出動 6
セリアは必死に足を動かしながら、残して来てしまったルイシスの事を思った。本当にこれで良かったのだろうか。もし、ルネがルイシスに害を与える様な事があったら。
そうは思うものの、当人であるルイシスに押された背中が、振り返る事も立ち止まる事も許さなかった。
心配をするしか出来ない自分が口惜しい。でも、今は足を動かさなければ。ルネがここに居たということは、間違い無く何かが起こる。
任せろと言ったその言葉を信じるしか出来ないまま、セリアは奥歯をグッと噛んで懸命に手掛かりを探した。
すると、ピィィと笛の様な音が耳を打つ。少し遠くだが、確かに聞こえたその音にセリアは思わず振り返った。
一体なんの音だ、と考えを巡らせていると、何時の間にかすぐ傍から多くの気配がこちらへ迫ってくるのも感じる。
明らかに近づいて来る足音に、セリアは咄嗟に脇道に逸れた。急な方向転換に足がもつれるが、そんな事気にしている場合ではない。
なんとか物陰に身を滑り込ませた瞬間、すぐ側を何人もの男達が過ぎ去って行く。あと一歩遅ければ姿を見咎められていただろうそのギリギリな状況に、背中を冷や汗が流れるがセリアはなんとか息を殺してやり過ごした。
熱り立ったような形相の男達が何人も通り過ぎるのを待ち、物陰から恐る恐る出てみれば、自然と気になるのは男達の現れた方角。一本の道から流れる様に出てきた男達に、彼等の守っているものがそちらにあるのだと直感のようなものが走る。
セリアは短く息を吐き出して呼吸を整えると、意を決してその道へ足を向けた。
薄暗い路地をまっすぐ走って、未だ辺りで気配を振り撒く男達を何度かやり過ごした頃、セリアはその道の行き止まりに無視出来ないものが置かれているのを見つけた。
「これって……」
それは、こんな裏路地の様な場所には似つかわしく無い。セリアと背丈がほぼ同じ程の白い女神像だった。
「女神、フィシタル」
建国の象徴でもある女神の纏う空気に、まるで引き寄せられる様に足を向ける。改めて全体を見遣れば、白いと思っていた像は所々汚れていて、もうずっとこの場所で放置されている事が分かる。雨や風に曝され、少し欠けた部分が痛ましい。
けれど、何故こんなものがここに。あまり似つかわしく無い裏路地などに、まるで隠れるかの様にして。
疑問に感じれば当然、セリアは調べずにはいられなかった。
女神の周りの壁をくまなく探してみるが、それだけでは不信な点は見つからない。
ならば、像の下はどうだ。
次の予想を確認すべく、セリアは女神像を横から押しやろうと力を込める。が、ビクともしない。
こんな時でも自分の非力さが恨めしい。と、内心で悪態をつくも、それに女神像が答えてくれる訳も無く。
けれど負けるものか、と何時の間にか意地になりながらセリアは額を流れる汗も拭わずに懸命に女神像と格闘する。
すると、ふとこちらへ駆け寄る足音に気づいた。
拙い、とセリアは反射的に肩を震わせる。
もしや、追手が来たのか。一瞬血の気が引くも、ここまできて諦められるか。と瞬時に臨戦体制に入る。チラリと辺りを見回して、何故か転がっていた鉄パイプを握りしめ、壁に身を寄せる。
そうしている間にも近付く足音に、息を殺して相手が来るのを待ち構えた。
あと、数秒で接触する。
あと、少し。
もうちょっと。
そして……
いまだ!! と思い振り被った鉄パイプを現れた影に向かって叩き込む。
が、それは相手の頭部に直撃する前に阻まれた、と理解した瞬間には腕ごと横から伸びた手に掴まれ信じられないほどの力に引かれる。
「えっ!?」
「あ、セリア!?」
グッと目の前に迫った拳がギリギリの距離で止まるのと、その奥の赤い瞳が見開かれるのは同時だった。
そのなんとも微妙な体制のまま惚けた二人だが、それも一瞬のことで、サッと顔を青くしたイアンが慌てた様子で手を離した。
タラリ、と冷や汗が流しながら、解放されたことにセリアは安堵する。けれど、目の前に迫った拳は、本気で怖かった。
「わ、悪かった!大丈夫か?怪我は?」
「私は平気。イアンこそ当たらなかった?大丈夫?」
お互い大丈夫かと安否を確認する。けれどもし、自分の振り下ろした鉄パイプが命中していたら、とあり得た未来を想像してセリアは血の気が引いた。
「すまねえ。いや、殺気を感じたから咄嗟に……」
「わ、私の方こそ。ごめんなさい。それよりも、どうしてこんな所に?」
確か彼はこの時間、もっと西の区域を捜索している筈だ。
「ああ、お前が何か掴んだって連絡が入ってな」
その時の状況を思い出してイアンは一瞬顔を歪めた。
飴をコロコロと口内で転がして楽しむ少年が近づいて来たと思えば突然「可愛い御馳走を青い羽で独り占めしようとしたけど泣き顔に怯んで失敗したお兄ちゃん?」なんて言われれば眉間に青筋が浮かんだのも頷ける。
渡されたメモの送り主に検討を付けるのと同時に、子供に一体何を言わせるんだ、と苛立ち任せに舌打ちしそうになったが、ギリギリの所で抑えた。
確かに、セリアから目を離す訳には行かないのだから、ルイシスが直接伝えにくる訳にはいかない。手っ取り早く手近の子供に連絡を頼むのも、まあ褒められはしないがそれしか無かったと言えば納得出来る。
更に言えば、ルネやヨークも加わっているこの計画。相手側が自分達マリオス候補生を危険視し、イアン・オズワルドの名前も把握されている可能性もあった。そんな中で、少年にその名を探させる訳に行かないのも当然だ。
相手側には気付かれず、マリオス候補生ということも知らせず、尚且つ聞けば一発でピンと来るのものがあるのも、悲しいが事実だ。
だからといって、なんでそんな言い方をされなければならないんだ!今すぐにあの余裕げな態度の男の横っ面を殴ってやりたい。
「い、イアン?」
何時の間にやら不穏な空気を流していたイアンに、セリアが思わず問いかける。そこでハッとしたのか途端にイアンは平静を装うが、内心は実に穏やかではない。
けれど自分が逃した御馳走でもあるセリアにそんなことぶちまける訳にもいかない。恐らく合流したあとの自分の葛藤も奴の計算の内なのだろう、とルイシスに内心で思い切り毒突いておく。そして何喰わぬ顔でセリアに向き直り、なんとか場を納めた。
というより、そんなことを気にしている場合ではないのだった。
「これか?」
「うん」
静かに佇む女神像にイアンが視線を定めた。それを移動させようとセリアが奮闘していたのだと聞くと、イアンが任せろ、とそれを横へ押しやる。
すると、セリア一人ではビクともしなかったそれが、いとも簡単に横にズレたのだ。
「……軽いな。動かすことを前提にしたものか?」
「えっ?」
軽いなんて言われたことに、セリアはショックを受ける。自分があれだけやっても動かなかったのに、それを容易くやってのけ、しかも軽いとは。
衝撃の言葉に呆然としそうになりながらセリアが視線を落せば、イアンのそれに比べ小さな手。
ついそのまま後ろ向きな思考に走りそうになるが、頭を降ってそんな考えを追い出す。こんな所で余計な考えは駄目だ。決めたではないか、信じて進むと。
「これだな」
イアンの言葉に顔を上げれば、動いた女神像の下にぽっかりと開いた穴。地下へ続く階段を見せたその入り口に、セリアの胸はドクンと激しく脈打つ。
「おい、待て!」
途端に駆け出したセリアだが、腕を掴まれ後ろに引き摺られた。
「無防備に飛び込むな。何処へ繋がってるか解らねえぞ」
「だって、だってそんな悠長な事言ってられないよ。女神像なら多分神殿関連。もしこれが神殿に繋がってるなら……」
容易に敵を神殿内部へ引き込むことになってしまう。今の所騒ぎが届いていない所を見れば、まだ何も起こっていないのだろうが、それも数秒先は解らない。
王国軍が警備に来る様子も無い。神殿への抜け道、もしくは神殿からの抜け道か。それかもしれないこの通路を、守る為の警備に誰も居ない。
こんな怪しい場所、すぐにでも確認しなければ。
「俺が先に行く。いいな。お前は後からだ」
「で、でも……… 解った」
反論しようとした途端、鋭い視線で睨まれセリアは頷く以外出来なくなる。彼等を信用しようと決めた手前、真剣なイアンの言葉に反対する声が出てこなかった。
渋々とだが了承したセリアに、イアンは満足すると意識を抜け道へ向けた。こんなものがあったとは、もう一刻を争う事態かもしれない。
覚悟を決めて中へ進もうとしたイアンと、それに続くセリアだったが、二人同時に首筋にジリッとした殺気を感じ瞬時に飛び退いた。
咄嗟にセリアを押しのけ庇ったイアンのすぐ横を、ナイフの鈍い光が通り過ぎる。そのまま二突き目が繰り出されようとした腕を掴んで、イアンは背後から迫った男と真っ向から向き合った。
「イアン!?」
「くそっ、こんな時に……」
男と対峙するイアンは、ついにここが本命だと直感する。そこで、瞬時に二つの心が鬩ぎ合った。
セリアを行かせようとする国へ忠誠を誓ったマリオス候補生としての心と、セリアに危険があるなら例えそれで国が崩壊する結果に繋がろうと構わないとする心だ。
このままセリアを一人で行かせるなんて、イアンに出来る筈が無い。けれど、事態はもう一秒だって無駄に出来ない状態だ。
この穴を進んで行った者は、神殿への侵入をまんまと果たし、綿密な計画の元マリオスの後押しと共に国王の命を奪う瞬間を待っているのだろう。
そんなこと、絶対にさせられない。今まで生きて来た人生で、仲間と共に誓い歩んで来た道。国の為に、と進んで来た過去が、それをさせてはならぬと言い聞かせる。
しかし!セリアは、その今までの己の人生全てを根から書き換えた女だ。危険に放り込むくらいなら、このままその温もりを失うくらいなら……
紙一重で躱した男のナイフが、今度は頬を霞める。その瞬間、自分達の横で目を見開いて固まる栗毛の少女が居た。
その見開いた茶色の瞳に映る動揺の色の中でも、常に変わらず奥にある強い光。
…………駄目だ
「セリア、行け!!」
「……イアン!?」
横に避けていたセリアを穴に押し込むように回り込み、男とセリアの間に立つ。
駄目だ。もしここで自分が行くなと言って、本当に国王暗殺でも起こされては、きっとこの少女はまた自分を責めるだろう。後悔と苦しみに震えて、涙を流すだろう。
そんなこと、許せない。セリアが後悔に瞳を濡らすくらいなら、自分が慟哭の苦痛にのたうち回る方がよほどマシだ。
未だ呆然とするセリアを急かす様にイアンは一瞥をくれてやる。その視線に、セリアは覚悟を決めたように頷くと、薄暗い地下へと潜って行った。
ああ、と小さくなる背を視線だけで追ってイアンは胸に走った後悔に、思わず口の端を吊り上げる。この痛み、この苦痛。見えなくなるその栗毛を追いかけたい衝動を抑える時の、この焦燥。
思わず浮かんだ笑みはさぞ自嘲めいたものだっただろう。セリアの為なら、この苦しみが心地好い、なんて思ってしまったのだから。