疑念 3
「そんなことが……」
「うん。かなり緊迫した雰囲気だった」
伯爵と別れる前に聞いた住所を頼りに馬車を走らせる中、セリアは邸で聞いた口論の内容をザウル達に事細かに伝えた。その話から連想出来る事態に、ザウル達も眉を寄せる。
話して良いのか迷っている暇は無かった。今は一刻を争い、少しでも多く情報が欲しい。とはいえ、これで何かが解るのか、実際のところ確信は無い。完全に手探り状態だ。
ルネのことだって、彼のことを知ったからといって何がどうなるとは限らない。相対する立場であることは変わらないのだ。それに、ルネの事情をしったところで、それが敵と関連している保証はない。
でも、それはまだ解らないのだ。もしかしたら、何か手掛かりになるものがあるのかもしれない。
「だから、行ってみるんだろ。ほら。そう難しい顔ばっかしてねえで、移動中くらい少し休んどけ」
難しい顔をするセリアにそう言って、イアンは隣に座る小さな肩を抱き寄せた。力強い腕に引き寄せられイアンに撓垂れ掛かるような格好に、セリアは慌ててそこから起き上がろうとする。
「い、いいよイアン。そんな……」
けれど思ったよりも強い腕が離れることを許してくれない。ピタリと密着したままの体勢に、セリアが困り顔でイアンを見上げるが、本人は至って普通の顔で、しかもこちらを見ようとしない。精一杯抗議の意味を込めた視線も、これでは意味がないではないか。
崩れた体制とガッチリと回された腕の所為で、幾ら腹に力を込めても引き寄せられた肩を離せない。少しの間踏ん張ってみたが、まるで効果を為さない為に、結局諦めてセリアは寄りかかったままイアンの肩に遠慮気味に頭を預けた。
イアンに寄りかかってから暫くして、馬車の振動に身を揺すられながら、セリアは静かに寝息を立て始めた。
「イアン。あまり力をいれては、セリア殿を起こしてしまいます」
目の前のザウルに諌められ、イアンは眉を寄せながらも必要以上にセリアの肩を抱いていた手を僅かに緩めた。けれど、回された腕はまだしっかりとその小さな身体を自分の方へと引き寄せている。
「気持ちは解りますが、抑えて下さい」
「…………」
「今でも、十分お疲れのご様子です。お優しいその方の、これ以上負担を増やすようなことは……」
「解ってるさ」
遮られた言葉を、ザウルは解っているならば良い、と留めた。けれど、解っているからといって、止められる程度の想いでも無いことも、承知済みだ。
あれから、セリアに伸ばす手を必死に堪えるイアンの姿を何度も見た。イアンも、そして自分も解っているのだ。今ここでセリアに対して己の気持ちをぶつけることが、どれだけ彼女の心労に繋がるか。
ルネからあれだけの感情を無理やりに叩き付けられ、無体を強いられたにも関わらず、セリアはそれでもルネの心を気にしている。幾ら隠しているといえ、セリアの不安がそこにあるのは見れば解った。そんな彼女が、今の状態で他の男の気持ちを押し付けられて正常でいられる筈がない。
しかも、自分達には他に為さねばならないことだってあるのだ。卒業までもう時間があまり残されていない。特に、女性マリオスとなれるかなれないかの瀬戸際に立たされているセリアには。
マリオス候補生という好都合な立場を、もうすぐ手放さなければならないのだ。それまでに、少しでも己の存在を確固としたものとして主張しなければならないのに。
「解っちゃいるんだよ、俺だって。だけどな……」
「イアン……」
苦々しく奥歯を噛んだイアンが、眠るセリアを起こさないようにそっとその栗色の頭に鼻先を埋めた。
「何時まで保つか、解らねえ」
「……」
「今だって、ルネがしたのと同じことを。いや、それ以上のことでコイツを傷つけてやりたくなる。アイツのことなんて、全部頭から吹き飛ぶくらいに、な」
「ですが、貴方はしませんよ」
自嘲するようなイアンの言葉を、ザウルは静かに否定した。そのあまりにもはっきりとした言い様に、イアンは不審気に相手を見返す。けれど見詰めた先の琥珀色の瞳は、普段と同じ様に穏やかで、嘘や誤魔化しを述べているとは思えない。
「貴方には、セリア殿を貶めることは出来ません。その瞳の、絶望と悲嘆の色を受け止める勇気の無い貴方には」
「お前……」
「しようと思えば、何時でもできた筈です。その方を、幾らでもご自分の好きな様に。青の盟約までした貴方が、今更その方を傷つけてまでご自分のモノとすることを、躊躇うとは思えません。ですが、自室をあれだけ荒らしてまで、貴方はそれを抑えた」
「……知ってたのかよ」
「噂になる前に、貴方は手を打ったようですが」
男子寮の自室に、イアンはこれでもかという程の焦燥をぶつけた。それなりに広さを持った筈の一室が、使い物にならなくなるほど。しかも、それが一度ではなく、何度も。そうして己の拳がボロボロになるまで怒りをぶつけ、漸く平然とした顔が出来るまでの自制を取り戻してからセリアの前に顔を出すのだ。
「貴方ほどの想いを持った方が、あんな形でセリア殿を傷つけられても、ご自身を抑えている。同じ形でその方を望んでいる筈なのに、貴方はそれをしない。いいえ、出来ない。その方が心を閉ざしてしまう様なことは」
「……随分と、痛いところ突いて来るな」
否定する積もりはないのか、イアンは未だ眠る少女の瞳が、瞼の裏に隠されている様子をチラリと一瞥した。
「ああ、そうさ。覚悟ならあるんだ。他の全てを敵に回すことも、コイツを傷つけることも。例え、神に背いたって、俺はコイツを望む手を止める気は無い。だけどな、コイツの怯えた顔一つで、泣きそうな目だけで、それまでの全部がひっくり返っちまう。どうしても怯んじまうんだよ」
勢いに任せて、この小さな少女を押し倒すくらいは簡単だ。そのまま何も見ずに、ただ欲するままに、その場を自分の思い通りにすることも、難しいことではない。けれど、その後はどうすれば良い。
感情の乗らない虚ろな瞳を向けられ続けるのか。押し殺した泣き声を延々と受け止めれば良いのか。二度と笑いかけては貰えないと、諦めろと言うのか。
無理だ。考えただけでも吐き気がする。それだけは、どうしても覚悟が出来ない。恐怖を拭えない。
青の盟約の時に思い知らされた。何処までもお人好しのコイツは、自身を責め、罪悪感に押しつぶされ。悪いのは自分なのに、向けられたのは恨みでも憎しみでも無い、ただただ悲しげに揺れる瞳。
見詰めた瞳の中に自分へ対する何かの感情が籠っていたなら、それがどんなものでも良かった。恨みも憎しみも、怒りも怯えも、それがその瞳から向けられたものなら喜んで受け止めた。
けれど、セリアは違った。何もぶつけては来なかったのだ。瞳にあったのは悲痛と困惑の色だけ。己の中で押し込めようと、滲み出た涙だけだった。
気持ちは交わらないのだと。幾らぶつけても、それではセリアは何も返して来ないのだと。気付いたと同時に背筋が凍った。
けれど、それで良かったと思える。それがあるからこそ、自分はまだこの場所に居れるのだから。
「それで、正しいと思います。少なくとも、今は」
「………」
「感情を永遠に抑制することは、とても困難です。きっと何時か、なんらかの形で貴方はセリア殿への気持ちを整理する時がくるのでしょう。けれどそれは、形によってはその方の望みを奪ってしまうことになりかねます。ですから、今は……」
どうしようも無い。何も出来ない。今にも爆発しそうな感情を、無理やりに抑え込む以外の術を、イアンはどうしても見出せない。しかし、それしか無いのだ。宙吊りの状態で、進む事も戻る事も出来ないまま、身を焦がす業火に足先を撫でられていたとしても。
そうでなければ自分は、もしかすれば道を踏み外してしまう。一歩間違えば、取り返しがつかなくなるまでセリアを傷つけるかもしれない。
そんな危険な賭けを、今試すなんてとても出来なかった。
「お前も難儀な奴だな。恋敵に助言か?」
「自分は、その方が見据え、望むものを掴んで戴きたいだけです。その為に必要とあらば……」
たとえその所為でイアンの気が触れたとしても、この時にその一歩を踏み出すことはさせられない。その意味を込めて琥珀の瞳が静かに見据えれば、イアンはフッと口元を緩めた。
「ああ。今はそれでいいさ」
「ええ、今は……」
その今が、一体何時終わるのか。それは安らかに眠る栗毛の少女次第。
驚いたなぁ。こんな偶然ってあるんだね。それとも運命かな。何にしても、こんなに早く会えるなんて、嬉しいよ。
でもね、人の家であんまり僕を苛つかせることはしないで欲しいな。