1-7. 春休み
シオンのおばあちゃんは、相当におばあちゃんだった。顔いっぱいに皺とシミをこしらえて、片足を引き摺るように歩いていて、ほとんど常に腰骨をさすっていた。けれどもとっても元気でおしゃべりだった。
「晴れて良かったなぁ。忘れもんはないか? お昼は何食べようね。あら、おっきなストラップ。どうしたんこれ」
皺に埋もれかけた目がネリノ人形を覗き込んだ。ネリノは毛糸玉の中で息を顰めた。
行きしなの電車の中でも、おばあちゃんはひっきりなしに口を動かし続けた。糖尿病の数値が悪くなって、教室に呼ばれた話。おじいさんの惚けがいよいよ深刻だという話。こないだスーパーで見かけたイマドキのアルバイトの子が、とっても愛想良くて驚いた話。鹿が車に轢かれたというニュース。
シオンは窓の外を見つめながら、ごく短い返事を繰り返した。
おばあちゃんの口から、話題は後から後から湧いて出て、途切れることを知らなかった。ストラップで耳を澄ましていたネリノは、呆れを通り越して感心した。前方の背もたれに腰掛けたナツメは慣れた様子で大あくびをしている。
「シオンちゃん、こないだばあちゃんが見せたあれ、どうや」
おばあちゃんがシオンの顔を覗き込んで尋ねる。シオンの眉が微かに顰められた。
「ああ、なんとかカフェか」
少し考えて、ナツメが呟いた。シオンはそっぽを向いた。
「……行かん」
「なんでや」
おばあちゃんの声がやにわに大きくなって、ネリノは驚いて身を竦めた。
「いっぺん行ってみいや。一回も行ったことないのに、そんな嫌がることないでしょう?」
シオンは不貞腐れたまま黙っている。
「何で嫌なんや? 恥ずかしいから? 緊張するから? でもシオンちゃん、あれやで、先生たち優しいし、お友達もみんな、あんたみたいに喋られへん子ばっかりやで」
そこで一度シオンの反応を伺う。やっぱり何も喋らない。
「おばあちゃん、行ってみたらええと思うけどなぁ。お菓子作りとかできるらしいで? キャンプとか、山登りとかも、たまにやってるらしいで?」
顔を背け続ける孫娘、体ごと寄せて説得を続ける祖母。ナツメは苦笑いを浮かべて二人を眺めている。
やがておばあちゃんのほうが根負けした。ため息まじりに体を戻す。顔をしかめながら腰をさすった。
「ばあちゃん、あんたの緘黙症がちょっとでも良くなったらなぁって、思うだけなんやけどな」
おばあちゃんは難しい病名を口にした。カンモクショウ。ネリノには聞き馴染みのない言葉だった。
それから水族館に到着するまで、シオンはとうとう黙ったままだった。
建物の中は薄暗かった。そして右も左も人だらけだった。
ストラップからだと、どれだけ背伸びしても水槽の縁までしか届かない。それに左右のカバンやら大きなお尻やらにぶつかりそうで冷や冷やする。
だからネリノは、シオンの胸元にぴょいっと飛び移った。
「こらっ」
ナツメが腕を振りあげた。インディゴブルーのジャンパースカートに潜り込んだネリノは、そこから両眼だけを覗かせた。
フロアの照明は暗く、こうしていればそんなに目立つこともない。それに、シオンの胸の高さなら、ちょうど水槽の中がよく見えた。
「ほんまに動くなよ。明るいとこ出たらすぐに戻れよ。出る前に戻れよ」
ナツメは口うるさく説教した。ネリノは眉間に皺を寄せて舌を突き返してやった。
「大丈夫やって」
シオンがそっとナツメを諌めた。
ネリノはアクリル板の向こうの世界に目を輝かせた。青く淡い光に包まれた水の中には、お伽話でしか知らない、龍宮の世界が広がっていた。
砂の上でゆらゆらしている深緑の海藻、岩間に覗くオレンジ色の珊瑚、半透明のエビ。
そしてネリノの目の前を、縞模様の魚たちが列になって横切った。とても小さい。背中から尻尾にかけて、綺麗な黄色に染まっている。
「ハタタテダイ」
シオンが案内板の文字を読み上げた。
切り身になる前の生きた魚を、ネリノは初めて目にした。店頭に並ぶのはもっと大きくなってからだろうか……ネリノは、いずれこの熱帯魚たちがコンビニやスーパーに並ぶものと信じ込んでいた。
魚の子供たちは次から次へと現れた。小さな彼らの体は、ため息が出るくらいに鮮やかな色と模様を持っている。美味しそう、というよりも、綺麗、が勝って、こんな魚を食べるのは勿体無いと、ネリノは思った。その通りだ。
色とりどりの彼らに目を奪われていたネリノは、しかし次第に嫌気がさしてきた。その美しさは、ネリノに自分の兄弟たちを思い出させたのだ。
あいつらどうしているんだろう。お父さんもお母さんも、おばあちゃんも、どこにいるんだろう……。
考えないようにしていたことが、つい頭を過ぎってしまう。心の奥底、瓦礫の下に埋めていた劣等感やら孤独やら妬みやら嫉みやらが目を覚まし、むくむくと砂埃を立てて湧き上がってきた。
ネリノは一人で勝手に拗ねると、デニム生地に顔を引っ込めた。
「どうしたん」
シオンが不思議そうに囁いた。
「わぁ、ジンベエザメ」
おばあちゃんが歓声を上げ、すぐ隣にいるシオンを手招いた。
「シオンちゃんシオンちゃん、ジンベエザメやで。おっきいねぇ」
ナツメもほうっと息を漏らした。つられたネリノが思わず顔を出すと、その目の前を、巨大な化け物が横切った。ネリノの目玉は飛び出そうになった。
その化け物は、切れ目の入った灰色の腹を見せつけながら、水槽の表面すれすれを悠々と泳ぎ去っていった。左右に広がったモモンガみたいな両腕がひらひらと水をかく。
似たような仲間がさらに一匹ずつ、上と下から姿を現した。大きな影が交差する。埋もれそうな黒い瞳が、きらりと一瞥を送って寄越した。
ネリノは目を見開いて彼らを追った。お父さんが話していたサメは、もっと尖った鼻先を持っていて、もっと鋭い瞳を持っていて、もっと恐ろしい怪物のはずだった。
新発見の連続である。シオンは通路を進みながら、魚たちの名前を小声で読み上げてやった。
「タキベラ。キイロハギ。クマノミ。ワモンフグ。あれはチンアナゴ」
ネリノは目を輝かせた。砂地からニョロニョロと生えた、赤ん坊のヘビ。
名前を教えていくうちに、シオンは段々と、ネリノの反応の法則性を理解し始めた。ネリノは綺麗な色の魚が来ると目を背け、灰色や黒が基調の地味な魚には目を向ける。一般的な人間とは真逆の反応である。
巨大水槽の端まで辿り着いた。廊下の向こうへ続くフロアには、もっと小さな水槽が壁際にずらり、さらに中央にぽつぽつと立ち並んでいた。先程よりも照度が高いことは遠目でも明らかだった。
用意周到なナツメはネリノをむんずと引っ掴むと、無理やりストラップに押し込めた。ネリノは暗がりでじたばたと抵抗した。
「鳴川!」
不意にシオンの名字が呼ばれた。
「お、三枝さん」
ストラップの外でナツメが言う。やっとこさ体の向きを戻したネリノは頭を突き出し、大きな息をついた。
ナツメの視線を辿ると、人混みの向こうで一人の女の子が手を振っている。見た目はシオンと同じ年頃だ。
人の流れが途切れた隙を見計らって、彼女はこちらへ駆け寄ってきた。まだ春先だというのに、半袖短パンという真夏のようないでたちである。
「鳴川も来てたんや」
『三枝さん』が嬉しそうに言うと、シオンの表情も、心なしか僅かに和らいだ。
三枝さんはシオンの傍らに立った祖母にもぴょこんと元気にお辞儀した。耳のラインまで短く刈った縮れ毛が軽やかに跳ねる。日に焼けた健康的な肌が、シオンとはまるで対照的だ。
「こんにちは。シオンのお友達?」
「はい。去年おんなじクラスでした」
三枝さんははきはきと答えた。
「そぉ。今年も仲良くしてね」
おばあちゃんはにこにこして言った。彼女の親と思しき女性が後から続いてやって来て、保護者同士で雑談を始めた。
「次もおんなじクラスやったらええな」
三枝さんの言葉に、シオンは大きく頷いた。
ははあん、とネリノは納得した。こいつはシオンの『小学校』の仲間なのだ。するとその時ふと、少女の視線が自分に注がれた。よりによって、ストラップから大胆に顔を出していたこの瞬間に。
ばちん、と音が鳴るくらい見事に目が合って、ネリノの体は固まった。視界の隅で、状況に気づいたナツメが眉を顰めた。
うごいちゃいけない、うごいちゃいけない。ネリノは自分に言い聞かせた。
不思議なことに、駄目だと思うほど、その禁忌を犯してしまいたくなるものだ。ネリノの目は急にムズムズしてきて、瞬きをしたいという強い欲求に駆られた。おまけに、さっきまではちっとも無かった尿意まで催し始めた。
三枝さんと見つめ合いながら、ネリノはうずうずした。早く目を逸らしてくれ。
ネリノをじいっと見つめた三枝さんは、その腕をぬっと伸ばしてきた。ネリノの体はますます緊張で「!」の字に固まる。
彼女の逞しい手がネリノに触れた。ナツメとシオンはあっと声を上げそうになった。
「なぁにこれ。手作り? まっくろくろすけのオマージュ? ははっ、鳴川やっぱ変わってるわ」
早口で快活に笑うと、次の瞬間、
「にしてもおっきすぎひん?」
と言いつつ、彼女の手がストラップをぎゅうっと握りつぶした。ネリノは思わず悲鳴を上げた。
警報サイレンのような甲高い声が響き渡り、フロアは一瞬にして静まり返った。ネリノは慌てて両の翼で嘴を覆った。
視線がこちらに一極集中する。シオンのおばあちゃんも、三枝さんのお母さんも、目を丸くしてこちらを見つめている。
三枝さんはぎょっとして手を離し、怯えた目で周囲を見回した。
「……なんの音?」
シオンはもごもごと誤魔化すと、急ぎ足でその場を離れた。
「ほーら言わんこっちゃない」
ナツメのぼやきが後から追いかけてくる。ネリノはストラップに沈み込んで、ほおおっと長い息をついた。勢いのまま漏らしてしまいそうだ。