契機 4
ハアハアと息を切らせながら、セリアはただひたすらに走った。何処へなどという当ては無かったが、今はとにかくジッとしていられなかったのだ。
ドクドクと脈打つ心臓はきっと走った所為だ。胸が苦しいのも、こんなに全力で走っていれば当然だろう。けれど背筋から湧き上がる妙な感覚に、足を止める気になれない。
見られただろうか。あの時あまりにも唐突だった為、きちんとカールの表情を確認できなかった。けれどあれだけ自分は声を上げていたのだから、聞こえていたとしても不思議は無い。どうしよう。知られてしまったのだろうか。だとしたら、どう思われたのだろう。
決定的な言葉は言っていないとしても、察しの良いカールだ。もしかしたら、あの場面を見ただけで自分が何を言おうとしていたのか理解したかもしれない。
そう思っただけで、セリアは頭が真っ白になりそうだった。
いやなのだ。彼に自分がイアンと結婚すると知られるのは。どうしても、カールにだけは知られたくなかった。けれどそんなことは無理だと今更ながらに思い出す。
カールに気付かれずにイアンと結婚なんて、そんな馬鹿な話は無い。しかしそれを思うと、更に心が揺らいでしまう。
カールのあのバイオレットの瞳を思い出すだけで、イアンとの結婚は無理だと叫んでしまいそうになる。
そこまで考えてセリアは自分の思考に思わず目を見開いた。
今、自分は何を考えた……?
それまで我武者羅に動かしていた足が自然と止まった場所は学園の校門。そこまで走ってきたかと思えば急に立ち尽くす少女の姿に、何事だと首を傾げる者がその脇を通り過ぎて行くがそんなこともセリアには分からない。
自分の思考を埋める言葉を反芻しながら、セリアは浮かんだ考えに思わずワナワナと唇を震わせる。
違う。これは違う。絶対に違う。
そう思えば思うほど、あの銀髪が思い浮かんでまるで心臓から侵食していくかの様に胸の中で存在が大きくなっていく。
しかしそれは、イアンとの結婚が遠のいていく感覚も同時に与えるもので、そのことを考えると込み上げる吐き気に立っていられなくなった。
「……うぁっ」
思わずその場で蹲る。
眩暈がしてフラフラと定まらない視界にセリアが口元を押えて深く呼吸を繰り返していると、その姿に駆け寄る者が居た。
「セリア!?」
「……えっ?」
聞き慣れたその声に思わずゆっくりと視線をあげれば、やはり思った通りの人物。けれど何故此処に。
「あ、姉様?」
ドレスの裾を翻す姿も美しく、焦った表情で目を見開く従姉の存在に、セリアはほんの僅かに息苦しさが解れた気がした。
セリアを訪ねて先程の場面に遭遇してしまったカレンは、最初こそ慌てたがセリアの不調が外傷や体調不良からくるものではないと説得されて漸く落ち着いた。
そのまま、学園へ戻る気にはなれなかったセリアと、街中にある適当な店で腰を落ち着ける。
運ばれてきた紅茶の香りに、持ち上げたカップを優雅に口につけるとカレンは徐に視線を上げた。
「少しは落ち着いた?」
「……うん。ごめんなさい、姉様」
「本当に、ビックリしたのよ。私のセリアに何かあったんじゃないかって」
流石に目の前で踞られれば、自分でも驚いただろう。とセリアは思い起こしもう一度短く謝罪を口にした。
「それで、セリア。何があったの?」
「え、えっと…… そんなに大したことじゃなくて」
「真っ青な顔で道に倒れそうになるのが?」
すかさず言われ、うっ、とセリアは言葉に詰まる。そんなセリアにカレンは更に追い打ちをかけてきた。
「もしかして、恋の悩みかしら」
「ぐっ!?」
「あら?……まあ!本当に?そうなのセリア!?」
途端にビクリと肩を震わせたセリアにカレンは自分で聞いておきながら驚き身を乗り出す。まあそれも仕方無いと言えるが。
まさかこんなところでセリアの口から恋を語られるとは、流石のカレンでも想像していなかったのだろう。しかし、これは大いに喜ばしいことである。
途端にカレンはセリアから事情を聞き出そうと瞳を輝かせるが、そこでみるみるセリアの顔色が悪くなっているのに気付いた。頬も赤くなるどころか青ざめ、肩も小刻みに震えている。
まるでこの世の終わりでも見ているかのような顔だ。その様子に、カレンは乗り出した身を静かに戻した。
漸く、乙女心に目覚めたのか、と思ったが、やはりセリアが一筋縄でいく筈もなく。どうやらすっかり別方向へ突っ走っているようだ。
折角からかってやろうと意気込んだカレンだったが、少し苦笑してから短く息を吐き出すとそのまま悪戯心を引っ込めた。
「話しにくいことかしら?」
「うっ。そ、それは……」
途端に目を泳がせるセリア。しかし、その顔には照れや恥じらいなど欠片も見られないままだ。
これでは恋の話をするのか、死刑宣告を待っているのか、解ったものではない。
「セリア。一人で悩んでも、行き詰まるだけじゃなくて?」
「…………それは」
「貴方は昔私を助けてくれたでしょう?ギルとのこと、反対されてた時、応援してくれたじゃない。それと同じよ。私にも貴方を応援させて」
二人の関係が周りの理解をまだ得られなかった頃。たった一人、脇目も振らずに奔走したのがセリアだ。一度会ったギルベルトを気にするカレンの為、頼まれた訳でもないのに彼の素性を調べたり、反対され会うのを控えようとする二人の背中を押したりと。
二人の仲を邪魔するなと、剣の師でもあるカレンの父に勝負を挑んだこともあった。
そんなセリアが、自分の恋でこんな絶望的な顔をしているなど、許す筈がない。
「でも、これは……」
「セリア。話すだけでも楽になるものよ。一人で辛い思いをするくらいなら、少しでもいいから吐き出してしまいなさい」
「…………」
カレンの言葉に、セリアは顔を俯かせながら唇を強く噛んだ。
「あ、あの、姉様には前に話したと思うんだけど。その、青の盟約のことで」
「イアンさんのことね」
「うん。それで、私…… イアンのきゅ、求婚を、受けないといけないのに」
「…………」
まるでそれが義務かの様に言うセリアに、思わずカレンは言葉を挟もうかと悩むが、取り敢えずはセリアに語らせることにした。
余計なことは言わずに、この世の終わりかの様な顔のセリアの言葉に耳を傾ける。
「そうは思ってるんだけど。その……最近、別の人のことが頭から離れなくて」
「……セリア、もしかして」
「イアンに結婚するって言おうとしたけど、その人のこと考えただけで出来なくて……」
苦しげな表情に、カレンはその心をはっきりさせるように、静かに疑問を投げた。
「誰か、別の人が貴方の心には居るのね」
「…………わ、分からない。けど、多分、そうなんだと、思う………… 姉様」
滅多に見せない縋るような表情で顔をあげたセリアは、一度口元を引き結ぶと意を決した様に声を絞り出した。
「私は、私はイアンの青の盟約に応えたいのに。私はどうしたら……」
「どうして?」
「へっ!?」
急に掛けられた疑問の言葉にセリアは思わず俯き気味だった顔を勢いよく上げた。視線の先には、初めとなんら変わらず優雅な姿勢で座るカレンが、首を傾げながらこちらを見詰めてくる。
「どうして貴方はイアン様の求婚に応えたいの?」
「えっ?だ、だって、それは……」
何故、と聞かれるとは思っておらず、セリアは言葉に詰まる。
「それは…… イアンがそれを望んでるから。私でイアンに何か出来るなら」
「そう。つまり、貴方はイアン様を喜ばせたくて求婚を受けたいと思ったのね」
カレンの言葉にセリアはコクリと頷く。
イアンは自分との結婚を望んでいるのだ。青の盟約までした彼に、自分が出来ることといえばそれくらいしかないではないか。
そう言うセリアにカレンは内心で短くため息を吐いてから、さて、と紅茶のカップをソーサーへ戻した。