3-3. 酔いどれ
一行がおいのと遭遇した翌日、神猿は身代わり申の手入れにやって来てくれた。そこでナツメは、彼女を成仏させる方法について相談してみたところだった。
最後にふっと埃を吹き飛ばし、神猿は続けた。
「切符が入り用になるのは、冥土へ逝く時のみではない。年に一度、ご先祖様が帰ってくる時期があるじゃろう」
少し考えて、ナツメが答えた。
「お盆?」
神猿は頷いた。
「ご先祖は、切符を使って彼方から此方へ御出でになる。そしてまた、切符を使って此方から彼方へ御帰りになるのじゃ」
「それが冥土通いの切符なんですか」
「その通り。おいのの言った通り、役所から切符が配布られるのは一度のみ、死んだ時だけじゃ。二枚目以降、此方へ帰ってくるための切符……冥土通いの切符は、身代を払って買う必要がある」
「身代って?」
「『価値のあるもの』じゃ。まぁ、こちらの世界でいう『代金』のようなものさね。たとえば」
と、神猿は指をピンと立てた。
「おいのの饅頭笠」
「饅頭笠? あれが代金になるんですか?」
ナツメが目を丸くした。神猿は頷いてみせた。
「あれは生前の彼女を象徴する形見じゃ。本人が望めば、饅頭笠を身代に、冥土行きの片道切符を手に入れることは出来る」
「どこで?」
「『みとりの窓口』じゃ。全国津々浦々、黄泉坂の頂上に設置されておる。ここらで一番近いのは、京終じゃの」
「げっ、めっちゃ近所やん」
ナツメが顔を顰めると、神猿はにやりと笑った。
「その昔、あの辺りは平城京の東の果てであった。それが今の地名の由来ともなっておる。黄泉坂のうちでも、実は相当に古い歴史がある場所なのじゃよ」
首を巡らせて、神猿は天井付近に呼びかけた。
「お前なら知っているね、ネリノ」
ネリノはコウモリのように逆さになって、溝からぶら下がっていた。神猿に問われてぷいっと顔を背ける。シオンが身を乗り出した。
「どうやって行くんですか」
「誰でも辿り着ける場所ではないのじゃ。それなりの霊級でないと難しい。死者の代理となれば尚更の。それに窓口自体、いつでも開いているわけではないからね」
そこで空を見上げた。
「現世への扉が開くのは、月に一度、新月の深夜二時と決まっておる」
神猿に倣って、みんなも夕空を見上げた。綺麗に染まった茜色の中に、月の姿は見あたらなかった。
ネリノはちゃんと数えていた。今日はちょうど、下弦の月の日だ。
*
数日後の午前零時。井氷鹿に呼ばれて、シオンと二体の妖は天神社へと向かっていた。ストラップに揺られながら、ネリノは大欠伸を繰り返している。ナツメが横目を流した。
「お前最近、どこほっつき歩いとるんや」
「昨日の夜中も、起きたらおらんかった」シオンまで咎め口調で言う。
ネリノは知らんふりを貫いた。どんなにちっぽけな妖にだって、秘密の一つや二つ、あるものだ。ネリノはここ数日の間に、二人には内緒でこっそりと準備を進めていたのだ。
ナツメの忠告で、一行はまだ街灯の多い通りを選んで歩いた。左右にはぽつぽつと居酒屋が並び、この辺では珍しく、遅い時間まで灯りがついている。
しばらくすると、前方から笑い混じりの話し声が聞こえてきた。
シオンが顔をあげた先には、スーツ姿の二人組の男性がいた。赤い顔で足元をふらつかせ、互いの肩をぶつけ合いながらこちらに向かってくる。
「うわぁ、出来上がっとる」
ナツメが驚き呆れて呟いた。シオンは肩をこわばらせて、足早に通り過ぎようと顔を伏せた。すると、
「あれぇ、若い子がいる」
まだ距離があるうちに、一人がシオンに気づいてしまった。
「ほんまや。一人やん」
「どうしたの、こんな時間に」
二人は大股で近づいてきた。ぷうんと酒臭さが漂い、ネリノは顔を顰めた。黒髪を短く刈り上げた方が、シオンのすぐ近くにかがみ込んだ。
「わたし一人?」
シオンは顔を引き攣らせて、無言で後ずさった。
「危ないなぁ、悪い人に捕まるで」
「おうちどこかな? お兄さんが送ったげよか」
茶色い髪の相方が、唐突に大きな笑い声をあげた。シオンはびくりと震えた。
「だぁいじょうぶう。そんな警戒せんでも。お兄ちゃんたち、悪い人ちゃうよ」
それからジャケットの胸元に手を突っ込み、四角い何かを取り出した。
「じゃーん。ほら、警察手帳」
誇らしげに突き出した証明書に、金色の紋章が光っている。ナツメは目を丸くして覗き込んだ。
「へぇっ、本物?」
「なっ? お嬢ちゃん、パトカー乗るか? パトカー」
手帳をひらひらさせて、茶髪は道路の方を示した。
「お兄ちゃんすぐ呼べんで。乗ったことないやろ? ドライブしよドライブ」
黒髪の笑い声が重なり、通りに騒々しく響き渡った。
「……ほんまに警官か? こいつら」
ナツメが疑わしげに呟いた。まだ笑いを残したまま、黒髪がシオンに腕を伸ばした。
「兄ちゃんたち、夜遊びしてる子供を取り締まるのも仕事やねん。な、ほな行こか」
シオンは身を躱して、二人の端をすり抜けようとした。すると茶髪がすぐさま行手を阻んだ。シオンの体がすくんだ。全身で恐怖を訴えている。
その動悸が伝わってきた時、ネリノはストラップを飛び出した。
翼を広げ、まず茶髪に飛び掛かる。三本の脚を開いて頭を思い切り突つき回した。
続けて黒髪。二人は声を上げ、両腕で庇いながら飛び退いた。
「やめろっ、なんやこのカラス」
「カラスか? おいまじかよ」
はじめにネリノから逃れた茶髪が相方の頭上を見上げた。その顔がさっと青ざめた。
見ろ、と上擦った声でネリノを指差す。
「さ、三本脚や」
しまった、とネリノは空中で動きを止めた。その隙に振り返った黒髪が、ネリノを上から下まで眺め回した。
その視線が三本の脚を捉えた時、瞳は茶髪と同じように見開かれた。
「三本……」
「はよ戻れ!」
ナツメが焦った声で叫んだ。シオンがネリノを掴み、ストラップに押し込んだ。ネリノはむぎゅうと潰れた声を出した。二人の警官はまだ驚きで立ち尽くしている。
「今や、逃げるぞ」
ナツメの声で、シオンは弾かれたように走り出した。
しばらくして後方を振り返ったナツメが、ぎょっとして声を上げた。
「わっ、追いかけてくる」
激しく揺れるストラップから、ネリノはなんとか顔を抜き出した。ナツメの言う通り、二人はまだ後ろを走って追ってくる。しつこい奴らだ。
息を切らしながら、シオンは必死で走った。入り組んだ住宅街を、右へ左へと闇雲に折れ曲がる。道はだんだんに狭まっていき、次の角を曲がったところでとうとう袋小路にぶつかった。
そこで背後からポンと肩を叩かれた。
「ごめん、お待たせ」
シオンは飛び上がった。