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京終のネリノ  作者: 小林 綸
第1章
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1-3. ひとりぼっちの妖


 この少女とは、その後も何度か顔を合わせることになった。というのも、どう見たってまだ小学生だろうに、彼女、毎晩駅にやって来ては、一人でピアノを演奏することを日課としていたのだ。

 ネリノはこのピアノを寝ぐらにしていたものだから、それというもの毎夜、一番眠りが深まったあたりで覚醒を余儀なくされることになってしまった。

 だのに睡眠を妨害されても、不思議なことに、『怒り』という感情は殆ど生まれなかった。それを遥かに上回る快楽を、彼女が教えてくれたからだろう。シオンのピアノは、それはそれは心地の良い響きだったのだ。

 だからこの場合、起こされるといっても、それは夢の向こうから、柔らかい囁き声で現実に呼び戻されるような感覚に近かった。

 子守唄に包まれた微睡みのなかでうっすらと目を開ける……日によっては嘴の端から涎を垂らして、にやけながら目覚めることもあった……と、いつものようにシオンがピアノの前に座っている。

 感情の読めないぼうっとした表情で、鼻先を赤く染めて、指先だけが滑らかに粒だった旋律を紡いでいる。

 目を覚ますと、ネリノは鉄フレームの上に膝を立てて、その演奏に聴き入った。途中でちゃんと弦を抑える悪戯も忘れなかった。

 音が出なくなると、彼女は可笑しそうにこちらを見る。黒い板ごしに視線を合わせて、にやりと笑い合う。

 シオンとネリノの間で言葉が交わされることは無いに等しかった。言葉に代わるように、草木も眠る丑三つ時、町はずれの無人の駅舎で、こんな妙竹林な交流が繰り返された。

 一時間もすれば、あの髪の長い浮遊霊が迎えにくる。これもお決まりの流れだった。

 シオンは浮遊霊のことを「ナツメ」と呼び、ナツメは彼女のことを「あんた」とか「おまえ」とか呼ぶ。両者は中々に親しい間柄のようだった。

 そんなナツメだが、シオンがネリノと関わりを持つことは快く思っていなかった。妖たちは、顔を合わせれば互いにつんとした態度で視線を逸らした。

 ネリノは今夜、初めてピアノから出た。譜面台に腰掛けて、三本脚を指揮棒みたいにぶらつかせながら、シオンの演奏を間近で眺めた。

 細い指は魔法みたいに鍵盤を踊った。

 真冬も真冬の、さらに真夜中の冷気に包まれた暗闇の中で、こっそり開かれた舞踏会のように、秘密の幸せを打ち明けるように、産まれたての真珠のような音を、夜の隨にころころと散らばした。

 

 ネリノが京終きょうばての駅舎に棲みついたのは、もう何十年も昔のことだ。その頃から真っ黒けの体であることは変わらないが、体は今よりも幾分か小さくて、自販機のお汁粉缶にやすやすと潜り込めるほどだった。そしてその頃にはまだ、家族がいた。

 他の兄弟たちはみな、ハチドリやカワセミやオオルリのように美しい体をしていて、その上綺麗な声まで持っていた。

 そんな中、スズメに似たずんどうで不細工な容姿に、墨をかぶったように真っ黒の体毛、おまけに三本の脚なんていう奇怪な体を持っているのは、一族の中ではネリノだけだった。

 お父さんもおばさんも近所の人たちも町の長老も皆、口を揃えて、やつは全然別の種族だったのが、卵の時に紛れ込んでしまったのだと言った。そしてとうとう最後まで、名前も与えられずに育ったのだ。

 兄弟たちはネリノと一緒にいることを嫌がった。一緒に歩いていれば、決まって周囲から後ろ指を指されるからだ。

 ネリノはいつだってひとりぼっちで遊んでいたし、面倒なことを押し付けられるのも、いつもネリノだった。朝の水浴びも夕餉もお風呂も、『汚れが感染るから』という理由でびりっけつに回された。

 ネリノが一族と大きく違っていた要素はもう一つある。それは言葉を話せないことだった。

 きこえるのに、話せない。相手の言うことは理解できるのに、声を出すことができない。

 けれどもネリノの心の中では、他の兄弟たちと同じくらい、いや、ひょっとすると他の兄弟たちの数十倍も、たくさんのモノで溢れていた。

 それは言葉という形を与えられないまま、はっきりした形を保てずに、煙のようにネリノの心の中で燻り続ける感情たちだった。

 小さな体で、ネリノはそいつらを持て余した。年を重ねるごとに大きく膨らんでいくのに、どこにも出す場所がない。出す相手がいない。

 やがて少しずつ言葉を覚えていっても、相変わらず「声」は出てこなかった。

 だからネリノは、言葉の代わりに別の方法で相手と関わろうと試みた。それが原因で余計にみんなから嫌われてしまった。

 カラス小僧は意地悪でいたずら好きで、嫌がらせが大好きな、出来損ないの妖だ。あいつに関わると碌な目に遭わないぞ。近づかないほうがいい、言葉が通じる相手じゃない……。

 正しい関わり方を知らないネリノは、そうやってみんなから遠ざけられたのだ。

 気づけば周りには誰もいなかった。「ひとりぼっち」という言葉を知る前から、「ひとりぼっち」だけが唯一の友達みたいになっていた。

 一族はもう長いこと……お父さんの話では、駅が造られたのと同じくらい長いこと、屋根の棟木の中で暮らしていた。

 しかし改修工事が決まって、一族は住み慣れた駅からの引越しを決意した。大がかりな移住だった。

 家族会議で、引っ越しの日は次の新月の翌日と決まった。工事開始日の三日前だった。

 しかしその日、ネリノが目を覚ました時にはもう既に、家族の姿はどこにも無かったのだ。

 蛻の殻になった家を出て、ネリノは街中を探し回った。

 祠や民家の軒先でネリノの姿を見かけた他の物怪たちは、気づかれないように身を隠してやり過ごした。

 途方に暮れたネリノは、兄弟を見かけなかったかと彼らに尋ねようとしたのだが、みんな、厄介者には関わりたくないと、いつものごとく無言で背を向けた。

 やがて日が暮れる頃、ネリノはようやく悟った。引っ越し先も、本当の日も、知らなかったのは自分だけだったのだ。自分は家族から置き去りにされたのだ。

 そう気づいて、後を追うのはもう辞めた。ネリノは一人でこの街に残り、踏切のすぐ近くの草藪の中で、おおよそ二年の年月を越した。

 そのうちに工事が終わって、京終駅は新築のピカピカになった。そして元号が変わる頃、一台の黒いアップライトピアノがやってきた。

 

 ネリノがピアノを見たのはそれが生涯で初めてだった。黒くて、四角い、巨大な箱。夜、誰もいなくなった駅で、ネリノはそいつをまじまじと見つめた。

 昼間には大勢の人間が群がって、なにやら機嫌のいい音を奏でていたのを、母屋から遠巻きに眺めていたのだ。

 真夜中のしんと静まり返った駅の中で、今それはただのっぺりと、暗闇に紛れ込んだ気になったみたいに、澄ました様子でそこに佇んでいた。

 ネリノは椅子によじ登った。片方の翼を広げて、黒く光る表面を撫でてみた。硬くてひんやりとしている。

 視線を横に滑らせていくと、真ん中のあたりには鍵穴があった。

 鍵穴に気づいたネリノは、ミルクティーベージュの瞳を光らせた。それから黒い箱の中に目を凝らしてみた。

 中身は細い金色の線でびっしりと埋まっている。それぞれに毛羽だった小さなハンマーがついている。赤いビロードみたいな小河が伸びている。金色の河川敷も視える。

 そして木板を挟んで下の方、ちょうど、黒い箱の足元のあたりに、なんだか住み心地の良さそうな隙間を見つけた。

 ネリノは鍵穴に目を戻した。それからにんまり笑った。


 あたらしいいえ、みっけ。


 その日から、ネリノはこの新居でひとり暮らしを始めたのだった。

 


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