13.涙でできた桜
でも、その人と鬼神さまにどんな関係があるんだろう、ということに思い当たったのは、鬼神さまのいる空き地に着いてからだった。
「鬼神さま、来ましたでー」
猫に、猫用のクッキーを食べさせながら、黒い岩に話しかける。勿論、返事はない。朝に来た時も、何も言ってくれなかったし、姿も見せてくれなかった。
はーっと盛大にため息を吐きながら、ビニールシートの上に横になる。
「会いたいなあ……」
「今世こんよ、今世ってば。ねえ、聞いているの?」
「……へ?」
誰かに呼ばれた気がしいて、目を開ける。
「夢、かな」
白い桜が上から降ってきていた。薄く色づいた花を携えた木の間から、陽の光が入ってきて、誉は額まで手を持っていく。ゆるく握った手を額に当てると、少し光が柔らかくなったような気がする。
背中を温かく覆う草の感触に、頬の力を緩める。
「聞いている」
「本当? ずっと刀の手入れに夢中になっていたではないの」
嘘つき、と可愛らしく頬を膨らませる女性。腰近くまである長い黒髪を撫で、困ったように笑う青年の顔を見た瞬間、誉は飛び起きた。凛々しく成長していて、大きな手や赤い朱を刷いた目元に男の色気のようなものも出てきてはいるけれど、この人は――
「お、鬼神様!?」
叫んだ瞬間、しもた! と思った。だが、どうも二人には聞こえていないらしく、どちらも正面に座っている誉の方を見たりはしない。そのことに、少し残念な気持ちになりながらも、誉は二人を見つめる。
「今度はきちんと聞く。なんだ?」
そう言い、鬼神さまは手に持っていた刀を背の後ろに置いた。
「あ、ここ……やっぱり、あの空き地なんや」
二人が仲睦まじく話をしているのは、あの空き地だった。二人がもたれ掛っている黒い岩がその証拠だ。ただ、今とは違い、黒々と底光りのする美しい姿をしている。
「私、結婚するの」
花が咲くような笑顔を、女性が浮かべる。鬼神さまの笑顔も、花が咲くような、可愛い笑顔だ。けれど、この人の笑顔は、もっと明るく、強い。鬼神さまが桜ならば、この人は百合だ。
「結婚?」
「そう」
女性が、自分の頭を撫でていた鬼神さまの手をとる。両手で握り、頬に当てた。
「一体、誰と結婚するんだ」
「この国の天下を治める方です」
女性が目を伏せて言った言葉に、鬼神さまは目を見開いた。誉も見開いた。
「こ、この女の人が、媛蹈鞴五十鈴媛命?」
思わず、そう叫んでしまう。
「人が神の子を妻にとは、なんと大それたことを……」
「神は皆、あの方の下へついているわ」
鬼神さまは、女性の肩を抱き寄せる。なんという、という呟きが、自分の方まで聞こえてきた気がした。
「でも、明るくて面白い。素敵な人よ」
ふふ、と小鳥が鳴くような声で女性が笑う。鬼神さまが彼女を抱く手が、震えている。
「あなたに初めて会った時、とても驚いたわ。皆が鬼がいる鬼がいると言って騒ぐものだから、見に行ってみたら、本当に鬼がいるんだもの」
彼女の声と肩も、震えている気がする。
「だけど私、あなたが鬼で良かったと思うの。だって、鬼なら人よりも私に近いでしょう? ううん、むしろ神と人の間の子である私よりも神に近いかもしれないわ。あなたが、鬼のあなたがいてくれて、良かった」
鬼神様の顎が上がる。憎らしい程に青い空を、睨み付けている目は、光っていた。今にも涙がその目から落ちそうだ。
「頼みが、あるの」
「なんだ」
「きいてもらえる?」
「何でもきいてやるから、言ってみろ」
女性が鬼神さまの背中に手を回す。彼女が目を閉じると、大粒の涙が零れた。
「私のいる、ここを守って」
「ずっとか」
それは、頬を伝い、鬼神さまが着ている水色の衣に落ちた。
「お前がいなくなってもか」
「ええ、私がいなくなっても」
鬼神さまのまつ毛が細かく何度も震える。ついに目から流れ出た涙は、しかし、彼女のとは違い、草の上に落ちてしまった。
「分かった。必ず、約束は守る」
「……感謝するわ」
そう誓われた女性の顔がくしゃ、という音が相応しい表情になる。眉根が寄り、目じりが下がり、口の端が少しだけ上がる。痛々しい笑みだ。
「私、あなたのいたここが大切よ。この先、どこに行くとしても、ここ以上に大切な場所は見つからない」
鬼神さまは彼女の頭を撫で、そうか、と静かに微笑みを浮かべた。
「俺も、お前のいるここが大切だ」
その声を聞いた瞬間、誉は、目の奥が熱くなってくるのを感じた。
「鬼神さま……!」
涙だけではなく、鼻水も出てきて、色々とぐずぐずになってくる。鼻をすすりながら、大声を上げて泣いてしまう。どうせ、誰も見ていないのだから、いいだろう。そういう気持ちが誉の涙腺をさらに緩くさせた。
「なんじゃ?」
だが、後ろから鬼神さまの声で返事がきた。心臓が飛び跳ね、ショックで涙と鼻水が止まる。
「え……?」
後ろを向くと、優しい笑顔をした、見慣れた姿の鬼神さまが立っていた。二人がいた方を振り返っても、もう誰もいなかった。
「呼んだかの?」
小首を傾げる様子に、先程の悲痛な誓いの言葉が思い返される。
「鬼神さま!」
ぐっと両手を強く握り、拳を作る。そして、胸の中に溜まった言葉を口から出す。
「姫様は、鬼神さまを愛していました!」
「うむ、そうじゃろうな」
この想いが伝われと、この儚い笑顔をする鬼神が、小さな村の守り人がもう苦しまないようにと、一人で寂しく今の世を生きなくてもいいようにと。
「でも、ここだけやなくて、日本全部も、神武天皇のことも、愛してたんやと思うんです。そうやなかったら、自分の息子が二人目の夫に殺されそうになった時、助けるために歌を詠んだりしなかったと思います」
「あれは、そういう女じゃった」
懐かしそうに微笑み、地面に目を向ける。鬼神さまの憂いに心を持っていかれそうになりながらも、誉は一番自分が言わなければいけない言葉を口に出す。
「姫様が守ってほしいて言うたんは、この町だけやなくって、この国の全てなんじゃないですか? あの人は、この国で生きていたんです!」
「そうかもしれんがのう……」
だが、放った言葉にはあまり威力がなかったのか、憂いがさらに強くなっただけだった。
「鬼神さま、見て下さい」
なら、と両手を大きく広げる。
「ここ、ずっと山桜が咲いていますよね?」
そう言われた鬼神さまは、周りに一面咲いている桜を見上げた。そして、そうじゃのう、と頷く。
「山桜の花言葉は、あなたに微笑むなんです。この桜たちは一体、誰に微笑んでいるんですか」
過去に囚われ続ける鬼神。その傍で咲き続ける桜たち。夏が来ても、秋が来ても、冬が来ても、ここだけは永遠に、愛しい人がいたままの姿であり続けるのだろう。
そして、鬼神さまの姿もそうだ。別れてしまう前の、子どものままであり続けている。
「約束があなたを縛り付けているんやないんです。あなたが約束を縛り付けているんです」
そう誉が鬼神さまに言った瞬間、全ての桜の花びらが舞い上がった。
「身を焦がす記憶は思い出やない。心にできた傷や!」
それでも誉は叫び続けた、狂ったように舞い散る花びらは幾千年かけてこの場所に溜まった涙なのだと感じながら。
「解放してあげてください! あなたを、この場所を、この約束を!」
尽きることのない想いを含んだ涙は緑を芽吹かせ、この花を育てた。だが、そんなに悲しい場所では心は癒えるどころか、じくじくと傷を膿ませ、悪化させていってしまう。
「鬼神さま! 俺がっ、俺が癒します!」