蝉の殻
夏の夕暮れ、道の上に何か小さなものがスローモーションで動いている。
近づいてみると、茶色い殻をまとった蝉の幼虫だった。
駅から自宅までの道すがら小さな古墳がある。
築山のようになっていて、樹が生い茂っている。
その築山を右手に細い私道を抜けようとすると、古墳の森から這い出てきたのか、蝉の幼虫が道を横断して住宅の方へ向かっていた。
車は通らないとはいえ、こんなにスローな動きでは、人や自転車に踏まれてしまわないか。
直接つまむ勇気はなかったので、カバンの隅にあった要らない紙など探し出し、どうにかそれに乗せて避難させる。
どこに?
古墳の森は柵で囲われているので私道からは入れない。
周囲をぐるりと見まわすと、蝉が向かっていた住宅の脇に、細い3本の若木があった。
そのうちの一本に止まらせてみる。
蝉は、ツメをうまくひっかけて、細い枝につかまった。
容易に落ちそうにないのを確かめて、その場を後にした。
夜になって、ふと、あの蝉はどうしたろう、と思い立った。
着のままで外に出ると、月が高く冴えていた。
月明かりの道を古墳へと向かう。
街灯の下に自転車を止めると、蝉は、あの木の枝の少し登ったところで殻を脱ぎ、羽化していた。
翅はもう白くはなく、ゆっくりと透明に変わりつつあった。
周囲の気配を伺うように、じっと動かない。
黒い目には、街灯のひかりが映っていた。
翌朝、古墳の脇道を抜けるとき、蝉の姿はもうなかった。
茶色い抜け殻だけが、細い枝に残っていた。
その日以来、朝に夕に歩みを緩めては、抜け殻がまだそこにあるか確認するのが常となった。
酷暑が終わり、晩秋の風雨にさらされても、抜け殻は枝に止まっていた。
蝉自身は、とっくに生を終えただろうが、あくる日も、あくる朝も、抜け殻はそこにあった。
秋が過ぎ、木枯らしが枝を揺らす。
枯れ葉が枝先をかすめても、抜け殻は残っていた。
年が明けて、いく日か経った夕方。
その道を通ると、抜け殻は消えていた。
枯れ葉の下に紛れたのか、目を凝らしても見つからない。
後ろから、自転車の音が近づいた。
わたしはそっと、その場を後にした。




