明決 3
「ザウル、ごめんね。私の我が儘なのに」
同行してくれているザウルに、申し訳なさからついつい俯き勝ちに謝罪を言葉にする。何の裏も取らず、ただ猛進しているだけなのに、それに付き合わせてしまったのだから。
「セリア殿……」
しかし返って来たのはとても穏やかで慈しみすら感じるような優しい声。
「お気になさる必要はありません。自分がそうしたいのです」
「……ありがとう」
ザウルの真剣な表情にセリアは罪悪感が残るものの、安堵させるような空気に肩の力も抜ける。こんな風に何時も助けられてばかりだと思うと、やはり何処か遣る瀬無さを覚えてしまう。が、今は考えるのを止めよう。
セリアは今一度決意を改めたように、王都へ向かう汽車の窓から線路の延びる先を見詰めた。
ジークフリードへの謁見の許可が下りたという報せが届いて直ぐに学園を飛び出したセリアだったが、胸の内で未だに不安が燻り続けている。やはり、何の確証も無しにお会いするのは、拙かっただろうか、と。
しかし、ローゼンタール家を始めとする陛下の忠臣として知られる貴族達が立て続けに嫌疑を掛けられるほど緊迫した中、陛下が公共の面前に姿を表すなど。どうも矛盾しているような気がしてならないのだ。
ぼんやりと考えを整理している間にも時刻は進み、汽車の止まった王都の街並を視界に入れれば、彼等のすぐ傍まで来ていると実感する。
緊張の所為か、歩調が堅くなるセリアだが、ここで帰るなんて出来る筈も無い。
王宮内へ案内された頃には、セリアは己の不安や疑心が強まって行くのを感じた。
王宮内の中庭に面した美しい大理石の廊下を案内人に従いながら歩けば、体の筋肉は益々張りつめるばかり。
もし、自分が想い描いた人物が本当にそうだったとしたら……
「セリア殿……」
呼びかけられてハッとすれば、ザウルが若干警戒を強めた瞳で、目の前を見据えている。慌ててその視線の先を追い、そこに居た人物を確認するなり、セリアも目を見開いた。
ジークフリードの待つという部屋へ案内される途中。大理石の廊下に靴音を響かせてこちらへ歩いて来るのは忘れもしない、まるで蛇の様に目の前の獲物を絡めとらんとする瞳の、ヴィタリー王弟殿下だ。
中庭から入り込んだ陽に照らされ、まるで自分こそがこの宮殿の主だとでも言わんばかりの威厳と、ニヤリと弧を描く口元。セリア達にとって尤も警戒すべき相手であると同時に、今まで起こった事件の裏に居ると確信している人物だ。
その姿を見とがめるなり、脇にズレた案内人に習い、セリアとザウルも廊下の端に移動し横に並ぶ。
思っても見なかった人物との再開に、セリアは頭を下げながら、感じる気配に全神経を向ける。そしてそのまま目の前を通り過ぎてくれれば、と胸に走った想いを裏切る様に、ヴィタリーはセリアの元へ迷い無い足取りで近付いて来た。
「これはこれは。どうやら子鼠が迷い込んだようだな」
「………ご機嫌麗しく。ヴィタリー殿下」
出会い頭に小馬鹿にしたような言葉を投げかけたヴィタリーに、セリアは背筋に走る悪寒を誤魔化すように頭を上げて相手を見返す。そしてもう一度出来るだけ丁寧に一礼した。けれど、それは何処かぎこちないものになってしまったようだ。
「フン。相変わらず、礼儀を知らぬ娘だ。しかし、将来を有望された才女であることには変わりないようだな。王座の犬どもも、こんな小娘を自分達と同じ地位に持ち上げようとは、随分と酔狂なことよ」
「お褒めの言葉、恐れ入ります」
マリオスを侮辱され思わず拳に力が入り、何を考えるより先にそう返してやれば、ヴィタリーの眉がピクリと動く。途端にピリリとした空気が走るが、けれどそれはすぐに緩和された。
己の失言にしまったと顔を青くしたセリアも、その変化に違和感を覚える。
以前、始めて言葉を交わした時の印象は、それほど我慢強い人ではないというものだったのだが。
恐る恐る視線を上げれば当のヴィタリーは、先程よりは機嫌が下がっているものの、それほど怒りを感じていない様子だ。どうやら、元々の機嫌が大分良かったらしい。
けれど何時不敬だと騒がれるかもしれない。出来れば早くここから立ち去りたい、と願うセリアの前で、ヴィタリーはクッと喉を鳴らした。
「面白い。私は今機嫌が良いのだ。もう少し話に付き合って貰おうか」
「はっ?え、あの」
「何だ。文句でもあるのか?」
「あ、いえ……」
ジークフリードを待たせているというのに。けれど、幾ら自分達が疑いを持っている人物であるとはいえ、相手は王弟であり、王位継承権第一位の人間だ。
その彼の命令ともとれる言葉に反してこの場に背を向けることは叶わない。
廊下から直接中庭へ下りる背に従って、セリアは一歩進んだ。前を進む背に遅れない様足を動かせば、ザウルも同じ様に中庭に降りたのが気配で伝わった。
「……私はこの娘と話があるのだ。お前達に用は無い」
途端にセリアの後に続くザウルに冷たい瞳が投げかけられる。下がれ、という言葉にザウルはけれど、と食い下がった。
「しかし殿下。彼女は……」
「聞こえなかったか。下がれと言ったんだ。それともマリオス候補生だからと己の分を忘れたか?」
凄みを帯びた視線に、ザウルではなくセリアが顔を青ざめる。未だ自分達に続こうとするザウルを、セリアは咄嗟にその腕を掴んで制した。このままでは、ザウルが不敬に問われてしまうかもしれない。そんなこと、絶対に駄目だ。
「大丈夫だから。心配しないで」
「セリア殿。ですが……」
「それに、ここで問題を起こす訳にはいかないよ」
そう言えば、ザウルも口惜しそうに身を引いてくれた。安堵で胸を撫で下ろしながら、フンと嘲笑うように鼻を鳴らした王弟に続いて再び足を前へ進める。
セリア達が降り立った場所は、中庭と言っても賓客を持て成す為に整備された華やかな庭園ではなく、廊下から見る景色を彩る程度のもので、花よりも緑の木や茂みの方が多い。
けれど手入れは見事なもので、丁寧に育てられた樹木や草は、その成長も計算され庭師達が念入りに剪定しているのだろう。幾つもある中庭の内の小さな部類の一つの筈なのに、ちょっとした貴族の庭よりも広い。
その景色に思わずセリアが目を奪われていると、すぐ前から鼻で嗤う声がした。
「凝りもせずに、色々と嗅ぎ回っているようだな。余程生き急いでいると見える」
呆れた様な物言いに、セリアも思わず言い返してやりたくなるが、ここはグッと堪えた。ザウルにも言った通り、ここで騒ぎを起こせば、本来の目的であるジークフリードに会うことが出来なくなってしまう。先程のように衝動のままに言葉を紡ぐのは控えなければ。
そう決心を固めるセリアの前で、王弟は尚も神経を逆撫でする様に口元を吊り上げる。
「何をそうまでして粋がる必要があるのか。マリオスという地位がそんなに魅力か?ならばマリオスとなるだろう友人を今の内に誘惑する方が、余程てっとり早いというのに。むしろそちらが本来の女の幸せというものだろう」
「なっ!?何を‥‥」
「それとも己が始めて女の身でマリオスに上り詰めた才女となるのに愉悦を覚えるか。けれどそれで命を落としていては洒落にもならん。若い内は進める道が無限にあるというのに、何故盲目に一つの道しか選ばない」
「……失礼ですが、何を仰っているのかよく解りません」
たった今、反抗するべきでは無いと決心したばかりだが、セリアはやはり我慢が出来なかった。ここまで言われて、黙っていろという方が無理だ。
拳をギュッと握り締め、セリアは強い視線で相手を射抜いた。
「私は、忠義の為に行動しただけです。マリオスとなることにも、地位にも。固執はしていない積もりです。確かに、私はマリオスを目指すと決めました。ですが、それは私の忠義。国への忠誠から選んだ道です」
忠義を尽くすのが自分の幸せだ。国の為に何かが出来るのならば、それが一番の喜びだ。そんな想いを込めて懸命に相手を見返す。
「ですから……」
「フン。何を言い出すかと思えば、下らん」
言葉を切られセリアはそこで何時の間にか自分が必死になっていたことに気付く。しまった、と顔を青くしてももう遅い。こんな風に自制を忘れるなど、特に今この人の前ではあってはならなかったのに。
けれど、下らないと言い捨てられたことに、どうしても納得が行かない。そう思ったと同時に、胸をせり上がる想いが口からこぼれ出ていた。
「忠義を尽くすこと、心から仕えること。大好きなこの国の為に、何かしたいと思うのは間違いですか?」
「その行動理由が下らないと言っている。人は欲望によってのみ生きる生物だ。権力も財力も、手にしたいという欲は止められない。そして、それこそが人間が行きている証」
「……だから」
「だから殿下は権力を望むというのですか?そこまでして……… 多くの犠牲を払ってまで」
本来なら不敬を問われ罪人として捕らえられても可笑しくない程のいいようだが、セリアは言葉にしてしまった。それを今更後悔はしないし、王弟の心を知るには今しか無いとも思ったからだ。
真剣に見詰めて来るセリアを一瞥したヴィタリーは、不敬罪でこのままセリアを投獄することも出来る。けれど別段気にした風を見せず、次にはその周りを囲む樹木に視線を巡らせた。
「この庭は、上の渡り廊下からよく見える」
「はっ?……あ、あの」
突然何を言い出すのだ、と目を丸くするが、セリアの混乱などヴィタリーの構うところではないようだ。生い茂る葉を一枚人差し指と親指で挟むと、プツリと枝から毟り取った。
「この庭を通る者達は、実に多い。大臣、貴族、何処かの令嬢。権力を持ち、財ある者はこの庭を好きに歩き回り、そうで無い者は後ろをただ付き従う。右には美しい花が咲いていると知っていても、前を歩く者が左へ曲がれば、左へ進むのみ」
そう言いながら、ヴィタリーはそのまま右に曲がった。そのまま付き従っていけば、植え込みに隠れるようにして咲く小さな薔薇が姿を表した。
「幼い頃、私は渡り廊下から見えた大人の行動の意味が解らなかったものだ。何故、右の美しい薔薇を愛でず、前を歩く者に付き従うばかりなのか、と。そして、庭で植物を鑑賞することなく、ただ媚び諂う笑みで下らない話をするばかりな大人達を」
呆れたような声が紡ぐ言葉の真意は、混乱するセリアには理解出来ない。それでもヴィタリーは構わず続けた。
「しかし、理解したのだよ。彼等にはそれしか出来なかったのだ、と。小さな薔薇などよりも、下らない話に耳を傾ける方が余程自分に潤いを与えるのだ。なんとも哀れではないか。権力者に従属することしかこの庭での時の過ごし方を見いだせないとは。けれど、それが人の世。己の望みを叶えるのなら、花など踏みにじるも容易い。そしてそれが齎すものこそ、欲を満たす最高の美酒」
ヴィタリーの手が伸び、一本の薔薇がポキリと折られる。
「己の手の中にある巨万の富。人心すらも動かすことの出来る権力。そうして手に入れた力を、思いのままに奮う瞬間の快感。小娘には終世理解出来まい」
蛇の様な視線に射すくめられた瞬間、セリアは思わず頭の中が白くなった。ゾクリ、と背筋が冷たくなり、肌が粟立つ。
この人は……
「とはいえ、それでも負けじと花を愛でようとする愚かな娘が迷い込むこともあったようだ」
なんと返すことも出来ずセリアがただ呆然としていると、目の前に先ほどヴィタリー自ら手折った薔薇が差し出される。
「もし、そんな娘と右か左かで衝突することがあれば、それもまた一興。どう足掻こうと、私の道は変えられん。たとえそれで何を犠牲にしても。一瞬でもこの手に掴むものがあるのならな」
この人は、一体何を見据えているのだろう………
戸惑いながら差し出される薔薇を受け取れば、もう用は済んだのか。未だ呆然とするセリアなどまるで存在していないかの様に、ヴィタリーは無言でその場を去って行ってしまった。
ジークフリードと会うことになっている部屋に通され、本人を待つ為ソファに身を預けている間も、ヴィタリーの事が頭から離れなかった。今まで知らなかった彼の一面に触れた気がして、それまで抱いていた彼の印象が少し変わる。
どうしてだろう。あの時、何も言い返せなかった。
ヴィタリーに手渡された小さな薔薇は、ザウル達の目に留まる前に咄嗟にポケットに隠してしまったが。幸い、小さな薔薇は潰れることなく、ひっそりとセリアの服の中でも色付いている。
「……お待たせしました。セリア嬢」
「っ!?」
けれどそんな思考は部屋に現れた存在の声で一気に消えた。ゾワリと体中の毛が逆立ち、思わず座っていたソファから勢いをつけて立ち上がる。
重厚な扉を軽く叩き、優雅に部屋へ入室してきたのは、セリアが今だけは最も
会いたくないと思っていた人物だった。
「…キ、キースレイ様……?」
「おや。驚かせてしまいましたか。ジークフリードは急用で呼び出されてしまって、申し訳ないとは思ったのですが、私が変わりにお話を、と思いまして」
唐突な彼の登場に、どうしたら良いのか、と必死に考えを巡らせるが、あまりの事態に頭が追いつかない。ジークフリードに会いに来たのは、今目の前に居る本人の件があったからなのに。
「あ、その、それは、わざわざ申し訳ありません」
「いえ。そうお気になさらず。ところで、お話というのは?」
「あの、それは……」
どうすれば良い。何と言えば、この場を切り抜けられる。
「その…… 実は私の友人達のことなのですが」
「ああ。そのことですか。宮中でも噂になっているのですよ。ですが、そうご心配なさらずに。嫌疑と言っても、一時のものです。本当に罪に問われる心配はいりませんよ」
「そ、そうですか……」
どうしよう。この人と今ここで相対することになるなんて。まるで考えていなかった。
「お話は、それだけですか?」
「は、はい。すみません、お時間を取らせてしまって。申し訳ありませんでした」
肩の震えが治まらない。どうしよう。何を言えば、どうすれば……
「では、申し訳ありませんが。こちらも今は立て込んでいまして」
「は、はい。本当に、こちらこそお手間を取らせてしまって」
「……あまり顔色が良くないようですね。こちらで少し休んで行かれますか?」
「い、いえ……」
少しこちらを窺う様なキースレイに、必死に平静を装ってセリアは言葉を並べた。けれど、口を突いて出る言葉を、自分自身でも理解していない。ただ今は一刻も早くここから立ち去りたかった。
コツコツと廊下に黙礼する足音は、それを立てるものの歩調と同じく規則正しい。ランプの光がローブの見事な青色を浮かび上がらせる中、その者を呼び止める声が掛かった。
「キースレイ」
「おや。ジークフリード様。どうかされましたか?」
「ああ。春の到来祭の警備案が纏まった様なので、早めに検討しておきたいんだが」
「ハガル様がご考案されたものですね。了解しました。ですが今は他の案件がありまして、多少時間が掛かってしまいますが」
「そうか。構わないが、やはり陛下の御身にも関わる件だ。出来る限り優先してくれ」
「……御意に」
一瞬だけ、その瞳が細められたのを、それと対峙している者は気付かない。
「ああそう言えば。今日、お前の所へ来ることになっていた客人は誰だったんだ?」
手に持つ書類を軽く整理しながら、思い出したように訪ねた言葉。それに、もう一人は何の不自然さもなく静かに答えた。
「いえ。特に貴方のお耳に入れるような人物ではありません」
「……そうか」
もしかすると、今回の事であの少女が自分を訪ねてくるのでは。と僅かに過った考えを思い出したのだが、どうやらその様子は無さそうだ。
話は終わったと、男は蜂蜜色の瞳を意識と共に手元の資料へ再び戻した。
「では、私はこれで」
「ああ。それでは、頼む」
去って行くその背中を見送る間も惜しのか、それまで話し合っていた二人はお互い別の方向を目指して足を動かした。