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京終のネリノ  作者: 小林 綸
第1章
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1-5. 向こうの世界


 毎夜毎夜、ピアノを演奏しにやって来るシオンだが、七分の三ほどの頻度で気が乗らない夜もある。演奏が途切れたり、ミスが重なって最後まで弾き切らずにやめてしまったりするから、割と分かりやすい。

 そんな日には駅から離れて、真夜中の散歩に繰り出すというお決まりの流れが出来た。

 はじめに誘ったのはネリノだった。散歩から戻ると、駅舎の真ん前でナツメが仁王立ちして待っていた。

 頭に角を生やした浮遊霊は、勝手に連れ出すなとネリノを厳しく叱りつけたが、またもやシオンが、「自分から行きたいと言った」のだと嘘をついて庇ってくれた。今度はネリノも一緒になって、そうだそうだとやり返した。それでも、ナツメからの疑いは晴らせなかったのだが。

 シオンはその日以来、この真夜中の散歩をすっかり気に入ってしまった。

 からっぽの二車線を横切って、誰もいない赤信号を渡る。

 霞んだ色した誘蛾灯、ステージライトのようにぽっかりと照らされたアスファルト、夜霧のブランケットにくるまって月光を浴びる猿沢池のほとり。どの角を曲がっても野良猫の姿すら見えない、がらんどうの街。世界を独り占めできている錯覚に浸る刹那である。

 住宅街の迷路も、灯り一つない細い裏路地も、シオンは恐れることなく軽い足取りで進んだ。分かれ道に出るたび、右へ左へ気ままに折れて、いくつもの新しい道を開拓していく。中々に度胸のある小学生らしい。

 この夜シオンが向かったのは、一駅分離れた小さなお寺だった。

 正面に構えた木造の門は、歴史を感じさせる立派な造りだ。入り口は同じ色の柵で塞がれていたが、ネリノでも軽く飛び越せるほどの高さしかなかった。

 しかしシオンはそこを通らずに、その脇道へと真っ直ぐに進み、黒い柵を開いた。闇に紛れて、そこにあると知らなければ気づけない通用口だ。

 音を立てないように、アルミの薄い柵をゆっくり開くと、暗闇に沈んだ庭を伺った。

 左手には、途中の空き地で摘んできた野花が大事そうに握られている。これをどうするつもりなのか、ネリノには皆目検討がつかないでいた。

 柵の隙間に体を滑り込ませて素早く門を閉めると、シオンは小走りで庭を横切った。その緊張感がネリノにも伝染して、この小さな冒険にわくわくと胸を躍らせながら、黒い翼を広げて彼女の後に続いた。

 裏口を抜けて辿り着いたのは、小さな墓地だった。少々飛び疲れてしまったネリノは、シオンの頭の上に降りて一服をとった。

 ネリノを乗っけたまま石畳を進んで、シオンは、一つのお墓の前で立ち止まった。

 しゃがみ込んで墓標を指差した。

「ここ。お母さんがいる」

 ネリノは頭の上から身を乗り出した。漢字が縦に刻まれている。

 シオンは握っていた野花を石の上に供えると、手を合わせて目を瞑った。その間に、ネリノは目を凝らして墓の中を覗いてみた。

 ほの白い人魂が幾つか蠢いているが、そのうちのどれがシオンの母親なのかは判明しなかった。

 周囲の墓からは、ふわふわと青白い魂が漂い出ている。この時間はちょうど、亡霊たちのゴールデンタイムにあたるのだ。

 普段あまり見ない、生身の若い魂に興味を惹かれたのか、彼らはふわふわとシオンの周りに集まってきた。

 シオンが目を開けた。取り囲む人魂に気づいて、怯えたように後ずさった。

 ネリノはすっくと立ち上がった。ばさりと音を立てて飛び上がり、人魂の群れに突っ込んだ。

 彼らは驚いて四方へ散った。その後を追ってさらに畳み掛けた。嘴で突っつき、小さな翼で煽ってやる。一方的な空中戦となった。

 怯んだ人魂は青色に染まり、石畳の上を一列になって墓地の奥へと逃げ始めた。ネリノが行き止まりの壁まで追い詰めた時、突如として、そこにぽっかりと黒い穴が開いた。冥土への逃げ口だ。

 黒黒とした闇が蠢くその穴へ、人魂は流れるように逃げ込んでいく。最後の一つのしっぽが吸い込まれると、闇の穴は瞬く間にすうっと萎んで、元通りの壁に戻った。

 ネリノは満足げにその場に着地した。

 ふと振り返ると、目を真ん丸に見開いたシオンが、ネリノの後ろの壁を見つめている。どこからともなく黒い穴が出現して、そしてまた、忽然と消えた壁を。

 ネリノはぴょんと跳ねて彼女の視界を遮った。何度か繰り返してやっと、シオンが我に返ったようにネリノを見た。

 ネリノは翼を持ち上げて出口を示した。かえろ。

 シオンは頷く代わりに瞬きを繰り返して、その場にしゃがみ込んだ。

 ネリノは動きを止めた。気分でも悪くなったのだろうか。急いで少女のもとへ飛んで行く。

 そんなネリノをじっと見つめて、シオンは壁を指さした。

「向こうの世界に繋がってるん?」

 ネリノは目をぱちくりさせて、シオンの指が示す方を見た。そしてまた彼女に視線を戻した。

 むこうのせかい?

 初めて聞く表現だったのだ。するとシオンが言い換えた。

「あの世……とか、天国とか」

 ネリノは納得した。向こうの世界、は、冥土のことを指すらしい。

 ネリノが頷くと、シオンは口を真一文字に結んで、再びじっと壁を見つめた。かと思えば、ふらふらと立ち上がって歩き出した。様子が変だ。

 シオンはコンクリートの壁に手のひらをぺたりとくっつけて、その一点を穴の開くほど見つめている。まるで幻影を魅せられているような、悪い薬でも飲まされたように虚ろな表情だ。

 ネリノは彼女の耳元でじたばたと羽ばたいた。それでも一向に気づく様子がないので、きいっと甲高く鳴いた。

 ようやくシオンがこちらを見た。その瞳には新たな光が宿っていた。

「恩返し、決めた」

 ネリノは羽ばたくのをやめて、ストンとその肩に降りた。

 少しの間があって、アイスの一件のことだと思い出した。言い出しっぺのネリノも忘れていた約束だった。

 シオンを見上げて、ネリノは小首を傾げてみせた。

 なに。

「『向こうの世界』に連れてってほしい」

 それが、シオンが求めた恩返しだった。

「ナツメには内緒で」

 と、シオンは付け足した。ネリノは目をぱちくりさせた。意味はよくわからなかったが、わからないままに頷いた。

 するとシオンはほっと肩を下ろした。

「ありがと」

 むこうのせかい……冥土。常世。

 ネリノはもう一度首を傾げた。

 どうして、いきたい。

 するとシオンは答えた。

「お母さんに会いたい」

 それを聞いて、ネリノは再び鳴川家のお墓まで飛んで行った。ふわふわと漂う魂に目を凝らす。

 どれがお母さんだろうか、もう一度当てようとしてみたがやっぱり分からない。

 後ろにしゃがみ込んだシオンが、ピンと立てた小指を突き出した。

「約束ね」

 ネリノは小さな黒い翼を広げた。その先を、シオンの指先にちょんとくっつけた。

「ゆびきりげんまん」

 指先を小さく揺らす。それは初めて聞く言葉だったが、彼女の瞳の輝きとわずかに緊張をはらんだ空気で、なんだか特別な儀式のようだ。ネリノの胸は高鳴った。

 駅舎に戻ってからも、ネリノは独り思考をめぐらせた。フレームに寝転がって空虚な闇を眺める。

 むこうのせかい。心はわくわくと踊っていた。この願い事の重みを、この時はまだ何も知らなかった。だから無邪気に計画を立てた。

 ぼうけん。むこうのせかい。みのしろ。きっぷ……そのうち、いつの間にか眠りに落ちていた。

 木板の向こうが賑やかになり始めて、朝が来たのだとわかった。大きく伸びをしたネリノは、少し遅めの朝食にと、おにぎりをくすねに、駅舎のカフェへ乗り出した。



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