女神 4
「これで役者は揃ったという所でしょうか。それでは陛下、早速ですが、始めたいと思います」
キースレイの言葉に、「何を」と誰が問う前にヨークが更に前へ進み出て、懐に手を伸ばすと一枚の丸められた紙を取り出した。
「陛下には、これに署名して戴きたい」
「………」
やはり相手が国王では流石のヨークも礼を尽くすのか。
膝をつきながら差し出されたそれを国王が受け取り目を通せば、深い溜息が漏れた。
「残念だが、それに応じる訳にはいかんな」
その内容は、自分の後の王位を弟、ヴィタリーに譲ることに自身が同意するというものだった。
きっぱりと拒否した国王に、キースレイは余裕を漂わせる笑みを向ける。
「陛下。残念ですが、何としてでも応じて戴きます」
「貴様、キースレイ!何の積りもだ!?」
途端に上がる怒声。国王へ対する無礼な物言いに、これまで抑えてきた緊張が限界に達したのか。詰め寄ろうとしたそのマリオスの一人を、彼よりは冷静だったジークフリードが止める前に、鋭い刃が斬りつける。
「グアッ!」
何の迷いもなく襲いかかった刃に、咄嗟に反応出来なかったのか。血が舞った肩口を抑えて蹲る男に、冷たい声が投げつけられた。
「エルムート様。どうぞ冷静に。この後殺す予定の身とはいえ、かつての同僚をあまり苦しめたくはありません」
「き、貴様…… 正気か!」
裏切った青のローブの一人に切り付けられたエルムートを見ながら、ジークフリードは流石に冷や汗を流した。
この後殺すと、キースレイは言い切った。恐らくこの場の全員、生かしておく積りはないのだろう。最悪の場合、陛下すら。
「陛下。お解りいただけましたでしょうか?これは提案ではありません。どうぞ、そこに署名を」
「何度言われても同じことだ」
怯んだ様子を少しも見せずに、未だ動じることなく再び拒否した国王に、キースレイとの間で緊張の糸が張り詰める。
そんな硬直状態を回避する為か、ヨークが立ち上がり懐からまたしても短剣を取り出した。
「仕方がありません。陛下に手荒な真似はすまいと思っていましたが……」
片手さえ使えれば署名は出来ると、ヨークは国王の左手に刃を近付ける。
途端に残ったマリオス達が動き出すが、当然青のローブ達に遮られてしまう。裏切った元同僚を忌々し気に睨みつけるジークフリードだったが、それで相手が退く筈もない。
そんな状態でも尚、威厳を失わず堂々たる姿で座る国王に、ヨークは流石に刃を止めるが、ここで本気を見せ付けない訳にはいかないのか。肩から切り付けようと軽く短剣を持ち上げる。
ところが、そんな誰もが覚悟した瞬間、ヨークの視界をある筈の無い栗毛が掠め、それに過剰に反応を示したヨークは動きを止めてしまった。
「やめて下さいヨーク先生!」
「貴方は……」
突然、王座の右後ろに現れた隠し扉。重そうにそれを押し開けた少女が中の様子を理解すると同時に叫んだ。
慌てて走りより、懸命に自分と国王の間に割って入ったその少女に、ヨークがギシリと奥歯を噛む。
「貴方は、何処まで私の邪魔をすれば気が済むんですか!!」
「何度だって、貴方が陛下を害しようとする限り。例え殺されたって、這い上がって邪魔します!」
きっぱりと言い切るこの少女を、まさに感情任せに切り付けようと考えた時だ。そんなに言うならお望み通り、国の為に身を犠牲した尊い命の一つに加えてやる。と頭に血を昇らせたヨークと、それに対峙するセリアを、謁見の間に響き渡る拍手の音が遮った。
パチパチと、あまりにもその場の空気に不釣合いな音にセリアが振り返れば、ニッコリと微笑み、けれど瞳の奥に僅かな苛立ちを含んだキースレイがゆっくりと手を叩いていた。
「これはこれは、勇ましいお嬢さんのご登場だ。まさか、捕らえろと命令した王国軍を掻い潜り、王族と一部の臣下しか知る筈の無い隠し扉を使い、何度目とも知れない命を投げ出しながら陛下を守るべく表れるとは。どんな奇跡の持ち主ですか、貴方は」
「……キースレイ様。何故、貴方がこんなことを」
余裕気な態度を崩さぬキースレイに、セリアは意を決して尋ねる。ずっと聞きたかった事を。
「かつては、誰よりもこの国を正しく導こうと。優しさでもって国を包もうと志した貴方が。どうしてこんな強引な事をなさるんですか?」
「……何ですって?」
「貴方のフロース学園を卒業する際の論文を読みました。少なくともその時の貴方は、己の道を信じ、この国を守り抜くという強い決意を持っていた筈です。例え何があろうと、穏やかさと慈しみを持ちながら、女神を愛し国を愛すと。そう書かれていました」
連なる言葉から溢れる忠誠。心にまで響く強い決意。何より、この国を愛する彼の想いと優しさを目の当たりにした。
「そんな貴方が、その心を変えたとは、私には思えません。貴方のしている事が貴方の信じる道なのかもしれない。ですが、こんなやり方ではこの国まで変わってしまいます」
「それは結講。この国に既にそんな価値は無いのですから」
ゾッとする程までに冷たい声。突然変わったキースレイの声色に、セリアは思わずフルリと肩が震えた。
何を言われたのか解らなかった。それが何を意味するのか、彼は何を見ているのか。
「綺麗事ばかりを並べていたかつての私は、その時この国がとても美しいものだと思っていましたよ。けれど実際は全く違う。まだ気付かないのですか?この国はこのままでは必ず滅びる」
「……滅びる?」
「深く根付いた下らない身分制、地位にしか興味を示さない貴族、私腹を肥やすしか脳の無い金持ち共。富める者がより豊かに、貧しき者はより苦しく。なのに、誰もそれに気付かず当たり前の様に受け入れている」
表向きは平和に見えるこの国でも、腐敗は着実に広まっているのだ。
英明な王を中心に誰もが誇り高く誠実に生きるこの大地に、女神は祝福を与えた。それこそが、このクルダスという国の誇り。である筈が、いつしか己の権力を保持する為、自らの財のみを確保する為、国を汚す馬鹿共が蔓延り出した。
「その腐敗を正そうとしても、己の地位の味を占めた愚か者がそれを許す筈もない。けれど、例え煉獄の道だろうと歩む覚悟はあった。それこそが、私の使命だと感じていた時期も、確かにありました……… この国の、民までもが誇りを持たない愚か者だと知るまでは」
少しずつ腐敗を取り除こうと、守ろうとした平民すらも、金や権力の前には理想を捨てた。今が苦しくとも十年後、百年後、我々の努力が実る様に。いくらそう説得しても、横から渡される端金欲しさに、裏切る者がどれだけ居たか。
その所為で、多くの同胞を失った。罠に落とされ、謂われの無い罪で失脚する彼等を、守ることすら出来なかった。
「何故、解らないのですか。この国に、既に祝福など与えられていないと。女神に見捨てられた、価値無き大地だと」
何処までも深く暗い色を向けるキースレイの瞳に、セリアはまるでそれが彼の絶望を表しているようにも感じた。
強い理想と信念を持ってマリオスという国の中枢にとても近い地位に着いた彼の、失望はどれだけだっただろう。
キースレイが、穏やかに見えてとても激しい情熱の持ち主だと、セリアは既に知っていた。高い誇りと理想を掲げ、それを諦めることをしない。何処までも突き進み、留まる事が出来ない。自分と似ている、と。
その彼をここまで追いつめる程、この国の内政の腐敗は進んでいたのか。
「このままでは、何れ周辺諸国に飲み込まれる。この土地が他国者に踏み荒らされる。そんな未来がすぐ真近に迫っているのに、どいつもこいつも保身、保身、と………… 耳が腐る!!」
自分でその内容に、我慢ならなかったのか。思わずといったように一度強く吐き捨てる。キースレイの苦々しい叫びが、広い謁見の間の天井に響いた。
そうして取り敢えず己の感情を語るのに満足したのか、また先程の穏やかな表情に戻れば、その視線を再びセリアに定めた。
「ですから、全ての腐敗と一緒に、この国ごと建て直す事にしたのですよ」
「どういう意味ですか?」
「貴族制の完全廃止。王族からもその権力を奪い、全て一からやり直すのですよ。この地で、革命を起こします。腐った貴族と愚かな王族を打ち倒し、国民が自らの手で理想を勝ち取る、そんな国に」
「か、くめい…… そんな。それこそ、周辺国の思う壷です。内乱が起これば、各国がこの土地を放って置かない。付け入る隙を与えるだけではありませんか」
国が荒れれば、当然この土地を狙う者達が介入してくる。そんな、絶好の機会を態々与えるなんて、正気ではない。
「その心配はありませんよ。既に各国の有力者。隣接する土地の領主。その他あらゆる権力者達との話はついています。時には交渉、時には脅迫と、長くかかりましたが全員が納得済みです。内乱の間、この国に一切の手出し無用、と」
根回しは万全だと語るキースレイは、きっと嘘はついていないのだろう。水面下でそんな大事をやってのけるなんて。生半可な覚悟では成し遂げられない。下手をすれば、取り返しのつかない事態にだってなり得たのに。
「そう。ここまで来て、けれど一つ問題がありました。国王陛下。貴方ですよ」
キースレイが指差した先では、これまでのやり取りを変わらぬ態度で眺める国王の姿。突然の事態に驚きすら見せていない王の様子にも、キースレイは構わないと計画内容を明かす。
「貴方は、英明だった。誇りを失わず、一国の主として、民の父として、これ以上無いほど理想の国王。内政の腐敗も、貴方だからある程度抑制出来ていた。ですが、最後の王が立派だった。などというのは、革命後に再び王という立場を祭り上げる理由にしかならない。愚かな王と貴族、これに民が立ち向かい打ち倒す。それが無ければ我々の計画は完遂しない」
だからこそ、欲に目をくらませた国王の弟。キースレイにとって何処までも都合の良いあのヴィタリーという男を国王とする必要があったのだ。
未だ英明な国王の下だからこそ、抑制されている貴族達だ。ヴィタリーが国王となった場合、国の腐敗がここぞとばかりに進むのは目に見えている。それを全て明るみに出し、しかもその主君という地位すらも、あらゆる不正の上で勝ち取ったものだと国民が知れば。
「愚かな暴君に立ち向かう、勇敢な革命家達も既に準備しています。辛うじて国の誇りの象徴である、我々マリオスと共に、国に反旗を翻し、ヴィタリー陛下を討ち取る者達が」
彼等が突き止めるであろう、数々の不正。国民の貴族への信頼を根底から覆す、その証拠も準備が出来上がりつつある。
手始めは、コーディアスを初めとした議会の議事録改竄だ。それらが少しずつ明るみになりつつあるこの時期、ヴィタリーが国王として君臨する。
「陛下には、弟が欲深いと知りながらも、その血で玉座を支配する拘りを捨て切れなかった、悲しき王として名を残して頂きます。どうぞ、そこに署名を」
明かされたあまりにも壮大な計画にセリアは、返す言葉すら見つけられずに、ただ呆然と玉座の前で対峙する青のローブ達を見つめていた。