6-8. はじまりの日
「八時までには戻ってきいや。山焼きは最後まで見てられへんで。八時に改札やで」
「わかってる」
口酸っぱく門限を繰り返す父に、詩音は呆れ半ばに返事した。
滅多に使わない新幹線だ、乗り遅れたりしたら大変だと、神経質になっているのだろう。
そわそわと意味もなく手荷物の確認を繰り返しているうちに、ようやく夕方になった。それでも予定時間にはまだ三十分あったが、詩音は足早に玄関へと向かった。
手荷物は紙袋一つ。代わりにコートの右側のポケットがはち切れそうに膨らんでいて、真っ黒の毛糸がはみ出している。
綺麗に掃き清められた玄関で、詩音は急いでブーツを履いた。サイドのファスナーを上げるのももどかしく立ち上がる。よっぽど浮き足立っている。
「行ってきます」
「向こうの親御さんにもよろしく伝えといてや」
父の声が追いかけてきた。詩音は返事もそこそこに歩き出した。
右手がほとんど無意識に、膨らみきったコートのポケットを撫でた。父には、百香と二人で花火を見に行くと言ってある。
闇一面のポスターに咲き乱れる、色彩鮮やかな花の群れ。真冬の夜空が燃えている。
咲き終えた花から、火の粉が散り散りに舞い落ちていく。その軌跡を追うように続けざまに、新たな一輪が打ち上げられる。
頂点に達した時の一瞬の沈黙ののち、軽やかな爆発音とともに産まれる炎の赤子達。絶え間ない産声と放射状に広がる彩りに、地上からの歓声も鳴り止まない。
群衆が花火に気を取られている下で、若草山の輪郭は徐々に橙色で縁取られていく。
一月最後の土曜日。初めて会った日と同じ時間、同じ場所で、ネリノと詩音は並んで花火を眺めた。
視界を遮るものは無く、周囲のざわめきも遠く、最も優美に鑑賞できるアリーナ最前列。天然素材の特等席、大楠の幹の上である。
一年前の今日は、ネリノの場所にはナツメが座っていたのだ。腰掛けている幹は一回り太くなって、上質な筋で引き締まっているような気がした。
風に煽られても危なっかしく揺れたりしないから、あの日のように落ちそうになって冷や冷やする心配も無用だ。
これも一年間の鍛錬の成果だろう。ひとつ所に留まる木々もこうやって、人知れず成長を続けているのだ。
頭上を北風が通り過ぎがてら、さわさわと葉擦れを起こした。
ラストスパートを報せる小花火の乱れ打ちが始まった。気づけば山火は、裾野を広く燃やし始めていた。
「ネリノって綺麗やね」
不意に詩音が言う。思いがけない言葉にネリノのは飛び上がって、思わず幹から落っこちそうになった。
その背中を抱き止めながら、詩音は笑った。花火が照らしたその笑顔に、ネリノは思わず見惚れてしまった。
この一年で、詩音の黒髪は肩の下まで伸びていた。それはあの浮遊霊を思い出させた。
じっと見上げていると、詩音は続けた。真っ黒なネリノを見つめて言った。
「黒って何にも染まらん色やから、好きやねん。嫌いな色はグレー」
ネリノは目をぱちぱちさせて、赤くなって俯いた。
なんにもそまらんいろ。それは初めて贈られた賛辞だった。
なんにもそまらんいろ。
ネリノはにんまりした。かっこいいぞ。
花火が終わらないうちにお別れすること。そのほうが綺麗だから。駅まで着いてきたらダメ。人が多いから。さようならは敢えて言わん。また会えるって信じてるから。
詩音は言った。そしてネリノは、彼女が望んだ通りの別れ際を叶えた。長々と理由を並べていたけど、一言でまとめると、つまり泣きたくないってことだろう。
最後の一発が打ち上がった。それを合図に、ネリノは枝からひょいっと飛び降りた。そのまま風に乗って空へと舞い上がった。一言も残さずに、一言も交わさずに。
黒い翼を広げた小さな体は、湿った夜の空気をすいっと横切って、まっすぐに駅舎のピアノと向かった。
ミルクティーベージュの瞳に、槍のように冷えた風が何本も刺さったけど、心臓はなんだかおかしな音を鳴らしていたけど、冷えた鉄フレームに体を横たえるまで、ネリノは泣かなかった。
浅い夢を見た。水面を弾くような旋律に、月の光の温もりとともに体が抱かれる、懐かしい夢だった。
木板の向こう側から聞こえる囁きのような音に気付いても、それでもネリノは、朝が来るまで目を開けなかった。
ネリノも同じだった。つまり泣いているところなんて見られたくなかったのだ。
*
ピアノの鍵と交換だと、詩音がストラップを置いて行ったらしい。
翌晩、天神社の境内で、井氷鹿は両手に包んだネリノストラップを差し出した。それを見るなり、ネリノはぴょんとひと跳ねして、懐かしい懐かしい毛糸玉に、奥深くまで潜り込んだ。
馴染みの感触、馴染みの匂い、一番好きな場所。
「饅頭のベッドなんかよりずっと寝心地いいんちゃうか」
「これでいよいよピアノからも引っ越しだな」
スクナと井氷鹿のくぐもった声が、毛糸越しに響く。
ネリノが毛糸玉から顔を出すと、井氷鹿は穏やかな微笑を浮かべたまま、とんでもないことを言ってのけた。
「どうだ。お前も一つ、旅にでも出てみたら」
ネリノは目を丸くした。淡い瞳が縦に見開かれた。
「もういいじゃないか、家族なんて。ここではない何処かにだって、きっとお前の居場所は見つかるはずだよ」
ネリノに向かって、井氷鹿は深く頷いてみせた。隣のスクナも同じようにこくりとした。
ネリノは数回瞬きをして、それから黒い体を丸めた。ずとんと、心臓に落ちてきた言葉を噛み砕いた。
ここではないどこか。いばしょ。
そうか。そうなのかな。そうなのかもしれない。イヒカがいうことだもの。
「太占?」
スクナに尋ねられ、井氷鹿は首を振った。
「いいや。ただなんとなく、そう思うだけ」
その言葉で、ネリノは余計に嬉しくなった。
それならなおよい。うらないなんかよりもずっといい。いっそういい。
ネリノは毛糸に潜り込んで、こっそりと会心の笑みを漏らした。
ここでないどこか。いばしょ。うん、とってもいい。
井氷鹿の長い爪が、ちょんちょんとその背中を突っついた。
「おい、聞いてるのか」
ネリノはもう一度首を伸ばして、二人に顰めっ面をしてみせた。
「熊野のあたりにしたらどうや?」
スクナの提案に井氷鹿も賛同した。
「あの辺なら遠戚も多いだろうな」
仰向けになったネリノは、ふわふわとした毛糸の海原に体を浮かべて、曇り空から注ぐ薄い月光に目を閉じた。
クマノか。いいかもしれない。どこだかしれないけど、よさそうだ。
エンセキというのも、よくわからないけどよさそうだ。なんとなくそうおもう。
「夏休みには戻ってきなよ。きっとシオンも帰省するだろうから。それから」
と、井氷鹿は歩き出した。ネリノを両手に載せたまま、石段を降りていく。
その足が、手水舎の脇の、古びれた掛所の手前で止まった。その時、ネリノの目にそれが映った。
下から二段目に、忘れられたようにぽつりと、一枚の絵馬が掛けられている。
「本人は恥ずかしがったかも分からんが。一応、伝えておこうと思ってな」
ネリノは毛糸玉から身を乗り出して、木板に認められた三文字をじっと見つめた。
風に煽られて、絵馬は恥ずかしげに頼りなく揺れた。
「誰の字か、お前になら分かるだろう」
ネリノは深く頷いた。
マジックペンで綴られた、滲んでいて歪んでいて、下手くそな文字。ひっそり、ささやかに、でも確かに宣言された抱負。
「読めるか?」
スクナに尋ねられ、ネリノは当然だと胸を張った。このカンジはしっている。
二人に促されて、ネリノはすうっと息を吸った。
三文字の決意を、大切に、丁寧に、音にした。
澄み切った真夜中の境内に、凛とした声が響いた。
生きる。




