7.信じるもの
聞いていると胸の奥に溜まった色んな感情が浄化されるような気分になる。それでいてもっと速くもっと遠くにと興奮してくるような気分になる。そんな自転車の車輪の音を音楽代わりにして誉は河原を走っていた。
京都の亀岡から竜王山を通り、神崎川に合流する安威川。誉はその横を通って毎日通学している。
朝や昼はジョギングや犬の散歩をする人達が行き交う。夜は学園町のマンションの光でライトアップされる。街灯と合わせて見るととても綺麗で、百万ドルの夜景だと、誉は密かに思っていた。もう二ヶ月もすると、辨天の花火だ。
牟禮神社に繋がる、木々の間にできた細い抜け道を通り過ぎる。信号も交差点もないところを渡らなければいけないため、誉は一時停止した。左右から車が来ないか確かめてから、ペダルをこぎ始める。もう少し走っていたい気持ちだったので、家の近くの坂は通り過ぎた。
中学生の頃まではコンクリートの空き地で、よくボール遊びを友達とした五十鈴橋を下る。家と家の間に作られた一方通行の道路を通る。公民館も通り過ぎ、朝も来た空き地の前でやっと自転車から降りた。通行人の邪魔にならないように、砂利のところに自転車を停め、鎖の中に入る。
バッグの中から取り出したチェック色のピクニックシートを広げ、草の上に敷く。その隅に重石代わりとしてスポーツバッグを置き、誉は座った。膝を抱え、宙を見ていた誉の足元に、二匹の猫が近寄ってきた。
黒いブチ柄の、白色の成猫だ。鳴きながら見上げてくる猫に、誉は少し頬を緩め、その頭を撫でる。ふわふわと柔らかく、温かい。
その触感を堪能した後で、スポーツバッグからプリントを取り出す。そこに書かれた文字に、誉はため息を零した。
「幽霊が見えもせんのに、除霊なんてできるんかなあ」
幽霊を祓うどころか、見たことすらない。一般家庭に生まれた誉は、この世界では赤子も同然の存在だった。赤子が一人ではなにもすることができないように、誉もなにもすることができない。だが、本当の赤子ではないために、ただ泣いて助けを求めているだけというわけにもいかない。
「無理やー。でもこれができひんかったら普通クラス落ち確定なんやろうなあ……」
再度膝を抱え込みながら、どないしよーどないしよーと同じ言葉を繰り返し言う。
「だって、今まで実技なんてしたことあらへんかったし、どないしたら祓えるんかとか、よう分からへん」
先生は、自分が信じるものの教えに従えばって言ってたなあ、と呟いたところで、誉は顔を上げた。
そして、
「自分の信じるものなあ」
体の横に立っている岩を見上げる。
シンと静かに、緑に囲まれて存在する不思議な岩。大人よりも大きなこの岩を、誰がここに持ってきて、誰が立てたのか。一体なんのために存在しているのか。誰も知らず、誰も話さない。けれど、町で一番年をとっているおじいさんが産まれる前からいたらしい。
その黒い岩の方に座り直し、手を伸ばす。岩は硬く、その表面は少し肌に痛い。ざらりとした岩の手触りを感じながら、誉は目を閉じる。
誉は、小さな頃からずっと、この岩が好きだった。岩が好きなのではなく、『鬼の足跡』と呼ばれる、不思議な岩だけが好きだった。
同級生が小さな子どもをおどかすネタとしてこの岩のことを話す年になっても、誉だけは信じている。ずっと昔に鬼がここにいて、今もこの岩に住みついていると思い、夢見ている。
「鬼神さましか、思い浮かばへんわ」
頬と両手の平を当て、誉は嬉しさが滲みでた顔で笑う。
小さな時にテレビで見た、仏さまではなく鬼さまを拝むお婆さんのアニメ。誉はあのお婆さんに親近感のような、羨ましいような感情を持って見ていた。
誰にはばかることなく鬼を拝める。しかも、その鬼と直接会えるなんて、なんと羨ましいことだろう! 自分だって会ってみたい! そんなヘンテコなことを今でも思う。誉にとっての印象深い昔話は、桃太郎ではなくその偏屈なお婆さんの話だ。
「大好きです、鬼神さま」
ひんやりと冷たい、黒い岩。測ったことがないから分からないけれど、もし本当にこの岩が秋になると伸びるというのなら、自分は一緒に育ってきた。生まれた時からずっと鬼神さまと一緒なんだ。誉はそう思い、この町で暮らしている。
鬼を怖いと思ったことなんて、一度もない。
阪急の駅から市役所に向かうまでにある川に、茨木童子という鬼の像が何個も置いてある。この市のシンボルのようなその像は、とっても可愛い姿をしている。あれを怖いと思う子どもは、まずいないだろう。
誉は、茨木童子の像よりも、一ヵ月に一度、京都の方から来る獅子舞の方が怖かった。病気が良くなるといわれても、あの大きな口が怖くて、泣きじゃくった覚えがある。
「鬼神さまのいる、この町が大好きです」
いるのかいないのか、それすら分からない鬼神さまに誉は恋のような気持ちを持っていた。




