る形にしてしまったのを思い出す。
「あっ!アシリアさん。ごめんなさい」
漸く気付いた、という風にセリアが謝るとアシリアは無言で首を振る。
議論に参加する姿を見られて、少し呆れられるのでは、と少し覚悟していたセリアはホッと胸を撫で下ろした。
視線の先でイアンが妙に微笑んだりしている様に見えるので、もしや何かあったのだろうか。もしかしたら、イアンがアシリアに何か言ってくれたのかもしれない。と、珍しく鋭い思考を見せたセリアはイアンに感謝していた。
ラン達の議論が終わってしまえば、次は温室でまったりした時間を過ごすのが常だ。アシリアも加わって学園内の話に花を咲かせる。
セリアと違い、アシリアはやはり普通の娘であり、学園の噂なんかにもそれなりに通じていた。そのアシリアが話す内容は、色々とセリアの全く知らない世界ばかりだ。
マリオス候補生も、滅多に聞かない『女の子』の話に、多少なりとも興味をそそられる。といっても、大体の内容は把握してるのだが。
それでも耳を傾けるのは、アシリアが年頃の娘らしく機転を利かせながら上手く語るからだろう。話の元が噂好きの娘か、そうでないかで色々と視点も変わってくる物である。
暫くそうして雑談を続けていたのだが、アシリアが何かに気付いた様にランの制服を指差した。
「あの、ランスロット様。ボタンが……」
「ああ。糸が解れてしまった様だ。今まで気付かなかった」
見れば、制服の袖のボタンが今にも取れそうな状態でぶら下がっていた。ランも気付いていなかった様で、寮に戻ってから直すと言った。しかし、それを見て透かさずアシリアが言葉を発する。
「私で良ければ直させて下さい」
「…!?」
「その……裁縫道具なら持っていますし。それなりに得意ですし………」
「いや。しかし、君がそんな事をする必要は……」
「いえ!是非やらせて下さい」
大人しそうな雰囲気からは想像も出来ないほど強く主張するアシリアに、セリアは少し驚いてしまう。
ランの言い分も最もであるのだ。わざわざアシリアがそんな事をする必要は無い。
しかし、アシリアは譲ろうとはせず、不安そうに見詰めてくる。そこまで強く言われては断る理由も無いので、ここは有り難く言葉に甘える事にした。
ランが制服の上着を脱いで渡すと、アシリアは早速鞄の中から小さな裁縫セットを取り出し、それは見事に針と糸でボタンを縫い始める。その手捌きは見事な物でボタンはあっという間にあるべき場所に収まっていた。
アシリアが仕上げを済ますと、丁寧に上着をランへ帰す。その仕草も美しく洗練されていて、まるで聖母でも見ている気分だ。
それをランが柔らかい物腰で受け取るものだから、一枚の絵を見ている様に映える。
裁縫をかなり苦手としているセリアは神業の如く針を扱ったアシリアを尊敬の眼差しで見詰めていた。
あの複雑で精神力を削る作業をこんなに軽々とこなす人物がいるとは。自分が縫い物などしようものなら、糸が縮れたり、針は布を通らないしで、散々な結果を生むのに。今、上着の袖に収まっているボタンは、最初からそこにあったように何の違和感もなく縫い付けられている。(そうなるのが普通である)
おおっ、と感嘆の声を上げるセリアに、アシリアは少し得意げに「成績も良いんですよ」と話していた。
本来、フロース学園には選択科目として教養の授業が設置されている。数種類から選ぶ事が出来るこの授業は、剣術や馬術の他に裁縫等も受けられる。
特に制限は無いが、どれを選択するかは当然の如く性別で分かれていた。男子は剣術等、女子は裁縫等。セリアは剣術を選択しようとしていた様だが、親が学校側に猛反対したそうで、セリアは教養の授業中かなり苦労している。
勉学の内では無いといっても、フロース学園の基準はそれなりに厳しい。教養もそれは同じで、成績で良い結果を出せたというのは十分自慢になるのだ。
ちなみに、マリオス候補生達は教養の授業でもトップを誇っている。
ランが感謝の意を示すと、途端にアシリアは頬を真っ赤に染め、瞳を輝かせた。
候補生に感謝されるなど、アシリアや他の生徒にとっては大変名誉な事なのだ。それに、彫像の様な美しい顔で微笑まれて、九割の女性は赤面するだろう。残り一割に属するセリアはランの上着に目を向け、その出来映えを再び観察していた。
「なあ。あれ、どうするんだ…?」
「その……どうすると聞かれましても」
ここは男子寮の談話室。イアンとザウルは扉の前に立ち、室内に入るでもなく、ただ中の様子を見守っていた。
二人の視線の先では、先程から落ち着きの無いように談話室をウロウロと動き回る友人の姿。普段は落ち着いている風に見えるランが、この様な行動を取るのは長い付き合いでも滅多にある事ではない。
時折、唸ったり考え込んだりしている様は他人がやれば怪しく見えるのだが、美形がやればなかなかの絵になっている。
暫くは様子を見守っていたイアン達だが、遂にランに声をかけた。
「ラン。どうしたんだ」
「イアン……」
「さっきから落ち着かねえけど、何かあったのか?」
「…………」
ランをソファーに座らせ聞くが、なかなか口を割ろうとしない。どうも随分と思い悩んでいる様で、話しても良いものかと考えている。
しかし、やはり自分一人で考えても答えは出ないだろう、と思ったらしい。ゆっくりと口を開いた。
「私は、今まで婦人や女性には平等に接してきた積もりだ」
「…ああ。まあ、そうだろうな」
一瞬何の話かと疑問に思ったが、彼の言っている事は事実なので頷いておく。
容姿、地位、実力。この三つの点でもかなりの物を持っているランやイアン達は、当然女性からのお誘いもかなりの数があった。今、この学園でもそうだが、他へ行ってもそれは変わらない。貴族同士のパーティーへ顔を出せば話しかけてくる女性は後を絶たず、街を歩けば聞こえてくる黄色い声も多い。
イアンはそれらを巧みに避け、カールは冷たい視線で撥ね除ける。それでも、逃れられない場合もあるのだが。ザウルもルネも断りはしないものの、時々多少困った笑みを浮かべている事は少なくない。
しかし、ランは違った。何時どんな時であろうと、相手が誰であろうと、それが女性ならば敬意を持って接した。
彼女達が想いを告げてくれば丁寧に対応し、その気持ちを受け止められる人間は自分の他にきっと居る、と一人一人の背中を押して、新たな恋へ送り出していた。
ラン自身、彼女達の望む物は与えられない事は十分理解していたし、無意味に気を持たせて彼女達の未来に出会う筈の相手を見えなくする事はしたくないと思っての行動だ。その所為で逆に枕を濡らす羽目になった女性は数しれないが…
それでも、ランに送り出された者達の中には、ちゃっかり別の恋に生きる事に成功した人間も居たりする。
「今まで、それが当然だと思っていたのだが……」
「何かあったのですか?」
「差別をする積もりなど無い。だが、アシリアとセリアに対する気持ちがどうしても違ってしまうのだ」
「………はっ!?」
たっぷり間を開けて結論を理解したイアンとザウルは目を見開いてしまった。
ランが珍しく真剣に思い悩んでいる様なので、どんな事かと思えば、打ち明けられたのは予想だにしなかった内容。ラン本人ですら気付いていない、その感情が何かを察したイアンとザウルは途端に言葉に詰まった。
答えの予想はつくのだが、はたしてそれを言っても良いものだろうか。
「そんなに心配する必要無いよ」
「ルネ…」
「ごめんね。立ち聞きする積もりは無かったんだけど、聞こえたから」
「いや。それより、心配の必要が無いというのは?」
ルネの言葉の意味が飲み込めずランが聞き返す。立ち聞きされた事は特に気にしていない様子だ。
「だって、ランは彼女の事が嫌いなんじゃないでしょ」
「……う、うん」
抱く感情が違うといっても、それは嫌悪や拒否感ではない。むしろ逆だ。 それならば、答えは限られてくる。親愛の情か、あるいは……
ルネは誰とは言わない。ランの説明からだけでは確信が持てないし、そんな野暮な事は聞かない。重要なのは、ランが気持ちを持て余しているということ。
「じゃあ気にしないで、いつも通りにしていれば良いんじゃないかな。答えはきっとその内出るから」
「ねっ」と可愛らしく言ってくるルネに、ランは複雑そうな顔をしている。
つい先程まで散々思い悩んでいた事を、気にするな、と言われても直ぐに納得は出来ないだろう。というより、まるでルネには答えが分かっている様な感じがするのも府に落ちない。ならば教えてくれても良いと思うのだが。
そんな事を思わないでもないランだが、取り敢えずルネの助言に従う事にした。気にするな、と言われて気にしないのも難しいのだが、今の自分にはどうしようもないのだから。訳の分からないまま藻掻くよりも、今は考えない方が良いかもしれない。
ずるずると自室へ下がったランを、微笑む一つの視線と複雑な顔の二つの視線が、静かに見送った。
「良いのか、あれで」
「何が?」
非常に複雑な心境を抱えたイアンが尋ねると、ルネはしれっと返した。何がと言われても、答えなど一つしかないのは、彼も分かっているだろうに。
「だから、ランの事だよ。あんなんで良かったのか?」
「良いんじゃないかな。特に問題は無いと思うけど」
本当に良いのだろうか?明らかにランを混乱させただけの様に見えるのだが。しかし、教えてやるのもどうかと言うものである。それは何故かというと……
「あいつのは、ほら、あれだろ。その……」
「恋?」
言い難そうにしているイアンの言葉を、ルネが先に言った。その様にイアンもグッと詰まる。
恋だの愛だの、自分が言うにはどうも照れが生じてしまうのだ。そんな言葉を言おうとする度に、自分の思い人の顔が脳裏を過ぎてしまうあたり、自分も相当だなと自覚させられてしまう。
確かに、「恋」かどうかは分からないが、ランがそれに近い感情を抱いているのは確かだろう。セリアにしろ、アシリアにしろ、どちらかを意識しているのは間違いない。
「良いんじゃない。折角なんだし、皆で応援しようよ」
「それはそうなのですが……」
それだけ言ってザウルが口籠る。
確かに、友人であり仲間である彼の恋ならば自分の事の様に応援してやりたい。今までそういった相手が居た試しが無いランだ。折角だし、というルネの言葉も妥当である。しかし、イアンとザウルには素直に応援出来ない理由があった。
先程のランの言葉だけでは、それがセリアへなのかアシリアへなのか特定が出来ない。もし相手がアシリアならば、応援だろうとなんだろうと大いにしてやれる。
だが、もしその相手がセリアならば後押しなど冗談ではない。何が悲しくて自分の恋敵となる者の恋路を支えなければならないのだ。
「それに、恋愛は若い内に沢山経験しておいて損は無いと思うよ」
「お前は時々年寄りみたいな事言うよな」
胸の内でかなり思い悩むイアンとザウルを見て何を思ったのか、ルネ堪えきれずにクスクスと笑っていた。
そんな会話があってから一週間、ランがどうしていたかと言うと、何もしなかった。それはもう清々しい程。まるで、本当に全て丸ごと忘れたかのようである。
素直な彼は自分では解決出来ないと悟った問題を、友人の助言通りに実行しているに過ぎないのだが。しかし、こうもさっぱりと無かった事にされるとなんだか肩透かしを食らわされた様な気分だ。
そんな事知る由も無いセリアとアシリアは、今日も連れ立って温室へ顔出す。
セリアが来れば恒例のカールとランと三人での議論に突入。それをアシリアを加えた他の者が暖かく見守る。そんな光景も段々と見慣れたものになって来た。カールやランにズバズバと意見をぶつけるセリアの対応には未だに戸惑っているアシリアだが、じき馴染むだろう。
議論が一段落してしまえば、全員での雑談に移る。カールだけは用事がある、と校舎に戻ってしまうのだが。協調性の無さを直す積もりは毛程も無いらしい。
アシリアが加わってからは雑談にも花が咲く様になった。やはり、会話の中に女という花が有ると無いとでは違う。しかも、アシリアは相手を疲れさせない会話の出来る者である。そうすれば、自然と雑談も盛り上がる。一応セリアも女ではあるが、花とは程遠い。
「そういえばセリアさん。先程の事は本当にもう大丈夫なんですか?」
「あっ。はい。全然大丈夫ですよ。ご心配おかけしてすみません」
唐突に聞いたアシリアに、候補生達がなんの事かと疑問を浮かべると、アシリアが説明しだした。
それを聞くに、どうも穏やかでは無い話だった。
学園で階段を降りていたセリアを、後ろから突き落とした人物がいるというのだ。急な事にバランスを崩したセリアは、盛大に段差を転げ落ちてしまったという。
咄嗟に受け身を取ったので大した怪我もせずに済んだのだが。偶然近くを通りかかったアシリアが音を聞きつけて駆け付けた時には、もう誰の姿も無かったらしい。
信じられない話を聞いた様な顔をする候補生達を見ながら、セリアは非常にバツの悪い思いをしていた。出来れば彼等には知られたくは無かったのからだ。
こういう嫌がらせは別に初めてでは無い。似た様な事は今までに何度も起こっているし、その度に遠回しでも直接でも理由は言い聞かされている。大事にはなっていないのだし、この程度の事で泣く程気弱でもない。なので、特に問題にもしていなかったのだ。しかし、それをアシリアに言う事は出来ず、結局口止めをするに至らなかった。
その結果がこれである。全校生徒の代表とも言える存在であるマリオス候補生の彼等も、学園内でこの様な事が起こっていると知れば、良い気分では無いだろう。
元々彼等は、学園内で起こっている事に常に責任感を抱いている節がある。それもマリオス候補生に求められる素質の一つなのだろうが。なので、あまり余計な事を言って心労をかけたくないと思っていたのだが。
チラリと彼等の顔色を伺えば、端麗な顔の眉間の間には何本も皺が寄っていた。なんだか睨まれている様な気がして、ヒイッと縮こまってしまう。やはり余計な問題を起こしたのはまずかったか、とセリアはかなり焦っていた。
背を丸めて小さくなるセリアを見ながら、ザウルは沸き上がる苛立ちを必死に押さえ込んでいた。
なんだそれは。そんな事、セリアは少しも悟らせなかった。その事に更に怒りが増す。
セリアに害を与えようとする者が居る事も、そんな事が学園内で起きた事にも十分不快感を抱く。
しかし、何よりも自分を苛立たせているのはセリア自身だ。何故自分達を頼ろうとはしないのか。相談くらいしてくれても良いだろうに、セリアは全くそんな様子は見せなかった。
恐らく、アシリアが言わなければそのまま何事も無かった様に過ごしたのだろう。いつもと何ら変わりない態度に、焦れったさを感じてならない。
誰だろうと、そんな事があればその直後しばらくは多少なりとも警戒心を抱くだろうに。また同じ様な事が起こるかもしれないのだ。しかし、セリアからは危機感も不信感も何も感じ取れなかった。
必要以上に周りを疑えと言っている訳ではない。せめて、普通の人間程度には注意を払えないだろうか。
「セリア殿」
「…はい」
「自分が付き添いますから、今すぐ医務室へ行って下さい」
「ええ!!」
いつになく厳しい眼差しのザウルに言われてセリアは慌てた。そんな大した事ではないし、怪我も無いのでそんな必要は無い。
そういう意味を込めて遠慮しようと目線を移せば、セリアの言わんとしている事を読み取ったのか、多方面から「行け」とキツイ視線を頂戴した。
こんなに睨まれては行くしかなくなる訳で、セリアは渋々頷く。しかし、流石に付き添って貰うのは悪いと思い、一人で行くと言えば更に氷の様な視線が降り注いだ。いやいや、なんで自分がこんなに睨まれるのだ。やはり学園内での揉め事は、彼等の機嫌を損ねさせてしまったのだろうか。
ブツブツとそんな事を呟きながらも、ザウルに連行されたセリアを見送った候補生はすぐにはぁっと息を吐いた。全員思うところは一緒の様で、もう少しどうにかならないものか、と考えを巡らせる。そんな候補生達の耳に鈴の様な声が届いた。
「あの……」
「アシリア。何か気付いた事はあるか?」
「あの、その。出来ればランスロット様だけにお話したい内容なのですが……」
「………?」
目で「少し時間をくれ」と語るアシリアに、ランは困惑する。
何故自分だけなのだろうか。そう疑問に思って仕方ないのだが、断る理由が無いのも事実。ランがゆっくりと頷くと、二人は温室から出た。
「それで、私に話というのは」
「セリアさんですが、その……誰かに恨まれるような事をしたのではないでしょうか?」
「はっ……?」
言い難そうに言葉を紡いだアシリアを、ランは虚を突かれた様な顔で見た。アシリアは非常に真剣な顔をしており、冗談を言っている様には見えない。
「あんな事、悪意があってやったとしか思えません。それほど、セリアさんの素行に、何か問題があったのでは?」
「…………」
確かに、階段から突き落とすなど、それなりに敵意を秘めた者でなければしないであろう。一歩間違えれば、何が起こったか分からないのだ。なので、アシリアの意見もそれなりに説得力があった。しかし、納得は出来ない。
「例えそうだとしても、それにはきっと何かの誤解があった筈だ」
「……………」
「私は、彼女が好んで他人を傷つける様な真似はしないと信じている。君もそうだろう」
強いランの言葉にアシリアも俯いてしまう。自分が今何を言っても、ランの考えは変わらないだろう事は分かった。
セリアを疑うなど考えられない、とでも言う風に語ったランに、アシリアも説き伏せられてしまう。一瞬、表情に陰が差した様に見えたが、アシリアはすぐに「そうですね」と納得した事を伝えた。
「アシリアがそんな事を?」
「下らん。あれが他人に害を与える程の器量を持たないと、見れば誰でも分かるだろうに」
夜、男子寮の談話室でアシリアとの会話の内容を聞いた候補生達は、少なからず驚いた顔を見せた。まさかアシリアからそんな言葉が出るとは思いもしなかったのだ。ルネから事の成り行きを聞いたカールも、半ば呆れた様子だ。
「まあ、貴族のお嬢様なんてそんなもんだろう」
花の様に守られながら育った令嬢が、多少愚直な考え方をするのも仕方ない。そういう点でも、セリアがどれだけ奇特な存在かを物語っている。
「フン。やはり深窓の令嬢というのは考えが甘いらしいな」
カールの厳しいお言葉に返す者は居らず、全員が苦笑いを浮かべていた。
どうしたのものか。また、厄介な事になってしまった。
これはかなりまずい事になった。非常にまずい。どれくらいまずいかと言うと、最悪の場合、学園を追い出されてしまうかもしれない程まずい。
と…取りあえず、もう暫く様子を見てみよう。何の手掛かりも見つからないのだから、下手には動けない。
でも………