3-5. 姿を消した怨霊
そうっとドアノブを回して、寝室の中を覗き込む。いびき混じりの寝息が入り口まで響いてきた。
「この音嫌いやねんなぁ」
ぼやきつつ、ナツメはキョロキョロと室内を見回した。
「あれ、おらん」
あの重苦しい怨霊の気配が、どこにも感じられない。
一行は、忍び足で父の枕元まで近づいた。
ネリノはシオンの頭の上から身を乗り出して、父の寝顔を覗き込んでみた。ここ数日見たことがないほど安らかだ。
スクナは父の体の上に手を翳し、足先から頭のてっぺんまで調べた。手のひらから青白い光が漏れている。
長いこと心臓のあたりを照らしていたが、やがて呟いた。
「逃げたな」
「どこに?」
ナツメに尋ねられて首を傾げた。
それからみんなで手分けして家中を探してみたが、佐々木の怨霊の姿はどこにも見つからなかった。
気配だけではなく、彼の全身から流れ出ていた負の空気そのものが、家の中から無くなったようだった。今までは、父が帰宅すればそれだけで一気に灰色の気圧がのしかかり、家のどこにいても呼吸が重くなったというのに。
リビングに戻ると、スクナはうーんと大きく伸びをした。
「とりあえず、お父さんの体調は改善していくと思うで。ひとまず安心やね」
「どこに逃げたんでしょうね」
ナツメが椅子を勧めながら尋ねる。
「さあなぁ。目的も分からんしな」
肩をすくめると、スクナはテーブルに置かれていた小瓶を手に取り、中身を覗き込んだ。
井氷鹿がくれた薬はもう、底に僅かに溜まった程度しか残っていなかった。
「上手いこと効いたんやろな」
「薬で逃げたんですか?」
「かもしれへん」
スクナがお土産を広げ始めるなり、ネリノは早速テーブルに飛び乗った。箱の間を縫って、くんくんと中身を嗅いで回る。
スクナが尋ねた。
「お前最近、ここで寝泊まりしてるんか?」
ネリノがこくりと頷くと、「と思って」と、彼は一番小さな箱を開けてみせた。
「お饅頭。中に黒胡麻が入っとるよ」
ネリノは喜び勇んで宙返りを繰り返した。目を細めるスクナの隣で、ナツメはむうっと口を尖らせた。
「あーもう、そんなに甘やかしたら」
お土産と一緒に美味しいコーヒーでも、と、張り切ったナツメが、ほとんど触ったこともないドリッパーを戸棚の奥から引っ張り出した。
それを待たずにお饅頭を半分以上平らげてしまったのはネリノである。果然、ナツメにゲンコツを喰らう羽目になった。
スクナがリビングの隅のアップライトピアノに気づいた。興味を惹かれたように近づく。
「ピアノ弾くんか。すごい数やなぁ」
上に並んだトロフィーの数に感心しながら、納得がいったようにネリノを振り返った。
「なるほど、それでネリノが懐いたわけやな」
「どういうこと? ですか?」
ナツメが尋ねると、スクナはしたり顔で笑った。
「お前、ピアノ好きやもんな。それで追いかけてきたんやろ」
嘴を黒胡麻だらけにしたネリノは、頭をさすりながらふんっとそっぽを向いた。ピアノが好きなんじゃなくて、綺麗な音が好きなのだ。
わかってないなこいつ。
「スクナさん、ギター得意なんでしょ? 姐さんが言ってましたよ」
コーヒーを差し出しながら、ナツメはうきうきした口調で言った。スクナは苦笑混じりに首を振った。
「得意ってほどではないよ。簡単なもんしか弾かれへん」
「聴きたい聴きたい! たしか使ってへんギターあったやんな、お父さんの部屋やったっけ……」
いそいそと取りに出かけた、ところで、階段の上から物音がした。天井を見上げたスクナが立ち上がった。
「そろそろお父さん起きてきはるかな、御暇しますわ」
コーヒーを飲み干すと、傍らでずっと黙ったままのシオンの頭を優しく撫でた。
「もし怨霊が戻ってきたら、すぐに呼んでな」
シオンはこくりと頷いた。
見送りに出ると、東の空はもう明るく染まりはじめていた。朝方から既に熱気を含んだ風が、首元にじっとりと絡みつく。夏の夜は実に短い。
スクナは玄関先に吊るされた身代わり申を指で突いた。三匹の申は振り子みたいにぶらぶらと揺れた。
「当分はこいつも護ってくれるから、そんなに心配しなさんな」
勇気づけるように言うと、肩に座ったネリノを覗き込み、
「ちっこいけど、こんな守り神だっているんやから。な、ネリノ」
と片目をつぶった。
「祟り神の間違いですよ」
ナツメがぼやき、ネリノと睨み合う。
「……あの」
シオンがおずおずと尋ねた。
「なんで『志村さん』にしたんですか」
人間界でのスクナの名前である。するとスクナは照れくさそうに鼻の下を掻いた。
「好きなミュージシャンの名前やよ」
それから、少し寂しそうに付け足した。
「もうこの世には、いはらへん人やけどな」
その言葉に、シオンはじっとスクナを見つめた。
ネリノはそんなシオンを見上げて、彼女の心を見透かした。彼女はこのごろ、「向こうの世界」のことばかり考えているのだ。




