2.氷の陰陽師
「おはよう、三和!」
「おはよーさん」
警備員室の隣りに設置されているベンチに、足を組んで座っていた三和に手を上げて挨拶をする。
読んでいた本を閉じた三和は、階段の方へ進んでいく。その隣を抜きさり、いつもは億劫な階段を駆け上がっていく。
「自分えらい元気やな。どうしてん」
「ちょっとなー」
足取りが軽い。目が冴える。鬼神さまと一緒にいると、世界が変わって見える。階段を上りきり、はーっと息を吐く。心地良い疲れだった。
スポーツバッグを下し、イス代わりにして座る。
「おい、何してん。視えんのんとちゃうんか」
三和が変な顔をしたが、それに気づかなかった誉は、わーっと歓声を上げた。そして、三和の方を向いて、凄いね! と興奮ぎみに言う。
「え、自分……視えんのんか?」
「うん!」
と言って大きく頷く。嬉しい。ずっとこの世界で生きてきた三和に少しでも近づくことができて、嬉しい。
「あ! お、え……まさか」
自分の方を指さして、三和が口を開閉している。それに、うんそう! と返す。
はーっと感嘆したような声が三和の口から漏れ出した。
「良かったなあ、日諸祇」
「うん!」
背中を叩いて、三和が喜んでくれている。誉は、自分の胸になにかが滲み込んだのを感じた。
「鬼か」
だが、垣根をかきわけて覗き込んできた人の声に、血の気が引いた。
「い、伊瀬先輩……」
近くで見れば見る程、冷たい印象が出てくる。もう癖になってしまっているんじゃないかと思う眉間の皺に、銀縁の眼鏡の奥から見える切れ長の目。ストレートの黒い髪は後ろに流されている。インテリ、キャリア、という言葉が誉の頭の中でぐるぐると回った。
手が誉の胸元まで伸びてきて、ポケットに入っている鬼神さまを細長い指でつまみあげる。だが、身を回した鬼神さまは伊瀬の指に噛みついた。
「この……っ!」
激高した伊瀬がわしづかもうとした時、小さな破裂音とともに白い煙が上がった。その中から、下駄を履いた足が飛び出てきて、伊瀬の肩を蹴る。バランスを崩した伊瀬の背中を垣根から出ていった三和が慌てて支える。一回転して、童子姿の鬼神さまが誉の前に着地した。
「おい、一年生」
「はっ、はい!」
三和に背中を支えられたままの伊瀬は、震える手でずれた眼鏡を直す。
「それは、なんだ」
「お、俺のパートナーです」
下を見ると、鬼神さまのうなじが見えた。光沢のある白い髪の後れ毛、薄水色の上品な色をした衣でできた淡い影。誉は生唾を飲み込んで、滑らかな肌をつっと指でなぞった。勢いよく鬼神さまが振り返り、うなじを手で押さえながら見上げてくる。口から覗く犬歯が可愛い。その様子がなんだか無防備に見えて、誉はしゃがんだ。
「今世さま、失礼します」
周りが呆然としている中、誉は鬼神さまの脇に手を通して、抱え上げる。
「っと……うちの鬼神さまがすみません」
眉を下げた笑顔で言うと、伊瀬は頭から火がついたような状態になった。
「一年が舐めくさりよって……!」
「はーい、伊瀬ぽんそろそろやめましょうかねーえ」
誉を指さして大声で怒鳴りつける伊瀬の頭を後ろからやってきた多谷が小突く。
「とめるな多谷!」
「お前がいきなり絡んだりしたからでしょうよ。うちの子に用なら、まずはアタシを通してからにしてちょうだいな」
頭一つ分高い多谷に腕を掴まれた伊瀬は誉に向けていた指を下す。鬼神さまはそれを見ると、猫の姿になり、誉の胸ポケットの中に戻っていった。
「こーんなに可愛い鬼神さんを虐めちゃーいかんでしょう」
そう言う多谷は遠くで見るよりも雰囲気が柔らかかった。普段、伊瀬に対して怒鳴っているような話し方ではなく、脱力したような話し方をしているからだろうか。
赤に見えていた髪は、近くで見ると濃い茶色だったということが分かった。色素が少し薄い目も、人懐っこい色味を帯びている。
「それともなんや? おたくらは民間で慕われている神さんは信じん、いらんとでも思ってたりするんか?」
「そんなことはない!」
「ん、ならええな?」
と、多谷が白い歯を見せて笑う。ん? と誉が思うよりも先に、多谷が誉の背を押し、三和の手を握った。
「ほな!」
そう言い、誉の背を強く押し、三和を引きずっていく。その勢いに二人は何度もこけそうになってしまう。
二人を仏教科の校舎に押し込んだ後、多谷は外に戻っていった。そして、誉のスポーツバッグを手に戻ってきた。
「自分、エライことするなあ。俺、自分以外でアイツに喧嘩売った仏教科生、初めて見たわー」
「えっ、あっ、や、そんなつもりやなかったんですけど……つい」
やっちゃいました、と誉が言うと、多谷は笑った。
「ほうかほうか。ま、でもアイツ悪い奴やないから。次は仲良うしたってーな」
頭を撫でられ、誉は頷く。
「ん、ほな、そろそろ朝礼なるし、行き」
「はい!」
背中を軽く叩くことで促された二人は、下足室まで走っていく。
「はー、危なかった。日諸祇、多谷先輩が助けてくれたからどないかなったけど、絶対に陰陽学科の奴には喧嘩売るなや」
下足室で、三和が力なく上靴を板の上に落とす。
「へ。うん、売らないけど……なんで?」
「どないしても勝ち目があらへんから」
断言するような言い方に、誉は三和の顔を見た。
「うちの学科と、陰陽学科の違いってなにか分かるか?」
「じょ、浄霊師になるか、陰陽師になるか……とか?」
三和から顔を背けて言うと、そらそうやろ、と逆手で腕を叩かれた。
「陰陽師と浄霊師は、祓うものが違うんや。俺らは幽霊とか狐狸とか、そういうチマチマした妖怪を祓う。民間のお助けマン的存在や。けど、陰陽師はちゃう。陰陽師は人間と、人に害を成す神を祓うんや」
「人間?」
と誉が首を傾げると、三和は深く頷いた。
「そんじょそこらの奴じゃ消せへん、強い憎しみを持った悪霊とか、御霊をな。俺らじゃ倒せへんモノを陰陽師に倒してもらうんや。陰陽師に俺らの仕事はできても、俺らに陰陽師の仕事はできん。俺らとは格が違う」
霊能力者にも、レベルの違いがあるのかと誉は内心溜息を吐いた。鬼神さまと一緒にいられればいいと思っているだけの自分とは大違いだ。
「せやから、絶対に陰陽学科とは喧嘩しなや。多谷先輩かてな、伊瀬先輩に半分稽古つけてもろてるようなもんなんや」
「そうなんや……」
「神仏習合以来、寺は神社の守護のために置かれる存在っちゅーこともあったしなあ」
はーっと一際長くて大きい溜息を三和が吐きだした。大きな寺の跡取りというのも、大変だ。
「分かった、気ぃつける」
「そうしてくれ」
三和が教室のドアを開ける。おはよーと言いながら入っていくと、おはようと返事があった。
「岸辺くん、いつも早いなあ」
「うん、毎日七時半には来るようにしているんだ」
今日もなにやら分厚い本を読んでいる。おどろおどろしい表紙をしていることからして、民俗学か、その辺りの研究書なのだろう。
「あれっ、日諸祇くん、ダメだよ。ペットを連れてきたりしたら」
「へ? 俺、ペットなんて飼ってへんで」
「えっ、だって、そのポケットから顔出しているのって、猫じゃあ……」
胸元に目をやると、鬼神さまがぴょこっと顔を出していた。
「岸辺、その猫視えるんか?」
「え? う、うん、見える……けど」
三和が血相を変えて振り向く。最前列の席から最後尾の自分の席まで駆け寄ってくる三和の勢いに若干驚きながらも、答える。
「お前、まさかホンマに毎日除霊してきとったんか!?」
「あ……う、ううん。ごめん、それは……」
机の上に手を置き、詰め寄る。すると、岸辺は腰を捻って避ける。
「けど、視えるんやろ?」
「うん、それは」
「なら、自分できるで! やったことないから要領よう分からんだけで、才能はあるんや!」
顔を輝かせて言う三和に、岸辺は本当? と尋ねた。
「ホンマや」
滅多に見られない三和の笑顔に、誉は苦笑した。自分が鬼神さまマニアなら、三和は浄霊師マニアだ。
誉には難しくてよく分からないことを嬉々として話す二人の声を聞きながら、授業の準備を始めた。




