1-4. 悪戯と約束
ある夜、いつもより少し早くやってきたシオンの右手には、白いビニール袋がぶら下げられていた。
ネリノはその晩、既にピアノの外へ出て彼女を待っていた。楽譜台に腰掛けて三本脚をぶらつかせていると、正面に座ったシオンがビニール袋から何かを取り出した。
赤いパッケージの、霜で覆われたプラスチックの容器だ。
シオンが蓋をぺりぺりと開ける。じっとこちらを伺うネリノの視線に気づくと、容器を傾けて中を見せてくれた。ネリノは顔を近づけて覗き込んだ。
「アイスの旬は十二月」
シオンが言った。プラスチックの容器に、白い粉をまぶした白い大福餅が二つ並んでいる。
ネリノは目をぱちくりさせた。大福は大好物だ。でもこれ、大福なのか?
「これだけ、二月」
ネリノはシオンを見上げた。滅多に喋らないこの少女から、ごくたまに出てくる言葉はいつも不可思議だ。
買ったばかりのソフトクリームを、店を出た途端に落っことす悪戯は夏が盛りである。つまり観光客の大半は、夏に好んでアイスを食す文化が一般的なのだ。それはネリノだって知っていた。なのに彼女は二月が旬だなんて言う。こんなに寒いのに。
するとシオンはその心を読んでふふんと笑った。
「夏はすぐに溶けるから。ゆっくり食べられへん」
ネリノもふふんと笑い返した。
へんなやつ。
ピンク色の楊枝を大福の一つに突き刺す。一口齧ると、大福の生地は柔らかく伸びた。生地の中はひんやりとしたアイスクリームらしい。
口の周りに白い粉をたくさんつけて、シオンは大福風のアイスを頬張った。
もごもごと口を動かしながら、蓋の裏を眺めている。何やら横文字のメッセージが記されているようだ。
最後まで律儀に目を通している。その横顔を眺めているうちに、ネリノの心には、いつもの悪戯心が芽生えた。
隙をついて、ネリノは残った大福を横取りした。それからあっと言う間もなく、大福を咥えて出口まで逃げ飛んだ……と、ちょうどそこで迎えに来たナツメと鉢合わせてしまった。
「あっ、どうろぼうっ」
嘴の先に挟まれた大福を目敏く見つけ、ナツメは腕を振り上げた。間一髪、その腕をかいくぐって逃げ出すと、ネリノはすいっとベンチに降り立った。
それから嘴をいっぱいに開くと、大急ぎで大福餅を一口に飲み込んだ。これがいけなかった。
嘴に引っ付きかけた餅は、それでもなんとか喉の入り口まで押し込めた。押し込めたが、それ以上は進まずに、見事なまでにぺったりと、喉の入り口を塞いでしまったのだ。
「こらっ、クソカラスめ。返せっ」
ナツメが追いついた時、ネリノは目を白黒させながら、ベンチの周りで転げ回って苦しんでいた。
ナツメはぽかんとした表情でそんなネリノの様子を眺め、やれやれと腕を組んだ。もう大福は取り返せない。
ネリノの意識は苦しくなってきた。た、たすけて……。
涙で滲んだ視界の隅で、シオンが駆け寄ってくるのが見えた。それから体がふんわりと、嗅ぎ慣れた匂いに包まれた。続けて背中にドンドンと振動が走った。
その振動の繰り返しで、喉を塞いだ餅がようやく数センチだけ動いた。
「へんっ、自業自得やんか。そんなんほっときゃええのに」
「死んじゃう」
二人の声が耳に入る。、やがて喉と餅との間に、細い空気の通り道が開いた。
ネリノはやっとの思いで大福を飲み込んだ。ぜー、はー、と荒い息を繰り返すネリノの前に、腕を組んだナツメが立ちはだかる。厳しい口調で言った。
「おい分かったか泥棒。勝手に他人のもん盗むからバチが当たってんで」
するとシオンが口を挟んだのだ。
「半分こしようって言ってん、私が」
ネリノとナツメは驚いて、同時に彼女を見た。
「お前が?」
ナツメが訝しげに尋ねると、シオンはこくりと頷いた。
「ほんまか?」
もう一度、深く頷いた。
ネリノは目をぱちくりさせた。悪戯をしても怒らなかった。それどころか庇ってくるなんて、この人間が初めてだった。
嘴の端に残った粉を、シオンは細い指で拭い取ってくれた。それからネリノの瞳を覗き込んで尋ねる。
「もう大丈夫?」
ナツメがフンと鼻を鳴らし、ネリノはしょんぼりと頭を垂れた。かたじけない。
怒ったような顔のまま、ナツメはシオンの腕を引いた。
「ほら、もう帰るで。いい加減寝やんと、明日起きてられへんやろ」
浮遊霊を追って小走りになりながら、シオンが振り返って手を振った。
「ばいばい」
ネリノは芝生に座り込んだまま、ぼうっとその後ろ姿を見送っていた。
そして不意に、ぴょんっと勢いをつけて高く跳ね上がった。街灯に照らされた影が大きく伸び縮みした。
それからネリノは短く鳴いた。気づいたシオンが立ち止まる。
ぴょんんぴょんっと、ネリノはその場で何度も跳ねた。
おんがえし。いつか、かならず。
シオンは右腕を上げて、左右に大きく振った。一度、二度、三度。
そして踵を返した。
ネリノは独り夜道に佇んで、その姿が交差点の向こうに見えなくなるまで見送り続けた。




