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京終のネリノ  作者: 小林 綸
第1章
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1-9. 鳴川家の秘密



 水族館へ出かけた日、ネリノはそのままシオンの家へ上がった。そしてそのまま居着くことに決めた。


 ナツメはこの図々しい妖を追い払おうと格闘した。もう酔いは醒め切っていた。



「帰れ。ここはお前ん家やない」



 その腕をすり抜けて、ネリノは自由気ままにシオンの部屋を飛び回った。

 シオンはショルダーバッグを下ろすと、真っ黒のストラップをランドセルの脇に付け替えた。来週から新学期だ。


 ネリノは勉強机の照明スタンドを気に入った。ひょろりと伸びた首の曲線が、ちょうど滑り台として遊ぶのに最適だったのだ。

 その発見をしてからというもの、ネリノは飽きもせずに登っては滑り、また頂上に飛んでは滑りを繰り返した。そして一休みをする時にはストラップにもぐりこんで眠った。


 シオンは自室に籠もりがちだった。その理由は、初めて家に上がった日から、ネリノの目にも一目瞭然であった。

 どんよりと、澱んだ空気。インフルエンザとコロナウイルスに同時に罹ってしまった、息も絶え絶えのだいだらぼっちが、部屋全体を病室代わりに占拠してしまった。そんな緑腐った停滞気流がリビングいっぱいに立ち込め、扉の隙間から廊下にまで漏れ出ている。

 もしも空気の色が見えたとしたら、それは数年間洗われなかった水槽の、四隅にこびりついた青藻。もしくは住人に捨てられた山間の民家の、ぼっとん便所の壁の黒カビ、といった所だろう。


 その薄暗い澱みの中で、シオンの父は、疲労の塊のような体をソファーに横たえていた。夜遅くに帰宅してからずっと、そこから動く気配がなかった。

 正面のこたつ机には、一粒だけ残った錠剤シートが数枚と、いくつもの丸められたティッシュが散らばっている。ゴミの中には三枚の千円札が紛れていた。


 くにゃりと折れ曲がった指でそれを示し、父は消え入りそうな声で言った。



「ごめんなシオン、これで晩御飯……」



 シオンは首を振った。

「おばあちゃんが作っていってくれた」



 父がまた何やら言葉を発したが、その声はこちらに届く前に空中で霧と化した。

 すぐそこのダイニングテーブルにはラップのかかったオムライスが据えられているというのに、彼の目には全く映っていないようだ。


 初めてこの父を見た時は、初めてジンベエザメを見た時以上に新鮮な驚きに襲われたネリノも、やがては慣れっこになってしまった。習慣というのは、良くも悪くも恐ろしいものである。


 ナツメが言うに、父が亡者と成り果てたのはそう昔ではない。ここ一年内の話だった。それも、突然こんな風に乾涸びたわけではなく、病状は徐々に徐々に、同居人のシオンですら気付けないほどの速度で進んだという。

 そしてシオンの母が他界したのも、一年前のことだった。

 






 ネリノが鳴川邸に棲みついて二週間が過ぎた頃、街中の桜が見頃を迎えた。

 新しいスーツやぶかぶかの制服に身を包んだ人たちが、緊張を孕んだ表情で駅前を行き交う。商店街は平日も休日も国内外の観光客で溢れて、公園にはお腹のふくらんだ雌鹿が目立ち始めた。


 出会いと別れ、目覚めと脱皮と、産まれ変わりの季節。世間の心は薄桃色に上気しているというのに、鳴川家のリビングの澱みは、苔色の冬のまま、相も変わらない。


 いつものようにテーブルに置かれた三千円。そしていつもの台詞を呟く父。



「ごめんなシオン。晩ごはん、今日もこれで。ごめんな……」



 ソファに倒れた父は、こちらに背を向けたまま言った。首を動かす気力すら無い様子である。

 彼の声はいつも、消え入りそうに弱い。消え入りそうな声量で、口の中でもごもごと話す。聞き取れる端々は決まって「ごめん」だ。


 父は朝早くから夜遅くまで家を空けていた。そして帰宅すればソファーに寝そべって、そこから殆ど動かない。

 明かりもつけられないリビングの暗がりで、それは魂を抜き取られた亡者そのものだった。本物の亡霊であるナツメのほうがよっぽど生き生きしている。おかしな話だ。


 ネリノは彼の留守中、積極的に鳴川邸を散策して回った。ナツメは嫌な顔をするが、好奇心の塊のようなネリノにとって、この二階建ては恰好の遊び場となったのだ。

 お仏壇の遺影、写真立ての中で笑う三人。三枚セットのお皿、洗面所に立てかけられた三本の歯ブラシ。使いかけのままの化粧水、埃をかぶった裁縫箱……家中の至る所に、生前の母の面影が散りばめられていた。


 玄関の脇には荒れ果てたプランターが置き去りになっていた。どこからか種が飛んできて、名前のわからない雑草が生い茂っている。

 ナツメによれば、こう見えても一年前までは可愛らしい花たちが行儀よく並んでいたそうだ。手入れをしていたのは母だった。



「いい加減、ここも掃除しなね」



 おばあちゃんは家に来るたび、荒れた玄関を眺めてため息をついた。それから曲がった腰に手を当てて、情けないというふうに首を振った。「ばあちゃんの腰が働けばねぇ」


 春休みが終わっても、このおばあちゃんは定期的に鳴川家を訪れた。それが父の休日と重なった日は、両者の間ではお約束のように口論が繰り広げられた。



 乱雑に広がった広告を脇に押し退け、ある日も彼女は威勢よく身を乗り出した。



「一旦、今の環境から身を離してしっかり休みよし。病気治してからやないと、あんた体が資本なんやから」



 厳しい口調で、何度目だかしれない説法を繰り返す。



「そんな状態で家のことも放ったらかしで。部屋も散らかしっぱなしで。シオンが可哀想やないの」



「また喧嘩してはる」



 ナツメはそんな二人を上空から眺めて呟いた。その語調には、呆れ、というよりも、同情、の色がより濃く滲んでいた。シオンは例によってすでに二階へ逃げていた。

 父が低い声で何か言い返した。しかしおばあちゃんは聞き終える前にさらに言葉を被せる。そんなやりとりが三回繰り返されたあと、ついに父から会話を打ち切った。



「ほんまにもう、頑固なんやから……」



 足早に部屋を出る息子の背中を目で追って、おばあちゃんはやれやれと首を振った。食べ残された和菓子の歯形が哀愁を上乗せしている。饅頭が好きなネリノも、さすがに手を付ける気にはなれなかった。


 シオンは二人の喧嘩を苦手としていた。おばあちゃんが来れば、はじめのうち一緒に手土産なんかをつまんでいるものの、雲行きが怪しくなると、驚くほど敏感に察して自室へ逃げ込む。


 ネリノはというと、純粋な野次馬精神から空気の澱んだリビングに居残り、ナツメとともに喧嘩を観戦した。そのうちに少しずつ理解し始めた。


 祖母からすれば、息子と孫娘のことを想うからこその、心配ゆえの助言なのだ。しかし父はそんな母親の干渉を拒む。その真意の九九パーセントはネリノには全く分からなかったが、残りの一パーセントが解ったとすれば、それもまた、父が娘を想うゆえのプライドだったのだ。


 おばあちゃんの言う通り、父は頑固だった。頑固に「休む」という選択を捨て続けた。

 一人で娘を養わなければならないという責任感の、あまりの重さのためか、一時期とはいえ収入源がなくなることへの不安か。その両方でもあるだろう。

 どれだけ説得されようが頑として休職を拒み、薬に頼りながら仕事を続けていた。その反動で、帰宅すれば全ての気力を失い、廃人同然となる。

 ナツメもおばあちゃんも、父の病名を「うつ病」と呼んだ。今も瀬戸際の状態で仕事へ向かい続けているのだ。



「ある意味、お父さんはそれだけ真面目やねん。真面目すぎて、頭でっかちやけど」



 これはナツメの言葉だ。シオンは黙っていたが、否定はしなかった。彼女が否定しない時は大抵、それすなわち同意である。


 すれ違う母子の根底にある想いは全く同じ色をしている。人間が「愛」と呼ぶそれだ。かくとだに、実生活という桎梏がため、両者の和解は堰き止められていた。


 こたつ机の上にはいつも錠剤シートが散らばっていた。父が出勤してから、シオンはそれを集めて捨てた。ゴミ出しも洗濯も買い物も、おばあちゃんが来る日以外は彼女の役割だった。


 玄関脇に積まれた雑誌の束を見つけた時、シオンはその中の一冊を見せてくれた。

 灰色がかった紙に、細かい文字の羅列がぎっしり。ネリノの眉間には皺という皺が寄り集まった。上部には縁取りで強調された大きな横文字が踊っている。


 次のページを捲ったシオンが、一番下に小さく書かれた名前を指差した。



「これお父さんの名前」



 気が遠くなりそうなほど大量の文章を、あの父が書いているのだという。ネリノは目を疑った。

 彼は「週刊誌のライター」という職に就いているらしい。惑星の中でも随一の忙しさを誇るこの島国で、さらにトップクラスに位置する仕事の一つだという。


 人間というのはどうしてこうも、労働を愛してやまないのだろう。妖としては不思議でたまらないが、敢えて結論を出すとすれば、それもまた「愛故」と言わざるを得ない、のかもしれない。


 

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