1-8. ともだち
三枝家と再び合流したシオンたちは今、館内のカフェで軽食を摂っている。その間、ネリノはナツメと共に薄暗いくらげコーナーに居残っていた。先程のひと騒動で、ナツメの監視はいっそう厳戒になったのだ。
ネリノはというと、初めて見たクラゲという生き物にすっかり魅了されてしまっていたから、居残りを命じられても案外素直に従った。カフェに同行したって好物の饅頭は出ないから、都合よかっただろう。
ネリノは水槽の縁に腰掛けて、ミズクラゲをじっと眺めていた。照度の低いエリアだから、ストラップから出てもうまい具合に暗がりに溶け込んだ。
ここなら安心だと、ナツメはほっと一息ついた。
暗闇と同化した体の中で、ミルクティーベージュの瞳が二つの豆電球になって光っている。水槽の縁に並んだ青と白のライトの列に、それは上手に紛れ込んだ。
縦長の水槽の中では、ミズクラゲたちが浮き沈みを繰り返していた。白い半透明のふわふわの体が、ゆらゆらと上下に動く。
とっても奇妙で面白いその生き物を、ネリノはアクリル板に嘴をくっつけて、穴のあくほど見つめていた。
まあるく広がった傘が、彼らの頭部にあたるらしい。照明を透かして青白く光る。てっぺんには花冠のような模様がついている。ひらひらと伸びる細い足が、ゆったりと曲線を描く。実におかしな奴らである。
「飽きひんのか」
隣にナツメが並んだ。どこからくすねたのか、その右手には缶ビールが握られていた。
くらげコーナーの人影は疎らだった。そこからさらに一人、二人と去っていき、ついにはナツメとネリノだけになった。
こんな風に、亡霊が居る時、人波はそこから自然と引いていくことがある。きっとそこには見えない力が働いているのだ。
「さっきの子な、シオンの唯一の友達や。ピアノ教室もおんなじ」
不意に、ナツメが言った。
ネリノが見上げると、水槽を眺めながら、浮遊霊はくいっと缶を煽いだ。口元に残った泡が白髭を作った。
ネリノはくんくんと匂いを嗅いでみた。焦げた麦のような香りがぷわんと漂う。するとナツメは不敵に笑った。
「お前にはやらへんで」
その口調も目元も、いつもよりも少しだけふやけている気がする。
「あいつ、話すの苦手やねん。学校ではほんまに、殆ど喋らへん。一日で一回も喋らへんことの方が多いかもしれへん」
それを聞いて、ネリノはおばあちゃんの言った『緘黙症』という言葉を思い出した。
喋らない、とはどういうことだろう。喋れない、とは違うのか。
いい気分にでもなったのだろうか。普段は軽口を叩くか暴言を吐くしかしたことのないくせ、この日の浮遊霊はぽつりぽつりと、ネリノを相手に語り出した。三枝さんとシオンの馴れ初めについての話だった。
四年生、それは、小学校六年間の中で、一番簡単に『仲間割れ』が起こりやすい学年だという。クラスで作られた人間関係は簡単に壊れ、そして、簡単には戻らない。
クラス替え直後、名簿順に指定された座席で、三人の女子が近くに固まった。話の流れで、彼女たちは共通のアイドルグループが好きだということが判明した。
それがきっかけで急速に距離を縮め、やがて三人はグループで行動するようになった。しかし「推し」のメンバーは二人と一人で分かれてしまったらしい。
こっちのほうがルックスがいいとか、そっちは演技も下手で音痴だとか、そんな瑣末な言い争いが始まった。それがささくれの元素となってしまった。
はじめは冗談の延長のようなつもりだったのだろうが、仲違いの種にされてしまっては、アイドル達も浮かばれないというものだ。
小さな摩擦はあらぬ方向に飛び火した。口論は推しから本人への悪口に転化し、最終的に、互いの持ち物やファッションや、ひいては兄弟のことまでが批判の種になった。
その頃には、もはやはじめの諍いの内容なんて曖昧になってしまっていただろう。そしてもはや、相手を落とす口実にさえ出来れば、内容は何だって良くなっていたことだろう。
そしてとうとう三人グループは決裂に至った。
二対一のうち、一に残った女子への陰口がエスカレートし続けた。やがて他の女子も巻き込んだ『無視』が始まった。そんな悪の上昇気流を途切れさせたのが、あの三枝さんだったのだ。
彼女はもともとどこのグループに所属することもなく、みんなと対等な関係を築くような生徒だったらしい。溌剌とした見た目通りの性格だ。
しかし、三枝さんは孤立した生徒を一方的に庇ったわけではなかった。
「これもあの子らしいねんけど」と、ナツメは前置いた。彼女は、引き金となった原初の三人に対し、全員に非があると主張したのだ。
『客観的に自分たち見てみよし? 結構みっともないで』
彼女は言葉を選ばなかった。諍いの元凶を辿れば、それは至極真っ当な発言だったが、どこにも曇りのないその正義がために、次の矛先は彼女に向いてしまった。
三人も内心、いざこざを終息させる機会を願っていたのだろう。でもプライドが邪魔をして、とうとう誰も最後まで「ごめんね」の一言が言い出せなかった。
自分たちでも収拾がつかなくなった亀裂を埋め合わせるためには、共通の敵を作るのが一番手っ取り早いのだ。そこへまんまと生贄にされたのが……傍観していたクラスの男子が言うには「飛んで火に入る夏の虫になった」のが、三枝さんだった。
三人は彼女を「調子に乗ってる」とか「優等生ぶりっ子」とか批判することで、再び仲間意識を取り戻すことに成功した。面と向かって『みっともない』と言われたことで傷ついた自尊心を癒すための、あるいは防衛行為だったのかもしれない。
除け者にされた三枝さんがその後、もともとクラスで孤立していたシオンと親しくなったのはごく自然な流れであり、不可抗力ともいえるだろう。そして皮肉にも、それが今の二人の絆に繋がることになった。というあらましであった。
「ひとりぼっち同士が集まったようなもんや」と、ナツメは底に残った数滴を飲み干した。
「三枝さんが初めて、学校でシオンが話せた相手やねん。今でも多分、唯一の相手や」
ナツメの話を聞き終えると、ネリノは再びミズクラゲを眺めた。しかし今度は、その意識はクラゲを追ってはいなかった。
暗い水槽を見つめて、その頭の中に、学校、という場所を思い描いていたのだ。
ネリノの頭にはなぜだか、四角い無機質な箱と、そこに押し込められる同じ形の人間たちが思い浮かんだ。箱はのっぺりとした灰色一色の、無味乾燥な容器である。
集められた子供たちは、みな一様に同じ型に嵌められて、型の中で数年間かけて「成型」を遂げる。成長ではない、成型を。
ネリノの空想は続いた。幾人かの子供は、与えられた型を拒むだろう。すると大人たちは彼らを叱りつける。君は悪い子、と繰り返す。彼らは規律に従わなかったことで、社会で「はみ出し者」として扱われる。
のっぺらぼうなその人型に、物を言わないシオンの姿が重なって見えた。
ネリノは水槽の縁から飛び降りた。ちょうど団体客の列がぞろぞろと流れ込んできた。
ナツメとともに明るいフロアに移動して、人混みの中にシオンの姿を見つけた時、ネリノは決めた。
あのストラップに入って、学校、という場所までついて行こう。灰色の箱を、この目で見てみよう。そして、「しゃべらない」、あるいは「しゃべれない」が、どういうことなのかを知りたい。