4-2. 黄泉港
灰色の河が広がっている。向こう岸は深い霧の向こうに消えて、ここからは見えなかった。
霧の中には一艘の大型船が停泊していた。白い着物をまとった亡霊たちが列を成し、橋を渡って乗り込んでいく。
食い入るように人影を探っていたナツメが、やがて一点を指さした。
「おった」
指先にシオンの姿があった。河岸に立って、船に向かって手を振っている。
見ると、甲板の白い人混みの中に、おいのがいた。彼女と連れ添うように、隣には坊主頭の亡霊が立っている。
幸せそうな表情を浮かべ、二人はシオンに手を振り返している。どうやら彼女は無事に、冥土から迎えにきた想い人と再会できたようだ。
出発の汽笛が鳴り響いた。船はゆっくりと動き出して、やがて霧の向こうへと消えていった。
おいのを見送ったのち、シオンは河沿いを歩き出した。
歩き続けること数分。ようやく四番埠頭に辿り着いた。
神猿に教わった通り、そこにはバス停の標識が立っていて、古びたベンチに一人の亡霊が座っていた。
近づいてくるシオンに気付き、亡霊は立ち上がった。シオンと瓜二つの白装束である。
「鳴川さんかい? 大きなったねぇ」
高橋のおじいちゃんはにこにこと笑みを浮かべ、あの頃のようにシオンを撫でた。目尻に寄った柔らかな皺に、パトロール隊だった頃と全く変わりない優しさが滲み出ている。
「遠かったやろ、よう来てくれたね」
優しい声で労うと、一通の封書を差し出した。
「約束のものだよ。神猿さんまで届けておくれ」
シオンは両手で慎重に封書を受け取ると、ショルダーバッグの奥底に仕舞い込んだ。
そこで井氷鹿が鏡から目を離した。
「これが黄泉がえりの切符との交換条件だったのか」
「そうじゃ」
神猿は頷いた。
「百香や穂香は元気しとるか? お盆に帰ろう思ってたんやけど、切符を取り逃がしてしまってな……今年は清一の騒ぎで、回数券も使い切ってしまったから」
少しの時間、シオンは言葉を選んだ。
「退院して、いま、お家に」
「そうか。ほな良くなったんか」
おじいちゃんの表情が明るくなった。シオンは躊躇いがちに首を振った。
「治療はやめて、お家にいたいって」
「……そうか」
言外まで悟ったのだろう。肩を落としたおじいちゃんは、悔しさの滲んだ声で呟いた。
「まだまだ若いのに……わしの寿命を分けてやれたら良かった」
それから数分間、思いを噛み締めるように俯いていたが、暫くして我に帰った。
「おっといかん。時間だ」
気づくと、すぐそばに一台のバスが停まっていた。船と同じく灰色一色で、コンクリートの塊のような車体だ。しかし輪郭は煙ったくぼやけている。
「証書は確かに渡した。みんなによろしく言うといてくれ。手紙をくれた神猿さんにも」
おじいちゃんはそう言って、シオンの髪をくしゃくしゃと撫でた。
懐かしい背中が扉の向こうへ消えていった。
バスは音も立てずに動きだした。滑るように坂を越えて、やがてその姿は見えなくなった。
シオンは踵を返した。二つの仕事を終え、残ったのは一番の目的。
道の向こうに見える、白い建物。あの待合室に母がいる。はずだ。
シオンは一つ深呼吸をした。それから約束の場所へと歩き出した。
薄暗い待合室は、出港を待つ亡霊たちでごった返していた。みんな、ここ数日のうちに亡くなった新鮮な魂である。
白装束の群れに混じって、シオンはベンチの一番端に腰掛けた。両手を膝の上に乗せて、体をかちこちにしている。その緊張は鏡越しでも伝わってきた。
ナツメが尋ねた。
「お母さんがここに?」
「幽便局から、シオン殿の名で手紙を送った。今日、黄泉港の待合室で会いたいと。届いていれば、母君はここで待っているはずじゃ」
ナツメはなんともいえない表情になった。先ほどの怒りはもう消えて、今は、シオンの切実な願いに痛む胸を堪えようとしているようだった。
船は次々到着し、大勢の亡霊を降ろしては、大勢の亡霊を乗せて、また出港した。
待合室の亡霊は入れ替わり立ち替わり、次第に数を減らしていった。
井氷鹿が空を見上げた。緊迫した声で言う。
「そろそろ夜が明けるぞ」
東の空が明るみ始めている。対して鏡の向こう、黄泉港の空は相変わらず曇った灰色で、朝と夜の境が見えなかった。
けれどもその頃にはとうとう最後の船が出港して、待合室に残ったのはシオン一人だけになっていた。
見上げた天井に、シオンはため息をついた。
どこかで悟りはじめていた。きっともう、お母さんは来ない。
手紙が届かなかったのだろうか。それとも、届いたけど来なかったのだろうか……。暗い顔で立ち上がった。
その時、前方の壁から、黒い何かがにゅっと抜き出てきた。煙のような霧のような、形のないそれは空中で渦巻き、亡霊の姿になった。
シオンはその場で固まった。ナツメと井氷鹿があっと声を上げた。
「久しぶりだね、鳴川の娘」
亡霊はにやりと笑って、シオンに歩み寄ってきた。
それは佐々木だった。父に取り憑いていた怨霊、スクナが見せてくれた写真の男性そのものである。
彼が出てきた壁にはずらりと、指名手配中の逃亡霊のポスターが貼られていた。そのうちの一枚に佐々木の写真もある。ポスターに潜んでいたのだろう。
「こんな所へ、一体何をしに来た? まさか、あんたから会いに来てくれたのか」
シオンは青ざめた顔で後ずさった。
「妙な薬を盛った詫びか?」
細い眉を吊り上げ、瞳をぎらつかせて、佐々木はじりじりと距離を詰めてくる。彼の体からは、他の亡霊にはない、黒い影のようなものが漂い出ていた。
鋭い視線がシオンのショルダーバッグを探った。
「あんた、黄泉がえりの切符を持っているね」
神猿の顔が険しくなった。佐々木が手を差し伸べた。
「譲ってくれないか」
シオンは後退りながら被りを振った。ナツメが訝しげに呟く。
「あいつ何企んでんねん」
シオンに拒まれた佐々木はパタリと腕を下ろした。それからじっとシオンを見つめ、低い声で言った。
「あんたの母親は自殺したそうじゃないか」
シオンはぴくりと肩を震わせた。相手はざらついた声でせせら笑った。
「あんたの家にいる間に、色々と調べたのさ。真実を教えてやろう。こちらへおいで」
シオンを手招き、薄暗い通路の奥へと進み始める。
シオンが動かないでいると、彼は振り返って尋ねた。
「母親が自ら死んだ理由を、知りたくはないのか」
その言葉に、シオンの目は揺らいだ。
彼女の足が一本踏み出された。ネリノはきいっと声を上げ、同時にナツメが叫んだ。
「あかん! ついていくな!」




