表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
京終のネリノ  作者: 小林 綸
第3章
21/51

3-2. 猿沢池の浮遊霊



 それから数日後。

 夕立が蒸し暑さを和らげてくれた日を狙って、シオンは久々に、夜中の散歩に出かけた。珍しいことにナツメもついてきた。


 高台に聳える五重塔は、大きなシルエットとなって闇に浮いている。猿沢池のぐるりを、ネリノはベンチからベンチへと飛び跳ねていた。


 不意に前方のナツメが両腕を広げた。



「しっ、誰かいる」



 指さした池の辺りには、白い人影がぼうっと浮かび上がっていた。幽霊だ。


 小花柄の白い着物を着て、黒い髪を後ろで緩く束ねている。

 思い詰めた横顔は、じっと池を覗き込んでいた。

 ナツメは背後からゆっくり近づいていった。シオンとネリノもあとから続いた。



「こんばんわぁ」



 彼女はびくりと振り返った。

「こっ、こんばんわ」



「もしかして……」

 ナツメは女性の顔をしげしげと眺め、尋ねた。



「おいのさん、ですか?」



 彼女の目は大きく見開かれた。口元を袖で覆って、

「どうしておらの名前を……」



「あなた、穂香さんの夢に出たんでしょう」



 ナツメの問いに、おいのはびくりと身を震わせた。目を泳がせながら、どうして、と繰り返す。



「知り合いやから。それと、前々から噂は立ってますよ。猿沢池にたまに出るって」

「あぁ……」



 おいのは肩を落とした。それから深々と頭を下げた。

「……すんません。迷惑かけるつもりはないんです、ただ。()()()がおるんやないかと、期待してしもて」



「あの人って、興福寺のお坊さんですか?」

「知ってはるんですかっ」



 その勢いにナツメはたじろいだ。彼女は胸ぐらを掴む勢いで詰め寄った。

「あの人がどこにいるか、知ってはるんですかっ?」



 おいのの腕をとどめながら、ナツメはかぶりを振った。

「し、知りません」



 するとおいのは動きを止めた。ナツメに縋った腕は力なく下がり、がっくりと項垂れた。

「……やっぱり、もう向こうの世界に行ってしまわれたんやろか」



 両手で顔を覆い、すすり泣きを始める。

「おらのせいで……あぁ」



 ナツメはなんとか彼女を宥め、ベンチに座らせた。



 少しして落ち着きを取り戻したおいのは、やがて、ぽつりぽつりと身の上話を語って聞かせた。


 ここから二つ三つ山を隔てた村の産まれである自分は、ある時、村を訪れた若い僧侶に恋をした。

 しかし僧侶は、修行中の自分においのの想いを叶えることはできないと、おいのの前から去ってしまった。苦しみに耐えきれなかったおいのは、とうとう、池に身を投じてしまった。



「昔から、村の池は、この猿沢池に繋がっていると言い伝えられておりました」



 興福寺のほとりの、この池に。

 それを証明するかのように、のちに、おいのの遺品である饅頭笠は、猿沢池に浮いているところを見つかったのだという。



「最後まで、少しだけでもあの人の近くにいられたらと……。けれどそれは、叶ってはいけない願いでした」



 霊になったおいのの耳に、僧侶の噂が届いた。饅頭笠が見つかった猿沢の池へ、彼もまた……。

 隣で耳を傾けていたナツメは、感動のあまりシオンと顔を見合わせた。



「やっぱり、ほんまに昔話の人なんや」



 膝のあたりをさすりながら、おいのは頼りなく微笑んだ。

「あの人に会いとうて、会いとうて。謝りたくて。長いこと向こうにも帰らず、ここらを彷徨っておりました故、もうどうしようもない身になってしもたんです」



「地縛霊ですか」

「そう呼ばれるんですかな」



「ほんならうちと一緒ですね」

 ナツメの言葉に、おいのは驚いたように相手を見つめた。



「あんたも?」

「はい」

 ナツメは胸を張った。



「うちは、自分から望んでなったんですけどね」

「まぁ、どうして……」

 おいのの揺れた瞳が一瞬、シオンに向いた。



「守りたい人がいたんです」

 ナツメはそう答えた。



 ずっと黙っていたシオンが口を開いた。

「おいのさん、天国に行けないんですか」



「おらは……」

 おいのは少し考えた。



「己の命を粗末にしちまったから、きっと地獄へ堕ちるでしょう」

「お坊さんも?」



「……わかりません。でももし、あの人が裁かれるようなことがあれば、おらが閻魔様に訳を話すつもりです。あの人はなんにも悪くないんですから」



「でも二人なら、地獄でも辛くないかも」

 ナツメの言葉に、おいのはしばらく黙っていたが、やがて首を振った。



 再びシオンが尋ねた。

「命を粗末にしたら、天国には行けないんですか?」  



「おらはそう教わりました」

「本当に?」

 念を押されたおいのは目を瞬いた。ネリノはそっとシオンを盗み見た。



「おいのさん、成仏したい?」

 ナツメに尋ねられると、おいのは空を見上げてため息をついた。



「そりゃあ、出来ることなら。もうこれ以上、現世を彷徨うのは辞めにしたいんです。切符さえ手に入れば」



「切符?」

 シオンが聞き返した。



「冥土へ逝くための切符です。おらもあの時、お役人さんから頂いたのですが」

 と、懐から古びれた紙切れを取り出した。黄ばんで破れかけて、黒い文字が滲んでいる。



 ただのゴミにしか見えないそれを大切そうに握りしめて、おいのはため息をついた。

「言いつけられた期限を破って、こちらに留まってしまいまして。それでもう切符は使えなくなっちまったんです。あんたもそうと違います?」



 訊かれたナツメはこくりと頷いた。

「どうにかして、新しい切符が手に入ったらいいんですが」



 おいのの呟きに、ナツメは腕を組んだ。眉根を寄せて、うーんと空を見上げた。



 

「冥土通いの切符じゃ」

「めいど、がよい?」



 軒下にぶら下がった三匹の申を、神猿は皺だらけの指で撫でた。大、中、小の順に、一体ずつ手を翳して、ぶつぶつと呪文を唱えていく。



「これでよし。年数の割に随分草臥れとるの」





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ