6-7. 妖たちの餞別
「あぁ良かった、間に合った」
煙が薄れた先には志村が立っていた。ワイシャツに茶色いニットベストを重ねた、この真冬に外から来たにしては薄着な装いである。
その背後で、黒々とした津々鏡は音もなく収束していった。
頭を掻きながら、志村……に化けたスクナは、にこにこと詩音に歩み寄った。
「ごめんなぁ。夜勤明けで、ちょっと残業が長引いててん」
「もうお昼なのに」
座布団の上で小さくなっていた座敷童子が、目を丸くした。その声音がオクターブ高いことと、頬が薔薇色に上気していることに気づいて、ネリノは鼻を鳴らした。ナツメとおんなじ反応だ。
座敷童子は座布団の上に立ち上がった。それから胸の前で両手を組み、上擦った声で言った。
「ヒトに変化された姿は初めてお目にかかります、スクナ殿っ」
スクナは九十九神たちに向き直り、やんわりと微笑んで見せた。
「こんにちは。みなさんお揃いで」
「のっけから華やかな登場じゃの。久方ぶりだね、スクナ」
神猿が片腕を差し出した。その手を握り返すと、スクナは胸に手を当てて深く一礼した。
「ご無沙汰しております、神猿殿。お変わりありませんか」
「お陰様で、まだまだ三途の川は程遠い。これも詩音殿のお陰さね。それから、ネリノと」
ネリノはぴくっと背筋を伸ばした。鈴鳩が神猿の隣から首を伸ばした。
「おいらも噂にしか聞いたことがなかったな。本当にてべりきょくで働いていなさるんですか」
「テレビ局、やよ」
「なんだってそんな、俗な仕事を選んだんです」
「いやぁ楽しいよ、意外と」
「でも働きすぎはいけませんよ。お身体に障ります」
座敷童子が心配そうに口を挟み、スクナは仕方がないというように肩を竦めた。
「うーん、今ちょうど繁忙期でね。新しいプロジェクトが二つ三つ、それとアルバイトさんがとんでしまって」
「あるばいと、というのは鳥類の一種ですか」
鈴鳩を軽くあしらい、スクナは詩音に尋ねた。
「非時の霊薬は、もう受け取った?」
詩音は頷いて、左手に握ったガラス瓶を掲げてみせた。
「僕からもおまじないかけてるからね、使ってみてな」
ぽんぽんと詩音の頭を叩く。またもや鈴鳩が水を差した。
「呪いは呪いと紙一重と言うからな。部屋が乗っ取られないように、使いすぎにはくれぐれも注意しろよ」
「なんかあったら連絡しいや。見送り組の中ではまだ、いっちゃん近くにおるから」
「よく考えればスクナ殿、なにもここまで見送りに来なくたって、向こうで待ってればよかったのにねぇ」
鈴鳩に揶揄われたスクナは、今度は聞こえないふりをした。詩音は不安げに彼を見上げた。
「連絡先、知らないです」
「心で呼んでくれたらすぐに駆けつけるで」
そう言うと、スクナは女子をメロメロにする例の笑顔で、華麗なウィンクを投げかけた。
「出発は今夜?」
詩音はこっくりした。神猿が不思議そうに尋ねた。
「どうして遅らせたのかね。百香は今朝早く発ったと話していたぞ」
詩音は少し躊躇って、ちらりと足元のネリノを見た。
「花火が」
「あぁ、それで夜にしたのか」
井氷鹿は合点がいったように頷いた。そうだと答える代わりに、ネリノはぴょんっと詩音の肩に乗り上げた。
本当は、昨日の夕方には発つ予定だったのだ。それを詩音が、今晩の花火が終わってからの電車にしてほしいと頼み込んだ。あまりの強情さに、最後には父が折れたのだ。
ネリノは二人の様子をそばで眺めていた。ようやく承諾が下りた時、詩音とこっそりハイタッチを交わした。その背後で、父は何度も首を捻っていたものだ。
「そんなに花火に拘らんでも、東京行けばもっとおっきな花火大会が見れるんに」
これが詩音にとっては初めての引越しとなる。人一倍の感受性を持つ彼女にとっては、引越し、というよりも、移住、という表現の方が近い、大きな大きなライフイベントだ。
いわば緑豊かな古都から、国内の最先端が集うコンクリートジャングルへの移住である。今までの環境が百八十度ひっくり返るといったって大袈裟ではない。
だから彼女の胸には、もちろん大きな不安の塊が疼いていて、ネリノもそれを感じていた。父にとっては不可解な拘りだったが、詩音にとっては、深い意味をもつ儀式でもあったのだ。もちろん、ネリノにも。
井氷鹿は全てを見透かしたような瞳で、そんな両者を見つめた。
その時、階下から声がした。
「詩音、お昼は寿司とるか、食べに行くか、どっちがいい?」
その声を合図に、妖たちは帰り支度を始めた。
「そろそろ御暇しよう」
井氷鹿が窓ガラスに手を翳して、再び津々鏡を出現させた。
それから九十九神たちは、現れた時と同じくらい騒々しく立ち去った。
「邪魔したな」と鈴鳩。「お身体お大事にね」と、座敷童子はぎりぎりまで手を振っていた。
最後に神猿が、詩音と固い握手を交わした。
「身代わり申は、新しい家でも大事にしなされ」
そしてネリノにも深く頷きかけると、師弟たちの後を追って鏡の向こうへと消えた。
残った井氷鹿は、大きな体で詩音をふわりと包み込んだ。肩に載っていたネリノも漏れなく、そのあたたかく包み込むような温もりに抱かれる。
井氷鹿は大きな手のひらで詩音の頭を撫でて、こう言い聞かせた。
「広い空が恋しくなったら、いつでもおかえり」
着物に顔を埋めて、詩音は深く頷いた。
それから背の高い水霊の背中に腕を回して、彼女の匂いを、温もりを胸に焼き付けるように、ぎゅうっと抱きしめ返した。
やがて階段を上がってくる足音とともに、父がドアを開けた。
「なんしてたんや、詩音」
その頃には、詩音はせっせと窓枠を拭いていた。何事もなかったように父親を振り返る。
父はきょろきょろと部屋を見回した。
ネリノは父の真上にいた。ドアの枠に乗っかって、彼を見下ろしていたのだ。
「どうしたん?」
「いや、誰かおったんかなって」
「誰かって、誰」
父は頭を掻いて肩を竦めた。
「あ、そうそう。昼ごはん。ばあちゃんが寿司取ろかって言うてるんやけど、何が食べたい?」
「うん。お寿司でいい」
「そうか」
父は部屋を出かけて、もう一度振り返った。
「一人で掃除してたんか」
「うん」
詩音は頷いた。
その後ろ手には、先ほど妖たちから受け取った、三つの餞別が隠されていた。一つ目は仔鹿の根付、二つ目はガラス瓶の霊薬。
そして三つ目は、ネリノからの贈り物だった。京終駅舎のピアノの鍵。




