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京終のネリノ  作者: 小林 綸
第6章
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6-2. 神様の意地悪



 その日はクリスマスだった。

 シオンは階段を昇ったり降りたりして、家中の部屋を覗いて回っていた。


 朝から姿が見えなかった。どこかへ出掛けているのだろうと思い続けるには、あまりに不在が長い。陽は既に沈み始めている。



「ナツメ?」



 風呂場のドアを開けた。これで五回目。

 ネリノは洗濯機を覗きこみ、洗面台の一番下に潜り込んで、納戸の四隅を探ってみた。それから顔を出して、シオンに首を振って見せた。


 やっぱりどこにもいない。一万円札を握りしめたシオンは、困り果てた顔で呟いた。



「どこいったんやろ」



 父から、クリスマスケーキの買い出しを仰せ使っているのだ。そろそろ出ないと売り切れてしまう。一緒に行くと約束していたのに。


 それから家中をもう一周した後、とうとう諦めたシオンは、仕方なく一人でとぼとぼとケーキ屋へ向かった。

 ポケットで揺られるネリノまでも、彼女の沈んだ気持ちが移ったように、しょんぼりと体を丸めていた。


 ガラスウィンドウを開けるのは、いつだって勇気がいる。加えて今日は、いつも側にいる心強い仲間がいない。シオンの緊張は、ネリノには痛いほど伝わってきた。


 体の両脇で拳を握りしめたシオンは、入り口の脇で小さな深呼吸を繰り返した。つられてネリノも、すー、はー、と胸を上下させる。その間に、三組のお客が二人の脇をすり抜けて店に入って行った。


 やがてシオンは意を決した。ドアノブに手をかける。

 カラン、と鈴が鳴ると同時に、いらっしゃいませ、と威勢のいい声が飛んできた。



「あら、シオンちゃん」



 三角巾をつけたおばさんが、ガラスケースの向こうから笑いかけた。



「お使い? 偉いねぇ。お父さん元気してはる?」



 シオンはぎこちなく頷いた。両手をぎゅっと握りしめて、かちこちに固まっている。

 おばさんはケースに身を乗り出して、残ったケーキを指しながら言った。



「好きなん選んでね、もうホールのケーキは売り切れてしまったんやけどな。ごめんね」



 その言葉の通り、父が所望していた、いちごの乗った白いケーキはもう一つも残っていなかった。



「予約もらっといたら取り置きもできたんやけどな。言うとけば良かったね」



 おばさんは一人ではははっと高い笑い声をあげた。

 ネリノはちらりとシオンの顔を見上げた。氷漬けにされたみたいだ。


「もっと近くで見なね」と、おばさんはシオンを手招いた。その間もぺちゃくちゃとおしゃべりは続く。



「おばちゃんシオンちゃんのピアノまた聴きたいわあ。初めて聴いた時、あれどこやったっけ? なんとかホールの? あのおっきいホールでなぁ、もう立派に演奏してて。感動して泣いてしまったもんな。もー、あれは忘れられへんわぁ」



 ネリノはそこでまた気がついた。

 この滑らかな話しぶりと人懐っこい笑顔、シオンのおばあちゃんに似ている。彼女もまた、シオンが苦手とする種類の大人だった。

 おばさんから隠れるように、シオンはガラスケースに身を寄せた。額がくっつきそうな勢いで、売れ残りのケーキたちを見つめる。


 その時不意に、すぐ隣で声がした。



「うちこれがいい」



 すっと伸びた半透明の腕が、左上のプリンを指さしている。


 シオンはぎょっと体を起こし、ネリノもびくっと背を伸ばした。おばさんが怪訝な顔でこちらを見た。



「ナツメ?」



 シオンは小声で尋ねた。しかし、その視線は広くナツメの周囲を彷徨っている。


 ネリノは小首を傾げた。いやに透けてはいるが、彼女はちゃんとすぐ隣に浮いているのだ。



 ナツメは苦笑した。

「やっぱり視えへんか」



 寂しそうな口調に、ネリノはきょとんとしてシオンを見上げた。


 みえへん?



「……どこ?」

「どうしたの、シオンちゃん」



 シオンは慌てて顔を伏せて、より抑えた声で尋ねた。

「……どれ」

「プリン。左上のやつ」



 ナツメの声にネリノも便乗した。


 まんじゅう。



「ばーか、ケーキ屋に饅頭なんかあるかいな」



 ナツメが笑い飛ばした。睨み返したネリノは、そこで改めてしげしげと彼女を眺め直した。

 口の悪さは変わらないが、どうもいつもと違うのだ。いつも以上に幽霊みたいだ。


 今日の彼女は全体的に薄い。霞んでいる。白装束も髪の色も瞳の光も、全ての輪郭が弱々しい。

 着物の白色も、今までのような白ではなくて、ほとんど透明に近くて、朝靄のような白になってしまっている。そのせいで体の向こう側が透けて見えるくらいだ。少し触れれば、このまま煙になって消えてしまいそうですらある。一体どうしたのだろう。



 シオンは小声で注文した。

「プリン、三つ」



「プリン三つね、はいよ……」

 おばさんは頷きかけて、「三つでいいの?」と尋ねた。シオンの目が泳いだ。



「ああそっか、お仏壇にもお供えせなやもんね。ちょっと待ってね」

 一人で納得して背を向ける。その隙に、シオンは再びナツメのいる方を見た。



 けれども、その視線はやっぱり微妙にずれている。

「どこ?」



 ネリノは片方の翼で半透明の浮遊霊を示してみせた。


 みえないか?



 シオンは無言でネリノを見つめた。救いを求めらるような、不安でたまらない表情だ。

 ネリノはナツメと顔を見合わせた。ナツメはただ黙って肩をすくめた。



「はいお待たせ。保冷剤入れてるからね」



 シオンは挨拶もそこそこに店を出た。



「どこ行ってたん」



 周囲に誰もいなくなると、前を向いたまま少し怒った口調で話しかけた。その脇をいつものように浮かびながら、ナツメは答えた。



「ごめんごめん。ちょっと、みとりの窓口に呼ばれてて」

 シオンは立ち止まった。



「お別れの時が来たみたい」

 空中でひらひらと、真新しい切符が揺れた。シオンは目を見開いた。



 ネリノは身を乗り出して、じいっと切符の刻印を見つめた。間違いなく、ちゃんと本物だ。



「とうとう届いちゃった」



 ナツメは明るく言ったが、その声には寂しさが満ち溢れていた。それを誤魔化すように、いつもの調子で毒づいた。



「期限ぎりぎりまで居たかってんけどさ、あかんねんて。なんか法律変わったらしい。腹たつわぁ」



 シオンは呆然とした表情で切符を見つめていた。後ろの車が鳴らしたクラクションで、慌てて歩道に飛び退く。それから半信半疑で呟いた。



「……じゃあ」

 ナツメは頷いた。



「役目が終わったってこと。そんな顔すんなって。クリスマスの成仏やで? おめでたい日やん。向こうでも自慢できるわ」



 冥土では、切符の日付が誕生日になるから。明るく言うと、シオンの手に提げられたプリンを奪い取った。シオンには、不意に見えない力がケーキ箱を攫って行ったように感じられた。



「冷たいうちに食べようや。お父さんも、もう帰ってるかもしらへんで」



 空中をケーキの箱が揺れている。道はすっかり暗くなっていて、おかげですれ違った人には気づかれずに済んだ。

 リードに引かれたダックスフンドだけが、すれ違いざまに怯えた目をナツメに向けた。


 シオンは行き道以上に生気のない足取りである。黙りこくった横顔が訴えていた。

 こんなに急に見えなくなるなんて、こんなに不意にお別れが来るなんて、知らなかった。


 『霊視は長く続くものではない』と神猿からも言われたけれど、あの時は、そんなに近くまで期限が迫っているとは微塵も思っていなかったのだ。せめてもう少し早く知っていたら、心の準備だって出来たのに。神様の意地悪。


 けれどもネリノは、これが神様の気紛れではないと気づいていた。さきほどちらりと見えた引き渡し日の刻印は、一月前の日付だったのだ。


 ナツメは敢えて、最後の最後まで黙っていたのだろう。それが優しさなのか意地なのか、言い出せなかった臆病なのか、彼女の真意までは解らなかったが、シオンには言わないでおいた。

 ナツメが決めたことなら、敢えて告げ口する必要なんてない。



「ほれ、しゃんとせい」



 肩を落として歩くシオンの背中を、ナツメはいつもの調子で一つ叩いた。それから穏やかな口調で言った。



「一足先にお母さんに会いに行くわ。ほんで、バカやろうって一発どついて、それから思いっきり抱きしめとくわ。お前の代わりにさ」




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