女神 5
「さあ、そこに署名を」
再び国王に刃を向けるヨークに、咄嗟にセリアが立ちはだかった。
「セリアよ。其方が傷付く必要は無い。刃の前から退きなさい」
「例え陛下のお言葉でも、出来ません」
後ろから掛けられた声にも、セリアは咄嗟に首を振って拒否する。 例えそれが尊敬する国王の言葉であっても、今ここを退くなど出来なかった。
「いい加減にしなさい。貴方も国に忠誠を誓った者なら解る筈です。今、この国には変化が必要だと」
「それでも!」
退けと迫るヨークと、言い聞かせるキースレイを、セリアはキッと睨み返す。
「それでも、私はここを退きません。キースレイ様こそ、その刃を納めて下さい」
「……私の話を聞いていなかったのですか。この改革には……」
「それでは、沢山の血が流れます。尊ぶべき多くの国民の血が。貴族だって、国の一部です。例え腐敗があったって、それだけじゃないと、私は信じます!」
セリアは精一杯声を振り絞った。国王を中心として、それを支えるマリオス。そして、自らの生まれ持った立場と地位の責任を果たすべく、国に仕える貴族達。そして、更に貴族達を支える平民。だからこそ、国王は民の為に尽くす。
それが、この国が保ち続けてきた、クルダスという誇りであり、国のあり方そのものだ。初代国王と女神フィシタル、そしてマリオスが国を築き上げ、民に栄光を与えて来た。
「血で全てを洗い流し、貴方の望む国が出来ても、それはもうクルダスじゃない。偽りの革命の上に偽りの歴史を背負った、全く別の国です」
「それが必要ならば、その責は我々が背負って行けば良い」
「それでも、流血は怨恨を生みます。根付いた恨みは、きっといつかまた別の形で牙を向く。そんな国を、私は見たくない」
「それが愚かだと何故解らない!そうして現実から目を逸らせば、それこそ他国に国を潰される。腐敗は既に、取り除ききれないんだ」
「だけど、それだけじゃない!」
自分の周りには、確かに貴族であることを当たり前に受け止め、その責に気付かない者も居た。だけど、彼等は違う。自分の仲間は、その地位も環境も、そして生まれ持った能力すら、責任に変えてそれを果たそうと努力している。
毎日の様にこの国の事を考え、心から国を想う彼等を、自分は見てきた。そうやって、クルダスの民として誇りを持った者はまだ居る。決して、腐敗した貴族達ばかりじゃない筈だ。
「きちんと、責任を果たそうとする人達だって居る。それは、立派なこの国の財産です」
「そんな綺麗事を。今のこの国に、一体どれ程の価値があるというんだ。自分がどれだけ生温い妄想を語っているか、解らないのか。何も知らない子供が」
「ええ、私はまだ現実を知りません。だから、本当は貴方の言う通りなのかもしれない。周辺諸国からこの国を救うには、貴方の計画が一番確実なのかもしれない。マリオスで無い私なんかが、何が正しいなんて語ることは出来ません。精一杯考えて、キースレイ様の仰った事も受け止めます。それでも、この道を私は選びました」
しっかりと相手を見据えて、セリアはもう一度、精一杯陛下を庇う腕を広げた。
「私は、貴方を説得してるんじゃありません。私の信じた道に従って、貴方に立ち向かってるんです!流血を望むというのなら、まずは私の血からにして下さい。でも、私は決してここを通しません。血を流す革命がこの国の進むべき道だとは、どうしても思えない!」
「その通りだよ。セリア君」
セリアがそこまで言い切った時だった。謁見の間の重い扉が開き、聞き覚えのある懐かしい声が響き渡ったのは。
ギシリと音を立てた扉の向こうから差し込む明るい光。それにまるで背を押される様に、ゆっくりと歩く三人の男。
声を発した男の後ろを、もう二人が付き従い歩く。恭しく伏し目がちに付き従うその二人も、当然先を歩く一層威厳を持った男も、セリアには見覚えがありすぎる相手だった。
「校長先生!?クルーセル先生、ユフェト校長先生も。どうしてここに?」
「あらあ、セリアちゃん。言ったでしょう。あの通路は色々な所に通じてるのよ。当然、王宮への道だってまだまだ沢山あるんだから」
つい今まで優美なほど畏まりながらマクシミリアン校長の後に従っていた筈が、途端に明るい声を出すクルーセル。それを横のユフェトも気になった様だが、軽く眉を寄せて一瞥するだけに終わった。
「ヨーク君。その短刀を下ろしてはくれないかな」
「……マクシミリアン」
突然現れたマクシミリアン前校長に、その場の誰もが驚きで言葉を失う。けれどたった一人、それまで静かに事を見守っていた国王が、小さく表情を緩めると立ち上がった。
「間に合ったようだな。マクシミリアン」
「万事滞り無く」
穏やかな表情の校長が、ぐるりと謁見の間を見渡しながら、静かに告げた。
「キースレイ様方が用意した数々の反乱の芽。全て潰させて戴いた」
「なっ!?まさか貴様、その為にわざわざあんな小芝居を。崖から落ちたなどと、馬鹿らしいとは思ったが」
「勿論、国外に散らばる我がフロース学園卒業生の協力の下、各国の要人とも新たなる約束を交わしたよ。これまでのことは忘れてくれ、と」
ゾッとする程、今の校長の威厳は半端では無い。何時の間にか、マリオスと学園校長、という立場の差が逆転していた。口調が変わっているのに、それに気付かない程。
有無を言わせず、呼吸するのすら躊躇わせるその姿に、セリアはタラリと冷や汗が流れた。
「キースレイ様を初め反乱に関わったマリオス様達にたどり着くまで、随分と時間がかかってしまったが」
自分に移った校長の視線に、冷や汗が伝う感覚を覚えながらもキースレイが毅然と向かい合う。
「……それは、意外でした。陛下やマリオス方、そして、要注意人物である貴方とその部下の周りでは、特に慎重に行動していた積もりでしたが」
「確かに、私の周りでは、ね。しかし、だから貴方を揺さぶる存在が必要だった」
校長の視線が徐に移動する。鋭い瞳に射抜かれ、セリアは思わずビクリと怯んでしまうが、それでも校長の言葉の真意を静かに待った。
「そちらにとって目障りなだけの存在。それまでの候補生とは違う。陛下や私が本気で人材の育成や獲得に動き出したことを主張出来る様なマリオス候補生。特に、それまでは無かった女性、という要素を使えば、こちらの本気を示せると思ってね」
「……その為に、この娘を利用したということか」
「セリア君の周りを嗅ぎ回るネズミから、根を掴む事がなんとか出来た」
この計画の為に、十一年間新たなマリオスを誕生させなかった。けれどそれは、他の無関係のマリオスや国王、そしてマリオス育成機関とも言えるフロース学園を動かす結果となったのだ。
とはいえ、それまでは学園に忍ばせていたヨークが処理していた。新たな才能が芽を出せば、互いに仲違いさせたり、問題を起こさせたり。そうして確実に新たな人材が育たぬ様にしていたのだ。
けれど学園は、そして国王は、唐突に現れたたった一人の少女。政治には立ち入らせまいと貫いて来た女という存在を、マリオスという地位にまで引き上げようとした。
キースレイ達としては、彼等がまさかここまで強引に事を起こすとは思わなかったのだろう。
国王にもマクシミリアン校長にも、目をかけられ悉く邪魔をしてくるセリアに、キースレイも煩わしさを覚えた。だからこそ、監視の意味で見張りを付けたことが仇となったのか。
「特に、もし君が関わっているとしたら、学生時代の自分に似ている、セリア君に触発されると思ったよ」
自分を見据えこともなげに思惑を語るマクシミリアンに、キースレイから表情が消える。と思ったがそれは一瞬で、すぐに耐えきれないとばかりに肩を揺らし始めた。
「……ククク。アハハハハハ!見たかセリア・ベアリット。これが事実です。君が全霊を賭けて貫いた誇りも、命を投げ打って捧げた忠誠も。結局は、利用される為だけでしかなかった。自分で摑み取ったと信じた夢の第一歩。マリオス候補生という地位は、ただのまやかし。使い捨てられる為に与えられた、一時で終わる戯れだ」
キースレイの嘲笑う声が部屋の高い天井に木霊する。
「どれだけ理想を掲げても、現実は残酷だ。己の愚かさを痛感した今、その忠誠は揺らがないと言えますか」
ビシッとキースレイがその指を突きつける。
「答えなさいセリア・ベアリット。これだけ利用され、しかもそれが、貴方が最も嫌う性別が女だという理由だ。これだけの事をされて、それでもまだ綺麗な心でこの国を愛せるというのですか?」
「………そんなこと」
校長の言葉を聞く間、俯きその表情に影が差していたセリア。堅く握っていた拳が解かれ、俯いていた顔を上げた。
「そんなこと、関係無い」
「なに?」
「……よかった」
ほぉっと漏れた溜息。それに怪訝な顔をしたのは、決してキースレイだけでは無いだろう。一体何を言い出すんだ、とセリアに視線が集まる中、まるで心底安堵したように、そして嬉しそうにその表情を緩める。
「よかった。私なんかでも、少しはこの国の、私の信じる道の役に立てた。それだけで、本望です」
「……バ、バカバカしい!その純粋さを、ここではただの愚か者と呼ぶのだと、どうして解らない!」
思わずと言ったようなキースレイの、悲痛な叫びが響く。けれど、それにもセリアの瞳は、まるで動じる事は無かった。
「私は、この国が好きなんです。国の為に何かが出来るなら、なんだってしたい。それに…… 例え利用される為であったとしても、他の、本当のマリオス候補生達とこの国について語れた。それだけでも光栄です」
セリアの言葉に、それまで黙っていたマクシミリアンの眉がピクリと反応を見せる。それ以上を遮る様に、その低い声がセリアを強く貫いた。
「セリア君、それにキースレイ様も。私は確かにセリア君の候補生の地位を利用したが、その為だけにその地位を与えた訳ではない。むしろ、マリオスとして相応しい実力と忠誠を持ったセリア君が前に現れたからこそ、利用しようとも思えた。決して、使い捨てる為だけに、実力の無い者をマリオス候補生にしようなどとは思わないよ」
「……校長先生」
「君は、立派なフロース学園のマリオス候補生だ。将来国を導く事を期待され、次代のマリオスに最も近い場所に居るよ」
その言葉に、僅かに唇が震える。確かに、校長の真意を聞いた時は多少衝撃を覚えたかもしれないが、それはそれで、自分がこの国の役に立った証。それだけで十分だとも思えた。
だからだろうか。動揺した時ほど本心が出るのか、本望だというのは嘘では無い。自分でも先ほどの言葉があまりにも自然に出て、少し驚いたばかりだ。
けれど、改めて校長から、マリオスに相応しいと言われて心が揺れる。嬉しさと不安と、両方でごちゃごちゃだ。
けれど、校長の言葉に動揺を見せたのはセリアだけではなかったようだ。残酷な言葉で切り捨てられようとしても尚国王の前に立ち、身を挺してその存在を守ろうとするセリアにキースレイの苛立ちも最高潮に達する。
「もう、結構です。これ以上は頼みません。こうなれば、私の手で!」
「……やめろ、キースレイ」
「なっ、ハガル様!?」
「もう、俺たちの負けだ」
「何を……… ガフッ!」
唐突にキースレイの後ろからその肩を掴んだのは、同じく裏切った筈のハガル・ボルスキーだ。けれどそんなことよりも、セリアが驚愕に目を見開いたのは、止められたキースレイが次の瞬間、血を吐いて倒れ込んだこと。
「キ、キースレイ様!?」
その胸を貫いた短剣の光が鈍く光る。ドサッと音をたてて倒れ込むキースレイと、それを眉を寄せながら見詰めるハガル。
流石に訳が解らなくなって、セリアは一歩二歩とフラつくが、誰にも手を差し伸ばされること無く苦しむキースレイの姿に、思わずその側に駆け寄った。