寄生虫
別に寄生虫は出てきません。
そういう話を期待された方、申し訳ありません。
私はちょうど客を降ろし、スーパーサインの表示を「支払」から「空車」に変えたところだった。
午後十一時。終電後の一儲けのために駅に向かうべき時刻だった。
正面から大学生ほどと思われる若い男が自転車を飛ばしてくるのが見えた。
目は生き生きとしていて、さてはアルバイトの昇給でもあったかと思われた。
立ちこぎで相当なスピードを出して、元気なことだと思ったのも束の間、自転車は私のタクシーに衝突した。
真正面からど真ん中。一切ブレーキ無しである。
衝突の瞬間から後ろで痛々しい激突音が聞こえるまで、物理的に考えて一秒か二秒だろう。
私には四十秒はあったかと思われた。
衝突と同時に自転車の前輪は止まり、後輪は浮かび上がった。
乗っていた若者はその勢いで自転車から飛び上がり、タクシーを飛び越えていったのである。
一瞬、私はその若者と目が合った。
その顔は何か安心したような喜んでいるような、なんともすがすがしい笑顔をしていた。
そしてそのまま若者は見えなくなり、自転車はタクシーの前に倒れた。
この時間がどんなに長かったか。
私の頭の中ではあの笑顔が何度も繰り返され、何も考えることができなかった。
そして四十秒後――つまり二秒後だが――ボウリングの玉がレーンにぶつかるような鈍い音と、何とも形容しがたいくぐもった衝突音がして、静かになった。
おそらく即死だったろう。私は後ろを向くことができなかった。
呆然としていると警察が来て事情を聞かれた。
目撃者がいたらしく私が疑われることはなかった。
おそらく事故だが、あるいは自殺かもしれないということだった。
私は仕事どころではなくなってしまい、すぐに家に帰った、と思う。
とにかく仕事どころではなかったし、その後気づくと家にいたのだ。
その夜、私は何度も夢の中でその四十秒間を繰り返し、その度に目覚めた。
症状は重篤だった。
何かが放物線を描く度にあの事故を思い出した。
誰かの笑顔を見る度にあの若者を思い出した。
私は狂っていった。
私はスーパーサインの表示を「回送」にして疾走していた。
どこでもよかった。頭にこびりついたあの事故を振り落とそうと思った。
とにかくスピードを出したくて高速に乗った。
一時間ほど走ると辺りはすっかり田園風景になった。
私は右カーブでハンドルを左に切った。
左手に見えた夕日と、田んぼの水へのその反映がとても美しかったから。
道路脇のフェンスは意外に柔らかく、車はフェンスを破らずに折り曲げた。
私の車は緩やかに縦に回転しながら飛び出した。
最期に見る景色が夕映えの稲穂とは我ながらなかなか風情があって良いじゃないか。
私は自然に笑みを浮かべた。
しかし車は回転していたのである。
ついに完全に逆向きになってしまった。
正面に大学生ほどと思われる若い男が自転車に乗っているのが見えた。
いかにも授業が終わって家に帰る風情である。
私は呆然とした様子の彼と目が合った。
私は稲穂に向けるはずだった笑顔を彼に向けてしまった。
まあいい。逆向きに落ちれば頭が割れるかもしれない。
そうすれば忌々しい事故の記憶も綺麗さっぱり消えてしまうだろう。
読んでいただき嬉しく思います。
小学生の頃大好きだった星新一さんを思い出して書いてみました。




