3.鬼神さまの岩
すでに朝食を食べ終えている父の隣にある、自分の席に腰を掛ける。
「ほら、食べ」
待ちかまえていた母が素早く白米、豆腐とネギの味噌汁、目玉焼き、漬物と海苔を誉の前にセットしてくれる。
「いっただきまーす!」
にっこり笑顔になった誉は手を合わせてから箸を握る。そして、まずはと茶碗を手に取る。今日も美味しそうに光っているツヤツヤの白米を箸ですくい、頬張る。はふはふと口の中に空気を入れて炊き立てのご飯を冷まし、噛み、飲みこむ。
「ん――っ」
体に染み渡る温かく甘ーい味に、しみじみと目を閉じる。子どもっぽさが全く抜けない誉の姿に、父母はくすくすと笑った。
「早く食べないと遅刻するぞ」
「うん……っ!」
父にそう言われた誉は、ハムスターのように口いっぱいに頬張って食べる。
「ごちそうさまでした」
お茶まで全部残さず味わった誉は、食前と同じように手を合わせる。そして足元に置いていた白色の大きなスポーツバッグを手に取って、斜め掛けにした。
「じゃ、いってきます!」
「気を付けてな」
眼鏡を指の先で押し上げながらそう言う父に、はい! と言って、暖簾をくぐろうとする。だが、母にちょっと! と声をかけられ、振り返った。
「お弁当」
「今日のおかず、なに!?」
一分経つか経たないか前に朝ごはんを食べたというのに、キラキラとした期待の顔で訊ねられた。母はため息を小さく吐いた後、息子が差し出してきている両手の上にお弁当の入った巾着袋を置いてやる。
「メインはアンタの大好きなエビフライや」
「ありがとう母さん!」
にっこり笑顔で応える誉の姿に、ない尻尾や耳が見えそうだ、と母は内心苦笑する。
「じゃ、今度こそいってくるわ」
「いってらっしゃーいっ」
秋らしく紅葉の画が描かれた暖簾を片腕で避け、玄関の方へと走っていく。後を追って玄関の所で手を振って見送った後、母はキッチンへと戻った。
「あの子には平凡な暮らしが似合うと思うんやけどなあ……」
「そんなことないで」
ピシリと市松人形のように黒い前髪を真っ直ぐに揃えた姉が洗面所から出てきて、そう言った。
「ああいう可愛い子は、好かれる可能性が高いんや」
庭の隅っこの方に駐輪スペースまで駆けて行き、奥に停めている自分の自転車のカゴにスポーツバッグを放り込む。サイドスタンドを足で蹴り上げ、自転車の間を通って門まで行く。門を開き、誰も来ないか左右確認をしてから前の通りに出て、自転車にまたがる。
ペダルを強く踏み込むと、自転車は前へ前へと進んでいく。前髪を払う風に誉は目を細める。いい天気で気持ちがいい。
「誉くんおはよう」
「おはようございます。いってきます!」
「いってらっしゃい!」
家の隣に建っている公民館の角を右に曲がったところで、近所のおばさんが門掃きをしていた。誉はその人ににこやかに頭を下げ、進んでいく。
だが、その家の向かいにある小さなお寺を通り過ぎたところで左に曲がり、自転車を止めた。自転車と、カゴの中のスポーツバッグをそのままに、自転車から降りて歩きだす。
北と南に二つに分かれたお寺。その間にポツンとできた空き地。お寺で大きな行事が行われる際には駐車場代わりに使われる。
大きい石でできた砂利の駐車スペースに、誉は足を踏み入れ、張ってある鎖の前まで近寄る。手を合わせ、頭を少し下げる。
「鬼神おにがみさま、おはようございます」
顔を上げ、目の前に荘厳と立っている岩を微笑み見る。背後を木々に守られ、足元を雑草に包まれている、黒く大きな岩。
秋になると一センチ伸びる。そう小さい時に姉から教えてもらったことを、誉は高校一年生になった今でもずっと信じている。そして、人の足の形に似ている姿をしたその岩のことを、鬼の足跡と呼び親しんでいる。
「今日も一日、何事もありませんように、お守りください」
この黒い岩には、なにか未知なる存在が一緒にいるような感じがする。そう思ってもいた。
「いってきます!」
最後に腰を深く折って礼をしてから、自転車の元へと走って行く。太陽色の自転車に乗り去っていく少年を、黒い岩は静かに見つめていた。