契機 3
その夜、イアンに言われた言葉が頭から離れず、セリアは自室のベッドで一人悶々としていた。
結婚してくれ、と言われたからには、つまりイアンは自分と結婚したがっているということなのだろう。と当たり前の事を頭で確認し直す。
好きだ、と言われたからには、つまりイアンは自分が好きなのだろう。と、これまた当たり前のことなのだが、うんうんと唸りながらセリアはまた確認した。
うん、やはりそうなのだろう。と漸く納得すると、今度はセリアは自分の事に向き直ってみる。
彼を好きかと聞かれれば、好きだと答えられる。けれど、それが彼の望む好きでも、結婚を考えるべき好きでもないことは、流石のセリアも学んだ。
けれど、それが最大の障壁となっている訳であり。要は自分さえ彼の事を好きになれば全てが上手くいくのだ。
そこまで考えた時、ふいにまたあの銀髪が思考の隅で揺らめき、セリアはサッと顔を青くする。
な、何を考えているのだ自分は。今カールは全く関係無いではないか。
ブンブンと頭を振って余計な男の顔を追い出すと、セリアはもう一度イアンとの事に集中する。
つまり、結婚してくれ、と言われたからには……
などと、またまた当たり前の事を確認し出す。
そうやって一向に埒が明かない思考を延々と繰り返していたが、結局結論は出ない。そしてやはりどうしても脳裏に浮かぶ銀髪と冷たい瞳が離れないのだ。
どれくらいそうしていただろうか。ピィピィと聞こえた鳥の声に、ハッと顔を上げると何時の間にか射し込んでくる朝日。
一晩ずっと考え込んでいたのか、と訳の解らないショックを受けると共に、セリアは込み上げた溜め息を遠慮無く吐き出した。
ーーやはり、このままにはしておけない。
結局どうやっても動くことの無いその考えに、再びため息が漏れる。それに、これ以上応えを引き延ばしては、なんだか何時までたっても言えないままになる気がしてくる。
セリアの中では、出さなければいけない応えは既に決まっているのだ。遅かれ早かれ、イアンの求婚は受けなければ。以前もそう決めた筈。
けれど、本当に自分は彼と結婚が出来るのだろうか。
イアンと結婚を……
考えてセリアはぐっ、と思わず口元を引き結んだ。
ダメだ。どうしても想像出来ない。考えようとする度に、頭が混乱して思考が回らない。
気を抜けば今にも喚きそうになる、無理だ、という言葉を押し殺し、セリアは既に朝日に照らされる窓の外を強く見据えた。
その日の授業中、背後にある存在を意識しながらセリアは必死に耐えた。
イアンとの挨拶はどうしてもぎこちなくなってしまうし、カールなど顔も合わせられない程だ。それでも、イアンはまるで何事も無かったかのように振る舞うし、カールも相変わらず冷たい瞳で一瞥してくるだけで、むしろ何故自分がここまで焦らなくてはならないのだ、と訳の解らない苛立ちすら覚える。
いやいや、決めたではないか。今日、イアンに求婚の応えを返さねば。まだ実感は出来ないものの、もしかしたらそんなものなのかもしれない。
それに、求婚を受けたからと言って、今日明日結婚する訳でもない。そうだ。何の問題も無いではないか。イアンの望む応えを返せるし、すぐに結婚を考える必要があるわけでもない。
焦りの所為か、イアン本人が聞けば途端に眉を顰めて怒り出しそうな考えに納得しながら、セリアは時が過ぎるのを一秒一秒数えながら待った。
授業が終わった後でイアンとさり気なく二人になり、そこで自分の考えを打ち明けよう。そう計画を練りながら、セリアはひたすらにハンスの言葉を聞き流す。
その間に、イアンに伝えるべき言葉を懸命に選んだ。
青の盟約を受けます、といえばいいのだろうか。いや、しかしそれだとなんだか淡々とし過ぎてやいなだろうか。ならば、結婚して下さい、か。けれどそれも違う。
そんな風にああでもない、こうでもない。と自分の考えに耽っていると、トンと肩を軽く叩かれた。
「わっ!?」
「セリア殿?授業は終わりましたが……」
ハッと見上げれば不思議そうな顔をしたザウル。その言葉の意味を理解すると同時に、セリアはあっ、と立ち上がった。
何時の間に授業は終わっていたのか、ハンスの姿が無い。ついでにランとカールの姿も無いが、一番重要なイアンまで姿を消しているではないか。
「彼等は用事があると言って…… 先に温室へ行っていてくれと」
「ずっとぼんやりしとったけど、どないしたんや?」
横から首を傾げたルイシスまで現れてしまい、冷や汗を流しながらセリアは己の失態を恨んだ。自分の考えに浸って、授業の終わりにすら気付かなかったなんて。
「なんや、まるで恋でもしとるみたいやで」
からかう様な声色で言われた言葉に、セリアはビクリと肩を揺らした。心臓が早鐘を打ち、せり上がった焦りのままにルイシスを振り返る。
「変なこと言わないで!違うわよ」
「お嬢ちゃん?」
「あ、私も用事あるんだった。ちょっと行ってくる」
驚く二人に多少の気まずさを覚えるが、そんなことに構っている暇などなくセリアは教室を飛び出した。
まずいではないか。早くイアンを見付けなければ。温室に行かれてしまっては、今日は彼と二人きりになるチャンスを失ってしまう。そうなると、また明日仕切り直しとなるが、それは出来れば避けたい。
これは一刻も早く解決しなければならない事だ。だから、ルイシスの言ったことなど気にしている暇などない。
そう言いきかせながら、胸に走った奇妙な焦りに蓋をし、セリアはイアンの行く先を懸命に考える。
あちらか、こちらか。とそれこそ貴族の子女らしくないほど校内を駆けずり回っていると漸く、その姿を視界の端に捕らえた。
その瞬間、見付けた、という安堵と共にその背中を呼び止める。
「イアン!」
「セリア?」
思わぬ所で呼び止められた所為か。いきなりどうしたのだ、と言いたげなイアンに追いついたセリアは乱れた呼吸のまま言葉を吐き出した。
「ハァハァ……あ、あのね。あの、言いたいことがあって」
「ん?まあ取り敢えず落ち着け」
それまで待っててやるからと言うイアンの言葉に、胸に走った罪悪感を押しやり、素直に甘える。乱れた息を整えようと深く呼吸を繰り返せば、ポンポンと上下する肩を優しく叩かれた。
そこで漸く多少言葉を紡げる程度に息を吸い込むと、勢いのままセリアは切り出す。
「あの、昨日のことでね……」
「セリア。そのことなら、俺が先走ったのは悪かったが、お前がそんなに気にする必要は……」
「そうじゃなくて」
気にするなと言いたげなイアンの言葉を遮るようにセリアは僅かに声量を上げる。今ここで優しい言葉を言われてしまえば、折角固まった決心が鈍ってしまいそうで。
けれど、背筋を襲う気まずさに顔は未だにあげられない。それでも早く言わなければ、とそのまま声を発した。
「あ、あのね。その、私……」
セリアは引き攣る喉を無視し、止まるなと己を奮い立たせる。拳を握り、イアンに見られまいと顔を俯かせたまま震えそうになる唇を噛んだ。
何も考えるな。考えればまた答えが出せなくなる。ただ一言、彼と結婚すると言えばいい。彼の望むことに、ただ頷けばいいのだ。
昨夜から何度も繰り返してきて台詞も決めて来たではないか。
大丈夫。何も考えずに台詞をただ声に出すだけでいい。
『イアンと結婚する』と。
「私、私ね…… イアンと、っ!?」
漸く顔を上げた瞬間、瞳に映ったものにセリアは思わず息を飲んだ。視界の端で揺れた銀髪。廊下の奥からこちらを見据える冷たい瞳。
ドクン、とセリアはまるで心臓が耳元まで迫り上がってきたのかと思うほど自分の鼓動が大きく聞こえた。コツコツと近付いてくる靴音に、手の先から冷水に浸かったかのように震えてしまう。
いやだ。聞かれたくない。
そんな単純な言葉で思考が埋め尽くされ、イアンに言うべきだった言葉が吹き飛んでしまった。
「ご、ごめんなさい。やっぱり、なんでもない!」
「あっ!おい、セリア?」
途端に踵を返して走り去って行く背を、イアンは呆然としたまま見送った。咄嗟に伸ばした手も、ほんの僅かに流れる栗毛の先を掠めただけだ。
一体、なんだったのだ今のは。とセリアの行動に目を見開いていたが、その内背後から近付いて来た気配がすぐ後ろまで迫ったので、取り敢えずそちらに向き直る。
「カール。お前、教員室に用事だって言ってなかったか?」
「フン。たまたま通りかかっただけだ」
「……ああ、そうかよ」
ならばさっさと行ってしまえ、と僅かに表情が強張るのを自覚しながら、それでも平静を保って道を譲った。
イアンが横にズレると、そのまま何事も無かったかの様に通り過ぎて行くカール。その揺れる銀髪を見ていると、先ほど消えて行った栗毛が思い起こされイアンはカールが廊下の奥に消えると奥歯を強く噛んだ。
「……流石に、詰んだか。これは」
最後の言葉を言いかけた瞬間、セリアが見せたあの表情。廊下の奥に居た者の所為だろう、見せつけられたその茶色の瞳の色に、イアンはまたギシリと奥歯を軋ませた。