6-5. 嘘をついた理由
参観日の翌週。いつものごとくネリノが詩音の机の脇にぶら下がっていると、横からぬっと影が伸びてきた。
顔を上げると山本さんである。珍しく一人だ。
驚いて固まる詩音の横で、後ろ手を組んだ山本さんは、暫くの間もじもじしていた。
ネリノの視界の隅に、数人のメンバーが映った。遠くの席から興味深そうにこちらを眺めている。
ややあって山本さんは、意を決したように口を開いた。
「鳴川さんのお父さん、心の病気やねんて。私のパパと一緒や」
山本さんの声量は周囲の喧騒に溶け込んで、おそらく詩音くらいにしか聞こえなかった。彼女がこんな話し方をするのは、ネリノの知る限り初めてだった。
ネリノがちらりと見上げてみると、思った通り、詩音は黒い瞳を見開いて、まじまじと彼女を眺めている。
山本さんは少し照れくさそうにはにかんで、詩音の顔を覗き込んだ。
「なぁ、修学旅行の自由行動、一緒に回らへん?」
ほほうっ、とネリノは感嘆した。意外な展開だった。
詩音の顔にも全く同じような感情が漏れ出ている。
数秒後、詩音は静かに首を振った。それから消え入りそうな声で言った。
「てんこう、する」
今度は山本さんが固まる番だった。
棒で殴られたかのように呆然とした表情で、その場に立ち尽くした。
詩音はもじもじと手元を弄んだ。ごめんね、と呟いた声が、ネリノには聞こえた。
井氷鹿やスクナが引越しを知った日も、山本さんとそう変わらなかった。そのくらい突然の決定だったのだ。
父親の大学時代の同期で、東京で事業を立ち上げた友人がいるらしい。中途採用が決定して、父は詩音の進級を待たずに引っ越すことを決めた。
それを望んだのは他でもない、詩音本人だった。
「海が電車で三十分やねん。ええやろ」
引越しが決まった日、父は数ヶ月ぶりのビールを煽っていた。ナツメやネリノが少しずつくすねていたため、その本数はかなり減っていたが、父は気づいていない様子だ。
「散歩ついでに魚釣りもできるくらいやで」
赤く上気した頬で、ご機嫌に語った。
「砂浜がある海?」
「いや、港」
「なあんだ」
肩をすくめる詩音に、父は他にも新境地の自慢話をたくさん話して聞かせた。
夢の国が近い、日本初上陸の有名店をいち早く体験できる、交差点で芸能人とすれ違うことなんてざらにある。けれども残念ながら、どれもこれも、娘の心には今ひとつ響かなかったらしい。
にも関わらず、父が提案した『六年生になる四月を待って』というもう一つの選択肢を、詩音は自ら蹴った。
『新しいクラスになりたての時が、グループって一番固まりやすい。だからそのちょっと前から、知り合いが一人でも出来てた方が楽な気がする』という、まったく理論的な根拠だった。
父は、娘の選択、そして彼女なりの筋が通った考えに驚きの反応を示していたが、ネリノはそれ以上に、詩音がはじめから友達を作るつもりでいることが意外だった。
ネリノが気づかないうちに、外からは見えない変化が、しかし確かに、彼女の中で起こっていた。
詩音は一度だけ尋ねてきた。
「ネリノも一緒に行く?」
引越しが決定した晩だった。ベッドに寝転がって、ネリノストラップを弄びながら尋ねてきたのだ。それとなく、さりげなく、を、装ったというような口調で、目線を外したまま。
ネリノはちょうど、照明スタンドの曲線を滑り終えて着地したところだった。
お尻が数回弾んで、やっとテーブルに落ち着いた所で、ネリノは詩音をじっと見た。
彼女の声に孕んだ僅かな、本当に僅かな心中を感じ取っていた。それは緊張のような、不安のような、そこに一滴の期待が織り混ざったような、複雑な色合いを醸していた。
返事を待つ詩音がちらりとこちらを見た。ネリノは首を振った。
ついていかない。いけない。ここですることがある。
そっか、とだけ呟いて、詩音はすぐに顔を背けた。けれども背ける直前に一瞬だけ覗いた寂しさを、ネリノは見逃さなかった。
さみしいんだ、シオン。
再び遊び始めたネリノは、しかし滑り台の途中で動きを止めた。
うつ伏せで枕に肘をついた詩音は、すっかり黙り込んで、手元のストラップを眺めている。その物憂げな横顔をこっそり盗み見た。
さみしいんだ、へんなやつ。
ネリノはぴょんと頂上に戻った。
ネリノは嘘をついた。本当ならいつだって、ここを離れることは可能だった。
『ここですること』なんて何も無い。もともと『べき』なんて一だって作るつもりのない性分なのだから。
でも同時に、断るべき理由だって言えなかったネリノは、代わりに嘘をついた。
詩音はこれから新しい自分に産まれ変わろうとしている。いよいよ本格的に、大人の階段を登り始める。
何年もかかる旅になるかもしれない、でも何年先になろうとも、いつか必ず、その日は必ず、確実にやって来る。
ナツメとの別れが訪れたように、ネリノを視られなくなる日が、声が聞こえなくなる日がやって来る。そしてさらに数年が経てば、ネリノとの記憶そのものが消えて失くなる。
けれどもそれを彼女に説明するには、説明した上で理解して、納得してもらうためには、ネリノが持ち合わせた言葉数では、到底間に合いそうも無かった。だから嘘をついた。
嘘をつくのは平気だった。全然、平気だった。
人の世と隣り合わせで生を紡いでいく妖の、然るべき宿命だ。悲しくなんてない。全く平気だ。何千年も前から続いてきた歴史だから。
悲しくなんてない。ちっともない。平気の平左衛門だ。
ネリノは滑り台を繰り返した。相変わらず小さくて毛むくじゃらで真っ黒の体で、すっかり疲れ果てるまで、詩音の隣を飛んだり跳ねたりした。
さみしくなんてない、ちっとも……。




