1-6. セカンドハウス
三月も終盤に差し掛かった。あたたかい風が吹き始めると同時に長い雨が続いた。木々の新芽が膨らみ、気の早い桜たちは花びらの皺を伸ばし始めた。シオンは春休みに入ったらしい。
春到来とはいえ、夜中はまだまだ肌寒い。ピアノを中断したシオンが、パーカーの襟元をかき合わせながら尋ねた。
「水族館って行ったことある?」
すでに指定席となった譜面台にもたれていたネリノは、はてなと首をかしげた。
スイゾクカン?
「ちょっと暗い部屋に、こーんな水槽があって」
シオンは両腕をいっぱいに伸ばしてみせた。「魚がいっぱい泳いでるねん」
ネリノの頭の中には、たっぷりの水を貯えた透明の巨大な容器に、鮭の切れ目や白身のフライやシーフードミックスが漂っている図が浮かんだ。まったくいやしんぼうの妖だ。
「今度おばあちゃんが連れて行ってくれるねん。ネリノも行きたい?」
ネリノはぴょーんと跳び跳ねた。
いきたーいっ。
勢い余って、天井に頭をぶつける。ぐしゃりと縮んだ体が真っ直ぐに床に墜落した。そこからさらにぽんぽんっと、ピアノの向こうへ跳ねていった。
ようやく止まった所で、ネリノはくらくらする頭を起こした。
シオンが走り寄ってくる。くすくす笑いながらネリノを抱き起こした。
「そんなに嬉しい?」
ぎゅっ、と目を瞑って、再びぱっと開くと、視界は元通りになった。ネリノはシオンを見上げて大きく頷いた。
「ほんなら一緒に……」
「あかんあかん! ぜったいあかん!」
突然口を挟んだのはナツメだった。
いつの間に迎えに来ていたのか、斜め上空に仁王立ちで浮いている。
「こんな奴連れて行ったら、ぜーったいなんか余計な騒ぎ起こすもん」
ネリノを指差して、確信に満ちた声でそう言う。
ネリノは抗議の声を上げた。きっと甲高く鳴いて浮遊霊を睨みつける。この邪魔者!
するとナツメはさらに言い募った。
「こいつがどんだけ碌でもない悪戯小僧か、教えたろか?」
それから指折り数え始めた。
「人んちのお墓のお供え物、勝手に食べたり、荒らしたり。観光客に幻覚見せて迷子にさせたり。線路に侵入して、電車のダイヤを乱してみたり。それと、頭に思い浮かんだものの名前が出てこないようにする呪いかけたりするんやって」
町の妖たちから聞いたのだろう、ネリノのこれまでの悪戯の数々を挙げ連ねる。その噂にはネリノ自身も驚いて飛び上がった。
でたらめばかりだ。お供えを食べたことはあるけど、荒らしたりはしていない。それはおおかたカラスの仕業だ。食べたのだって、お饅頭を少しばかりだ(いちいち覚えていられない数だった。通算するとおそらく三桁は裕に超えていた)。
観光客を迷子にさせたのは、彼が手持ち無沙汰で退屈そうにしていたからだ。ボランティアだ。親切だ。それに最後のは何だ、頭に思い浮かんだものの名前が出てこない呪い? そんなの、本人がボケてただけだ。
その他の悪行は事実だったが、怒ったネリノはそんなことお構いなしにナツメの周りを飛び回り、その長い黒髪を突っついた。ナツメも負けじと掴み掛かる。
相変わらずな二者の喧嘩に、シオンは困って肩をすくめた。
それから雨が続いた。三日ぶりに、シオンが夜中の駅へやって来た。
退屈を極めていたネリノは、アップライトのてっぺんで、あっちへごろごろ、そっちへごろごろと不毛な時間を過ごしていた。頭の中ではスイゾクカンへの未練をぐずぐず引き摺って。
やがて近づいてくる足音に気づいて、ぴょこっと体を起こした。
今夜のシオンは、キャンバス生地の白いショルダーバッグを肩から下げていた。
ネリノのもとまでやって来ると、鞄の口から、小さな包みを大切そうに取り出した。
両の手のひらにすっぽりと収まった、ベージュの巾着袋。ネリノは身を乗り出した。中身のほうが色が濃いようで、丸い何かがうっすらと透けている。
「開けてみ」
シオンは言った。どこか弾んだ声色だった。
リボン結びを解いて口をネリノに向ける。中には真っ黒のもけもけが入っていた。なんだこれ。
ぴょんっとシオンの手に飛び乗ったネリノは、両の翼でそいつを取り出そうとした。自分よりも一回り大きいそれに引き負けそうになって、シオンが手を貸してくれる。巾着が脱げて、黒いそれの全身が、シオンの手のひらに転がり出た。
ネリノは目を見開いた。ネリノだ。
それは自分とそっくりの人形だった。黒い毛糸がぼうぼうと生えて、正面のちょうど真ん中あたりに、小さな三角の茶色いフェルトが貼り付けられている。多分これが鼻のつもりだ、とネリノは判断した。
その上部に、ミルクティー色のビーズが二つ埋め込まれている。
ネリノは毛糸のネリノの周囲を回って、三百六十度から分身を観察した。そして三つの発見をした。
一つ。茶色い腑抜けた脚が三本、だらりとぶら下がっていた。ネリノは真ん中の脚を掴んでみた。これも毛糸でできている。骨が入っていなくてふやふやで、あらゆる方向に折れ曲がる。
これじゃ立てそうもない。でも三本の脚の先には本物と同じように、それぞれ三つに枝分かれした指もくっついていた。
ネリノは鷹揚に頷いた。合格。
二つ。胴体と同じ色の一対の翼が、左右に生えていた。右の方が短い。ぺらりと捲ってみると裏側も同じ黒色。これも骨がない、本当に飾りだ。
毛が生えていない点が惜しいと、ネリノは残念そうに首を傾けた。
三つ。これが一番のお気に入りポイントとなった。体毛代わりにびっしり生えた真っ黒の毛糸は、驚くほどふわふわだったのだ。これに気づいた時、ネリノからネリノへの愛着は急上昇した。
毛糸に抱きついたネリノは、そのままの姿勢でシオンを見上げた。
つくったのか。
シオンはこくりと頷いた。ほっぺたがちょっとだけ赤く染まった。
「下手くそやけど……」
小さな声で付け足す。
ネリノは毛糸のネリノに向かって、突っついたり引っ張ったり、体当たりしたりを繰り返した。そうこうしているうちに、毛糸ネリノの頭のてっぺんに、一つの穴が空いているのを見つけた。
シオンが指先でその穴を広げてみせた。
「ここ入れる? モンスターボールみたいに」
もんすとあぼる、とは聞き馴染みのない単語だった。でもネリノは宙に浮くと、お尻から勢いよく飛び込んでみた。
意外や意外、もんすとあぼるとは、そのけったいな名に反して、入ってみると驚くほど心地が良い。 毛糸の柔らかな温もりに体を埋めて、ネリノはうっとりと目を閉じた。あぁごくらく。
「気に入った?」
くぐもった声が外から聞こえた。穴の外を覗いてみると、黒いビー玉がこちらを見下ろしていた。
仰向けに転がって、ネリノは思う存分、毛糸の海に身を擦り付けた。
中々出てこないネリノの様子に、気に入ったことが分かったらしい。ほっとした様子で、シオンの口角は二ミリだけ上がった。
「これで一緒に水族館行けるな」
この日以降、シオンはどこへ行くにも、かばんに不釣り合いな大きさの黒いもけもけをぶら下げることになった。
中に一匹の怪が棲みついていることはシオンだけの秘密である。それは次第に、彼女も気づかない間に、心の御守りにもなっていくのだった。
……ナツメはそれでも、しぶとくシオンを説得しようと試みた。
「分かってんのかシオン? 水族館って、めっちゃ人多いねんで。そんなとこで変な騒ぎ起こしたら捕まるかもしらへんで。捕まったら、こわーいくらーい牢屋に放り込まれて、二度と出てこられへんなるで。サーカスに入らされるかもしらへんねんで」
脅し文句にも近い警告を続ける。ネリノは毛糸ストラップから顔を出して、べーっと舌を突き出してみせた。シオンがその顔を覗き込んだ。
「温順しくするって、約束できる?」
ネリノは何度も何度も頷いた。
する。する。ぜったい。する。
シオンは勝ち誇った顔でナツメを振り返った。
あからさまに唇を尖らせたまま、浮遊霊はそっぽを向いた。
「知らんかんな。何があっても」