女神 6
血を吐いて倒れたキースレイに駆け寄ったセリアは傷口を咄嗟に両手で抑えるが、あまり意味は無い。手の隙間から流れ出る鮮血が、床に大きな紅い池を作って行く。
「ハ…… ハ、ガ……」
「終わりだ、キースレイ。これ以上、俺達が進む意味は無い」
残念そうにキースレイを見下ろすハガルの手には、キースレイをその状態へ追いやったナイフが握られている。そのハガルと同じ様に、他の裏切った青のローブ達も、諦めたようにその顔を俯かせた。
何が起こっているんだ、と事の成り行きを見守るしか出来ないジークフリード達マリオスに、ハガルがフッと笑いかけた。
「今回、俺達が起こす血の革命。それには、一つの絶対条件があった。それは事の真相。つまり、全ては仕組まれていたという情報が、絶対に漏れないこと。そりゃそうだ。国民が漸く立ち上がり、勝ち取った革命が、全部最初からお膳立てされてたなんて、興が醒める。
計画の全容を知るのは、ここに居る十一人と、キースレイのお気に入りのヨーク・バルディとルネ・レミオットだけ。鍵である王弟殿下すら本当の事は知らない。革命軍として利用する筈の駒は、俺達マリオスが手を引いてるとは夢にも思ってないだろう。全ては、俺達十一人の同士で成し遂げなければならない事だった」
饒舌に語るハガルの言葉を、セリアは耳にしていたがその内容はあまり頭に入ってこない。目の前では、血を流し苦しそうに悶えるキースレイと、その胸から流れ続ける紅。
なんとか出血を止めようと躍起になるセリアを尻目に、ハガルは続けた。
「これまでは、計画を知った連中を殺してでも、と突き進んで来たが。マクシミリアン殿が出て来て、しかも各国への根回しまで済んで来たとなれば話は別だ。既に漏れ出た情報を、幾ら操作しても綻びは出る。革命が終わった後に、きっと亀裂を生む。なら、俺達の計画はここで終わりだ。こうなった場合、俺達の取る行動は、最初から決めてある」
ハガルは持っていたナイフを自らの首に当てる。同じように、他の青のローブ達も、一斉に凶器を己へ向けた。
何を、と一歩踏み出そうとするジークフリードに、ハガルはもう片方の手でローブの下に持っていた大きな封筒を投げつけた。
「俺達は裁判にはかからん。忠誠の象徴であるマリオスの、前代未聞の反逆を公にはしない。全ての罪は、俺達があの世へ持って行く。
ジークフリード。その中には今回の事に加担した奴等や、危険因子の名前がある。全員、己の私腹を肥やす為なら反逆も構わないとする大馬鹿どもだ。煮るなり焼くなり好きにしろ。ただ、俺はお前が馬鹿正直に今回の事を公表はしないと信じてるぜ」
高々と宣言するハガルの言葉に漸く彼等が起こそうとしている行動を理解し、セリアが咄嗟に止めに掛かるが、それは強い瞳で止められた。
「悪かったなお嬢ちゃん。怖い思いさせちまってよ。でも、アンタも国を想う者なら解るだろ。ここで俺達が逮捕なんてされたら、国民はどう思うか」
「そ、そんな…… だからって、ハガル様!」
仕方無いな、とでも言いたげに瞳を細めると、ハガルは最後に玉座の前で立つ国王に視線を定めた。
「俺達は、この国の繁栄に忠誠と命を捧げた。その結果がどうなろうと、一切の悔いは無い!英明な王よ。今一度、貴殿とこの国に女神の祝福があらんことを!」
「女神の祝福があらんことを!!」
それが合図だったのか。振りかざされたナイフが、それぞれの首元や胸を引き裂くのと同時に、多くの鮮血が吹き出した。
それを止めようとする間も無く、彼等の身体は床へと倒れて行く。それと同時に、忠誠の象徴である尊い青いローブも、赤く染まって行った。
「ハ、ハガル様!」
キースレイの傷口を必死に押さえながらセリアはその名を呼ぶが、それに返す者は既に瞳を閉じ旅立っている。
「そんな。こんな…… こんなことって」
「……ガフッ!グッ、ううぅ」
「キースレイ様?……キースレイ様!しっかりして下さい。キースレイ様!」
咳き込んだキースレイに、セリアが必死に呼びかける。意識をしっかり持ってくれ、と傷を押さえつけるが、傷口だけでなく、口からも鮮血が溢れ出した。
ぼんやりと冷えて行く指先を感じ、キースレイはああ、と声を上げた。つもりだが、実際は声などでずに、ヒュウっと空気の音がしただけだ。
一人だけ、ハガル達の覚悟を知らなかったキースレイは、僅かに事態の処理が追いつけない。誰よりも熱くこの計画を成就させようと躍起になる彼が、窮地に立たされても諦めることはないだろう、とハガルは解っていたのか。
まだ、まだだ。とキースレイは必死に酸素を肺に取り込む。まだ、こんな風には終われない。この国を、再び潤すと決めたのだ。女神が見捨てたこの国に、その微笑みを取り返すのだと。
遠のく意識の中、キースレイは自分を呼ぶ声を聞いた。うっすらと開けた目に映るのは、光を背に自分を見詰める少女の影。
…………め、がみ……?
ぼやける視界の中、キースレイは必死にその腕を伸ばした。
……ああ、漸く、私に、この国に、微笑んでくれるのか。どうか、どうかその祝福を、我が愛するクルダスの大地に……
キースレイが最後に伸ばした手が床に落ちたのを、セリアは呆然と目で追うしか出来なかった。
目の前で尚も広がる赤に、掛ける言葉を失う。謁見の間に転がる幾つもの青のローブが血の色に染まって行く様子に、セリアは動くに動けなかった。ただ出来たのは、何処か穏やかに見えるキースレイの表情を見詰め返すだけ。
そうして呆然としていたのはどれくらいだったのか。何時間もそうしていたかのように感じるも、実際はほんの数秒だったのだろう。
未だに起こった状況が唐突過ぎて纏まらない思考に、それを遮る声が響いた。
「セリア!」
「ご無事ですか?」
聞こえた声に顔を上げれば、謁見の間へと現れる自分の仲間達。
「……皆、どうしてここに?」
ポツリと呟いた問いだが、その理由はすぐに察する事が出来た。なにせ、彼等を見てその登場を解っていたかのように、クルーセルが口角を吊り上げたのだから。
キースレイの血に塗れたセリアに候補生達は初めは思考が停止するも、本人は無傷であると確認できたようで、安堵と共にその場へ駆け込む。セリアも同じで、候補生達の無事な姿に、それまで強張っていた身体からほんの少しだけ緊張が解けた。
その気の弛みの所為か、背後に立った気配に気付かなかったのだ。
「お嬢ちゃん。後ろや!」
「えっ?……あぅ!」
瞬時に羽交い締めにされ、それまで座り込んでいた床から無理に立ち上がらされたセリアは、急な拘束に苦しげに顔を歪める。
「ヨ、ヨーク先生!」
「お静かに。何方様も、その場で動かないで戴きたい」
セリアの首筋に当てられたナイフに、候補生を初めマリオス達も全員がグッと動きを止める。これ以上、一体何をしようというのだ、と眼光を鋭くさせるジークフリード等に、ヨークがフッと表情を緩めた。
「ご安心下さい。これ以上、私に抗う力はありません。ですが、自分にはハガル様達から言い渡された最後の役目が残っています。勿論、この城から脱出すれば、彼女も無事に解放します。ですから、私の気が変わらない内に、どうぞお下がりください」
まるで以前の穏やかだった時の様な優しい声色と口調に、セリアは思わず息を飲んだ。ジリジリと下がるヨークに比例して、セリアの視界から彼を捕らえようと隙を伺う候補生やマリオス達の姿が遠ざかる。
セリアを人質にとったヨークはそのまま玉座の後ろで、セリアが開いたままにしていた隠し通路に身を滑り込ませると、追ってくるなと最後に念を押し、その扉を閉めた。
消えた二人の姿に、真っ先にその後を追った候補生達。必死に腕を伸ばし、一刻も早くと地を蹴る。
だが、その彼等が隠し通路を開いたその時には既に、ヨークも、当然セリアの姿も消えた後であった。