疑念 1
王を支え、国を正せ。王を助け、国を導け。宝石の輝きを持って生まれた男に、そんな神託が下された。
初代マリオスに纏わる逸話は、数え切れないほど今も伝わっている。クルダス国の創設伝説の主軸を担う三人の登場人物の内の一人。クルダスとは、そういう言い伝えが現代でも深く根付いている国だ。
だからこそ、今でもマリオスとなる者は国の中核であり、絶対の忠誠を具現化した形とも言え、人々には国王に仕える側近として英雄視される。そして長い歴史上、マリオスという地位はその期待を裏切ったことが無い。それは当然これからもそうであるだろうと、誰もが疑う間でもなく信じ切っている。
それは自分も同じであって、疑念を抱くなどとんでもない。絶対にして憧れの対象。その身を捧げて国の為に奮闘する、それがマリオスであるのに……
「セリアさん」
「は、はい!」
若干強めの声に呼ばれ、セリアは慌てて席から立ち上がる。と同時に、逸らしていた視線を慌てて戻せば、眉間に皺を寄せたハンスが指で押し上げた眼鏡の奥の瞳を鋭くした。
「それで、答えは?」
トン、と教卓を指で叩いた音に、セリアは咄嗟に答える。
「はい。1482年8月2日のワレイテア講和条約の締結です。条約内容にジョルゼイェ平原の諸都市の徴税権の撤廃。レイエゼフティア公領の主権の承認。エナバポ領の返還。そして、イェルカスからの撤兵があります。条文の写しは現在のジョルナン市に保管されています。調印は……」
「セリアさん!」
「は、はいぃ」
苛立ったような声に、セリアはまたしても頓狂な声を上げ肩をビクつかせた。オロオロと前を見遣れば、何故か眉間の皺を深くしたハンス。
何か間違っていただろうか、と怯えるセリアを他所に深い溜め息が教室に響く。
「もう結構です。座りなさい」
「は、はい……」
ハンスが制止しなければいつまででも続けていただろうセリアは、ホッと息を吐きながら再び席に着いた。
けれどその後もぼんやりと上の空のまま机に向かったままで、授業内容が頭に入る訳もなく。それにすら気付かぬまま、セリアは考え込んでは周りの音で我に返る、といった事を何度も繰り返していた。
それは授業が終わり温室へ移動した後も同じで、一人明後日の方向を見ながら考え込むセリアに、候補生達も僅かに眉を潜める。始めこそ、ルネに受けた仕打ちがショックで沈んでいるのかとも思ったが、どうやら違うらしい。
だからといって、下手に刺激しても良いものか、と。声を掛けるのを躊躇っていたのだった。
そうして何処か気まずい雰囲気が流れる中、ガシャンという音と同時に水が跳ねた。セリアの手の中からすり抜けた如雨露が温室の床に落下したのだ。
花の世話の事は分からなくとも、せめて水だけでも、とこうして如雨露を手にしていたのだが。
「あっ!?ご、ごめんなさい」
手を滑らせた。ただそれだけの筈だが、それは候補生達の懸念を煽るのに十分だった。
ハッとして肩を跳ねさせたセリアが慌ててそれを拾うべく手を伸ばすが、その前に別の手がそれを奪ってしまう。
持ち上げられる如雨露を呆然と目で追っていけば、美麗な顔の眉間を寄せ、心配そうに自分を見つめるランの碧眼と遭遇した。
「あ……ありがとう」
水を全て床にぶちまけ、軽くなってしまったそれを受け取ろうとセリアが手を延ばす。
「セリア。何か思い悩んでいるようだが……」
受け取り際にそんな風に聞かれ、セリアはビクッと肩を揺らした。視線を如雨露からランへ再び戻せば、真剣な瞳で見つめられる。また心配をかけてしまったのか、と瞬時に理解したセリアは、つい反射的に首を振った。
「な、なんでもないよ。本当に、何も。全く」
「…………そうか」
一言そう言って如雨露を差し出したランに、セリアはズキッと胸に罪悪感からくる痛みを覚える。目の前には、未だに納得していないといった風のランが、何かを言いたそうな瞳をゆっくり逸らした。周りでは他の候補生達も似たような瞳で自分を見つめてくる。
「ま、待って!」
距離を取るべく一歩下がったランの袖をセリアは咄嗟に掴んでいた。突然のことに驚くランを他所に、セリアはそのまま息を深く吸い込んで勢いのまま言葉を告げる。
「ほ、本当は……」
「セリア?」
「本当は、何でもなくなんかなくて。実は凄く気になってることがあって。でも、でもまだよく分からなくて、確証も何も無くて。自分でも何が何だか解らなくて」
一息に想いを吐き出すセリアに、候補生達は僅かに目を見開く。けれど必死に口を動かすセリアはそれどころではなかった。
「まだ皆に相談出来るほど、自分でも考えが纏まってなくて。私の考え過ぎや思い過ごしかもしれなくて。というより、多分そうだから。だから、だから皆にまだ言えないの!」
そこまで言い切って、セリアはハッと我に返る。一体、自分は何を口走ったのだ、と冷静さを取り戻しながら顔から血の気が引いていくのを感じた。けれど言ってしまったことは戻せない。
黙っていられない、と。どうしてか、あの時カールの言った信じろという言葉が耳の奥で木霊して、胸に走った衝動のまま言葉を並べてしまった。しかし、考えてみればそれは彼等にしても迷惑この上ない内容ではないか。
隠し事をしているけど、話せない、なんて。そんな都合の良い話し、彼らだって納得出来ないだろう。
そう考えて、けれど後戻り出来ないとセリアは精一杯の願いを込めて目の前のランと候補生達を見据えた。
「でも、ちゃんと言うから。はっきりしたら、皆に話せると思ったら、絶対に話すから。それまで待って欲しくて……」
最後まで言葉を吐き切ったセリアは、次に掛けられる言葉を恐れて肩に思わず力が籠る。
「……セリア」
ギュッと裾を握っていた手に、フワリと別の手が重なった。そのまま汗ばんだ指をやんわりと解かれると、今度はその手にしっかりと握られる。
「解った。君がそう言うなら、幾らでも待つ。言えると思った時に話してくれれば良い」
その言葉に、セリアは目を零れそうな程見開いた。改めて目の前のランを見遣れば、安心させるかのように柔らかな表情。周りにも視線を移せば、他の候補生達も同様で、誰一人不満の色を感じさせない。
「けれどセリア、覚えておいてくれ。少しでも辛いと思ったなら、一人で抱え込まずに頼って欲しい。たとえそれがどんな内容でも、私達は君の為に出来得る限りのことをするから」
真剣な、けれどこちらを気遣うその言葉に、セリアは咄嗟には反応が出来なかった。
まるで何でもないかのように、当然の様に受け入れてくれる。話せないというのは自分の我が儘なのに。
本当は、打ち明けるのが怖かった。何か隠していることがあるなら、何故話さないのかと。理由を聞かれると思った。そして、問われても話せないと。そんな風になることが、怖かった。
けれど、そんなことはまるで無かった。自分の勝手な言い分は、すんなりと、いとも容易に受け入れられたではないか。
「あ、ありが……」
言葉にならない。自分があまりにも情けなくて、胸が痛くなる。
彼等のことを、仲間だと言いながら信じ切れていなかったのだ。彼等はこんなにも自分を信じてくれているというのにも関わらず。
しかも、そのことに今の今まで気付きすらしていなかった。これほどまでに勝手な自分を、ここまで心配して気遣ってくれていた彼等を、見ようとすらしていなかった。
追い付きたい、置いて行かれたくないの話ではないではないか。一人で意地を張って、馬鹿みたいに何をしていたのだ自分は。
「……ありがとう」
長い沈黙の後、漸く紡ぎ出せた言葉はそれだけだ。だが、突然のセリアの変化に目を見開いていた候補生達が、頬を緩めるには十分な、たった一言であった。
カールはそれまでの友人達のやり取りに一切目をくれず、ひたすら手元の本に集中していた。
候補生達が気分を変えるべく、未だ緊張した様子のセリアと温室を出た後もそれは変わらなかった。
「流石やな」
そんな声に邪魔されるまでは。
同じく温室に残っていたルイシスの声に、カールはそれまで落としていた視線をチラリと上げた。けれどそれも一瞬で、すぐに視線は本へ戻ってしまう。
「アンタやろ。お嬢ちゃん、随分可愛いことしてくれたやないか」
「なんの話だ」
ニタリとした笑みを貼付けたまま、ルイシスは捕食者が獲物を駆る時の様に目を細めた。
「何でも全部抱え込んじまうお嬢ちゃんが、まさか一人であそこまで、しかもたった数日で立ち直ったなんて、俺は思わんで。んで俺の経験から言うに、短時間で女が色々吹っ切るには、男の胸で思い切り泣かせてやるんが一番や」
流石、今まで数多くの女を見て、しかも泣かせてきただけはある。その的確な指摘から察するに、伊達に幾つもの男女関係の噂の中心に居続けた訳ではないようだ。
「しかもや、あの娘があそこまで張ってた気を緩めるなんて。相当溜まっとったもんがあったやろに。そんな芸当、はっきり言って他の奴がやったとは考えられへんで。ザウルとランの坊ちゃんに、あの女を無理に泣かせるなんて男前なことは出来ん。イアンの奴は……まあ、あれやな。今のあんな状態で、お嬢ちゃんのそんな可愛い顔見といてあんな平然と振る舞うんは無理やし。消去法で言っても、涼しい表情で知らん顔しとるアンタしか居らん、ちゅうことや。どや?当たってるやろ」
「知らん…… 随分と喋るな。何が言いたい」
それでも本を置こうとはせず、視線すら寄越さないカールに、ルイシスは増々口元を吊り上げた。
「別に。ただ、アンタがそこまでするのは、何でやろなと俺の乏しい想像力が答えを聞きたい思ってるってだけの話や」
「だからどうした。貴様の話に付き合って、私になんの利がある」
瞬時に冷えた周りの空気が、ピシリとまるで音を立てたように緊張を走らせる。まるで動けば肌が切り裂けるのではと思わせる程のピリピリとした空気なのに、互いがそれに怖じ気ずく様子は一切見られない。
「なら、アンタがあの娘を泣かせてやったことで、アンタは何か利があったんやな」
ピクリと上がった眉が、次には僅かに歪められる。明らかに険悪な雰囲気になっているのに、言葉を続けるルイシスはまるでそれを楽しんでいるかのように、笑みを消そうとしない。
「アンタがそれだけ気にかけるんや。ただのお仲間、もしくは駒って訳ちゃうやろ。けど、イマイチ解らん。アンタ、ホンマに何考えてるんや。あの女が欲しいんか?要らんのか?」
「下らない話に付き合う積もりはない」
尚答えを引き出そうとするルイシスを、カールの冷えた声が一刀両断した。しかしその返答も予想していたのか、残念やな、とまるで残念でなさそうにルイシスは肩を落としてみせる。
そもそも、本当にこの件に関して答えを聞こうとしているのかすら疑問である。むしろ、何を考えているのかと聞かれるべきはルイシスだろう。
はたまた何も考えていないのか。それすら読みとらせようとしない表情で、ニタニタと笑うだけだった。
貴方は、何時でもそのように優しさを向けるのですね。たとえそれが、ご自分を傷つけた相手でも。
そして、どんな時でも心を強く保ってらっしゃる。本来なら、関わることにすら恐れを覚えても可笑しくない相手を、その様に想えるなど。
ですが、自分はまだ蟠りを覚えます。貴方のそのお心が、これ以上傷付かない為にも……