序章
台風が消えて、熱帯的圧になったそれは、頭痛と湿気だけを残して雨を降らせていた。
「・・・・はぁ・・・」
今日もベッドから起き上がって、気だるくため息が漏れる。
正直、在宅ワーカーだから天気なんて関係ない。
けど何日も悪天候が続いていると、外出しないにしても気が滅入ってきてしまう。
真夏でも運動不足にならない程度に、たまに散歩に出て、けたたましく鳴くセミの声を日傘で受けながら、涼しい図書館に足を運ぶのは嫌いじゃなかった。
けれども現状はどうだろう・・・散々進路を変えながら強い勢力で日本を横断していた台風は、色んなところで被害をもたらしながら、停滞したいたかと思うと姿を消した。
「頭痛い・・・・」
洗面所で歯を磨きながら、まだボーっとする脳内に平衡感覚奪われ、生ぬるい水道水で口を濯いで吐きだした。
残念なことに、珍しく今日は出社する日だった。
リモートで済ませればいいものの・・・
クライアントがどうしても集まって意見を出し合いたいと言い出し、普段駆り出されないSEである自分にも白羽の矢が立った。
朝食を摂り片づけを済ませて、どうにか頭痛を鎮めるために、鎮痛剤を服用した。
コーヒーを飲み終わるとようやくカフェイン効果か頭が働きだして、部屋に戻って身支度を済ませ、ビジネスバッグを持って家を出た。
はぁ・・・理人に会いたい・・・
今日も脳内で息をするように理人の名前を念じる。
毎月のように、引きこもっている(と理人は思い込んでいた)俺に会いに来て、部屋のドアを開けようとしない俺に、他愛ない話をしにきていた彼と
数年ぶりに再会したあの日から、自分の中で心残りだった愛情が、ただの恋情に変化した。
自分でも相当馬鹿な話だと思う。
もちろんお互いトキメク瞬間はあって、理人も俺の「その気」を感じたから肉体関係を持ってしまった。
けどそれは理人が俺の気持ちを察して、気を回して優しくしてくれたからで、彼が今更俺に恋愛感情がないことくらいわかっていた。
それからはしばらく家で仕事をする日々を過ごしながら、冷静になる自分の頭の中で
何やってんだろうなぁ・・・という想いがこみあげてきた。
俺もだいぶ拗らせてるなぁ
と自覚しているからこそ、大人らしくいよう、現実見よう・・・と思いながら、何度か親戚づきあいで会う理人と接していたけど、このままじゃダメだと思って行動を起こしたのは理人だった。
俺は結局甘い蜜を吸いたいだけで、好きな人を目の前にすると我慢出来ない気持ちの悪い野郎だった。
頭の中で何度も自分を罵倒して、せっかくまともに社会人やれてるんだから、これ以上道を踏み外しちゃだめだと思い、『信頼関係を築いていこう』という理人の改善案に乗った。
肉体関係を完全に断ち切って、お互いをもっとよく知って親戚として、それ以上に一番の親友になれるほど、正しい付き合いをしていこうと言ってくれた。
ありがたいなぁと思うのと同時に、自分が情けなかった。
何故その提案を、俺から出来ないでいたのか
俺の方が5つも年上で、昔からお兄ちゃん風吹かせていたのに、いざ甘い関係になると沼って、メンヘラみたいに固執して・・・
なんて
いつまでも自己嫌悪に陥っててもただの闇落ちだってわかってるよ・・・
電車の吊り革に掴まりながら、過ぎていく遠い景色を見ていた。
ラッシュの時間は若干避けることが出来たのか、満員電車よりは空いている車両に乗車することが出来ていた。
そのうち一駅、二駅と進むにつれて、徐々に人が捌けていき、広々とした車内を振り返って腰かけようと思うと、ふと足元に目が行った。
ん・・・?落とし物・・・鍵だ・・・たぶん自宅の。
これはぁ・・・まずいなぁ・・・
停車したままの電車は、快速電車の通過待ちで、しばらくドアが開いていた。
キーホルダーの付いたそれを拾って下車して、階段を上がって一番広い改札口へと出た。
人波にもまれながら、改札ゲート近くで忙しそうに案内をしている駅員へと歩み寄り、パッと視線があったその人は、年配者の案内を終えて、「どうしました?」と声をかけてくれた。
車内に鍵が落ちていたことを告げて預かってもらった時、どんよりとした雲がたくさん見える出口の外から、男性が走ってきた。
「すみませんっ!・・・・はぁ・・・はぁ・・・あの・・・すみません、駅員さん・・・」
膝に手をついて息を切らす男性は、額や頬に流れる汗を拭って、一つゴクリと唾を飲み込んで言った。
「あの・・・たぶんなんですけど、駅構内か、電車内で・・・家の鍵を落としてしまって・・・はぁ・・・」
最後のため息が絶望感を感じさせながら、パッと顔を上げて「もしかして・・・」と駅員から手の中の鍵を見せられると、また大声を上げた。
「あぁ!!俺の!!ありがとうございます!!」
駅員さんの顔を何度も見直しながらお礼を重ねる彼に、スタッフは苦笑いを返した。
「こちらのお客様が、見つけてくださいまして・・・ちょうど今届けてくださったところなんですよ。」
「・・・え・・・」
後ろにいた俺にまったく気づいていなかった男性は、パッと視線を向けてしばし呆然としてから、しゃんと背筋を伸ばした。
「あ・・・あの、すみません、お手数おかけしまして・・・ホントに、ありがとうございました。」
丁寧に腰を折って礼を述べられて、思わず恐縮してしまう。
「いえいえ・・・良かったです。タイミングバッチリでしたね。」
「はは・・・はい、ホントに。あ~・・・の・・・」
「車内に落ちてたんですよ、座ろうとしたら目に入ったので、急いで届けなきゃと思って・・・」
俺が説明すると、彼は途端に申し訳なさそうに眉を下げた。
「そうなんですか・・・。あの・・・じゃあもしかして降りるはずじゃなかったところで、降りてもらったってことですか・・・?」
「まぁ・・・そうですけど・・・特に急いでいたわけじゃないので・・・。でもこれから出社なので、失礼します。」
「あ・・・ありがとうございました。」
また頭を下げる彼に手を挙げてその場を去った。
その後早めに家を出たこともあって、問題なく会社に到着した。
滅多に出社しない俺に、社員の皆は物珍しそうに声をかけて、フレンドリーに話をしてくれたり、上司の愚痴をこぼしたり、和やかな職場の雰囲気を感じながら、打ち合わせも含め、仕事を無事終えることが出来た。
会社を出る頃には、とっくに頭痛なんて治まっていたけど、俺はまだ乾ききっていない地面にため息を落とした。
どうしてもふとした瞬間に「理人に会いたい」、という気持ちを繰り返してしまう。
もしくは依存できる相手だったら、俺は誰でもいいんだろうか。
イライラする程じゃないけど、それはまるで禁断症状で、いちいち憂鬱になってしまう自分に、いい加減嫌気がさしてきた。
会いたいなぁ・・・
会って話をするだけでいいのに
別に特別何かしなくても、隣にいて一緒に食事をしたり、テレビを観たりする親戚付き合いだったとしても、理人の存在自体が心の栄養のようなものだ。
淡々と平和に過ごす日常が、問題なく幸せであったとしても、人間は乾いていく。
足りないものを埋めようとして、現代人は今日もスマホに目を落とす。
帰りの電車に揺られながら、鞄を抱えてボーっと座席に座って、そんなことを考えていた。
周りは皆、疲れた目で画面を眺めたり、ウトウトと居眠りしそうになっていたり、音楽を聴いたり、はたまた動画を観ながら時間を潰していた。
やっぱり人込みの中にいるのは、何だか苦手だな・・・
周りと比べて自分がどうだとか・・・劣等感に苛まれるということはないけど
どう言い表すべきか・・・何でもない人並みに紛れていると、やっぱり自分がつまらない人間なんだな、という気になってくる。
何か勝手に、奇跡的に、訪れる何かを期待しながら、自分も周りも常に受け身のような気がして、行動力もなく、積極性もなく、惰性で過ごしている事実を突きつけられる気がするんだ。
そしてそれは、現にその通りで・・・
自宅に辿り着いた頃は、とっくに日が沈んで夕飯の頃合いだった。
お気に入りのお弁当宅配サービスで手に入れたものをチンして、今日も好物の和食を口にする。
考えられた栄養バランス満点の食事が、細やかな自分への褒美だ。
肉料理も好きだけど・・・元来小食なせいか、焼肉食べ放題などに行っても、たくさん食べることが出来ないのが悩みだった。
そういう体質のせいで、自分でも情けない程体格は細くて肌も白くて、所謂もやしっ子になってしまった。
まぁ、容姿も体格も母の生き写しのようなものだし、それらは遺伝によるもので、別に特に気にはしていないのだけど・・・
そういう見た目を理由に、昔からいじめの対象になることが多々あった。
でもハッキリ言ってそれすらどうでもよかった。
人に興味がないというわけではないけど、物心つく頃から、俺の側には可愛い妹と、弟のように慕ってくれる理人がいたので、遊び相手には困らなかったし、楽しい幼少期だった。
学校社会なんかで起こることはとても些細なことで、つまらなかったし、それよりも勉学に勤しむことが興味を上回っていた。
「・・・何も起こらない日々も悪くないか・・・」
缶ビール片手に、一人暮らしのこじんまりとしたリビングで、お笑い番組を眺めた。
CMになるたびに手元のスマホでSNSを眺めて、そのうちニュースや明日以降の天気をチェックしているうちに、いつの間にか番組は終わって、パッと目を向けた掛け時計で思いのほか時間が経過していることに気が付いた。
今日の打ち合わせで話が付いたいくつかを脳内で振り返りながら、明日の仕事をぼんやり段取りしつつ片づけを済まし、ベッドにどさっと体を預ける。
スマホのアラームを設定しているものの、いつもそれが鳴る少し前に目が覚める性質だ。
自覚しているよりも疲労していた体は、お風呂に入ったことが最後の達成感として、そのまま眠りに落ちていった。
日常が繰り返していく。
そう思っていた
けどその日、珍しく鮮明な夢を見た。
誰・・・?
木漏れ日が揺れる爽やかな緑の下で、俺は誰かと談笑していた。
男性だということはわかるけど、見たことない顔立ちで赤の他人であるということはわかる。
ベンチに腰かけて俺たちは、他愛ない話をして、その人は時々愛おしそうに目を細めて俺を見た。
いつも夢を見ればだいたい嫌なことが起こることばかりで
もしくは現実味のないよくわからない展開だったり
そんなもんだけど・・・
俺に
こんな風に笑いかけてくれる人は・・・理人だけだよ・・・
けどその人は理人じゃなかった。
何度思い出そうとしても誰でもない、知りようもない他人だった。
その時、耳元で鳴り響くアラーム音で目が覚めた。
いつもは早く起きるのに・・・・
「・・・・なんか・・・夢見てたような・・・・・」
寸前まで覚えていたはずの夢の内容は、眼前に広がる自室の風景が鮮明になっていくほど、記憶から消えて行った。




