2.百合の匂い
日諸祇誉はその朝、百合の匂いで起きた。鼻にツンと突き刺すような、強烈な匂い。テーブルいっぱいに乗ったごちそうをかぶりつくようにして食べる。そんな幸せな夢はそれに吹き飛ばされた。
「なんや、この匂い……」
半分寝ぼけたまま上体を起こし、目をこすりながら周りを見る。花の姿は見当たらない。だが、黄色い花粉だけが毛布にべったり付いていた。
「なんやねん、これ」
手の甲で寝汗を拭きながら、誉は息を吐くように言葉を口から出した。毛布を指でつまみ、ほんの少し持ち上げてみる。
「誉、起きてるんー?」
荒々しく木のドアが叩かれた。その後に続いた声に、自然と誉の背筋が伸びる。
「起きてんで」
ドアを開いて入ってきた誉の姉はベッドの辺りを見て、つけまつ毛を装備した目をさらに大きくした。
「アンタ、なんやねんそれ」
「起きたらこうなっとった」
顔を近づけ、花粉をじっと見てから鼻で犬のように匂いを嗅いだ。ふむ、となにかが分かったような声を出して曲げていた腰を真っすぐに戻す。
「百合やな」
「百合ぃ!? 俺そんなの持ってきてへ」
姉がすっと手を胸の前で合わせて目を閉じる。その姿を見て心臓が跳ねるような気持ちになった誉は慌てて口を噤み、正座に座り直して手を合わせた。
深く息を吸って吐くことを三回程繰り返していると、膝の上に少しかかっていた毛布の感触がなくなった。目をあけると、姉が花粉を飛び散らせないようにくるくると巻いていた。
「百合の花粉は落ちにくいさかい、しばらく別の毛布を使い」
「う、うん。分かったわ」
そのまま毛布を持って部屋を出て行こうとする姉の背に、
「昨日の夜、俺の部屋に誰か来たん?」
と思い切って訊ねてみた。
姉は悪戯をしかけてきた子どもがするような、楽しげな笑顔になる。口に手を当てたが、隠しきれていない。
「それが自分で気ぃつけるようにならな、一人前の除霊師にはなられへんで」
「俺が視るのん苦手なん知っとるくせにー」
うふふと笑いながら階段を下りていく姉の背中に、誉は頬を膨らませた。
「日々鍛錬、毎日修行。これを念頭に置きなさい」
「ちょっとだけ。な、ちょっとだけ! ヒントでええからちょうだいや~」
手を合わせて頼みこんでみても、姉はダーメと言って教えてくれない。
部屋の中に戻り、窓とカーテンを大きく開く。すると、むっとするような湿気と緑の匂いが外から入ってくる。誉は背伸びをし、思いっきり新鮮な朝の空気を吸い込んだ。
「……ちゃんと視れるようにならんとなあ」
はーっと息を吐きながら、壁にかけてあるハンガーから白色のポロシャツを取り、頭から被る。
「誉―、早うご飯食べんと遅刻すんでー」
「はーい!」
ズボンに足を突っ込み、ぴょんぴょんと片足だけで廊下まで行って顔をだし、階下に叫び返す。昨夜の内にあらかじめ教科書を入れておいた鞄を引っ掴んで一階に行く。
「母さん、父さん、おはよう!」
階段を下りてすぐにあるダイニング。中央にドンと置かれている厚い木のダイニングテーブルの前に座り、コーヒーを啜りながら新聞を読む父。ダイニングの北側に併設されているキッチンで料理をする母。その二人に朝の挨拶をしてから、西側にあるステンレス製のドアを開け、洗面所に入る。
「うわっ、姉ちゃん!」
「ごめーん、後にしてー」
顔の強化は終わったものの、髪の矯正は終わっていなかったらしい姉がそこにいた。
「マ、マジでえー!?」
少し癖のある髪をヘアーアイロンでビッシー! っと真っ直ぐにするため、姉は真剣な表情で鏡に向かっている。背後にある柱時計を振り返ってみる。八時十五分と針は指差している。早くしないと遅刻しちまうぜ……坊やという時計の声が聞こえた気になり、誉は唾を飲み込んだ。
「姉ちゃん、俺の歯ブラシと歯磨き粉貸して!」
「はい」
それくらいなら、とヘアーアイロンを脱衣カゴに一旦置く。窓の桟に設置してある歯ブラシ立てから誉の歯ブラシと共同で使っている歯磨きを掴んで差し出す。
「ありがと!」
受け取った誉は、姉の背後にある横開きのガラスドアを開け、風呂場に入る。一晩で乾いたタイルは、ひんやりと冷たい。しゃがんで、シンプルな青い歯ブラシを水で濡らしてから、ふくらんだチューブを親指で押し、ストライプの歯磨き粉をつける。口にくわえ、勢いよく歯を磨いていく。
「そろそろ期末テストやんな?」
口の中にたまった泡を掃き出し、うんと返す。後三週間程したら、期末テスト。それが終わったら、待ちに待った夏休みだ!
顔もまとめて洗うと、姉がタオルを差し出してきた。
「ありがとー」
それで顔を拭く姿を見、姉は微笑んだ。誉のふわふわとした手触りの髪を撫でる。
「頑張り」
「う、うん」
姉はそれっきりまた思い通りにならない髪との格闘に戻ってしまった。誉は不思議に思いつつもダイニングへと歩いていく。




