3-2. 猿沢池の浮遊霊
それから数日後。
夕立が蒸し暑さを和らげてくれた日を狙って、シオンは久々に、夜中の散歩に出かけた。珍しいことにナツメもついてきた。
高台に聳える五重塔は、大きなシルエットとなって闇に浮いている。猿沢池のぐるりを、ネリノはベンチからベンチへと飛び跳ねていた。
不意に前方のナツメが両腕を広げた。
「しっ、誰かいる」
指さした池の辺りには、白い人影がぼうっと浮かび上がっていた。幽霊だ。
小花柄の白い着物を着て、黒い髪を後ろで緩く束ねている。
思い詰めた横顔は、じっと池を覗き込んでいた。
ナツメは背後からゆっくり近づいていった。シオンとネリノもあとから続いた。
「こんばんわぁ」
彼女はびくりと振り返った。
「こっ、こんばんわ」
「もしかして……」
ナツメは女性の顔をしげしげと眺め、尋ねた。
「おいのさん、ですか?」
彼女の目は大きく見開かれた。口元を袖で覆って、
「どうしておらの名前を……」
「あなた、穂香さんの夢に出たんでしょう」
ナツメの問いに、おいのはびくりと身を震わせた。目を泳がせながら、どうして、と繰り返す。
「知り合いやから。それと、前々から噂は立ってますよ。猿沢池にたまに出るって」
「あぁ……」
おいのは肩を落とした。それから深々と頭を下げた。
「……すんません。迷惑かけるつもりはないんです、ただ。あの人がおるんやないかと、期待してしもて」
「あの人って、興福寺のお坊さんですか?」
「知ってはるんですかっ」
その勢いにナツメはたじろいだ。彼女は胸ぐらを掴む勢いで詰め寄った。
「あの人がどこにいるか、知ってはるんですかっ?」
おいのの腕をとどめながら、ナツメはかぶりを振った。
「し、知りません」
するとおいのは動きを止めた。ナツメに縋った腕は力なく下がり、がっくりと項垂れた。
「……やっぱり、もう向こうの世界に行ってしまわれたんやろか」
両手で顔を覆い、すすり泣きを始める。
「おらのせいで……あぁ」
ナツメはなんとか彼女を宥め、ベンチに座らせた。
少しして落ち着きを取り戻したおいのは、やがて、ぽつりぽつりと身の上話を語って聞かせた。
ここから二つ三つ山を隔てた村の産まれである自分は、ある時、村を訪れた若い僧侶に恋をした。
しかし僧侶は、修行中の自分においのの想いを叶えることはできないと、おいのの前から去ってしまった。苦しみに耐えきれなかったおいのは、とうとう、池に身を投じてしまった。
「昔から、村の池は、この猿沢池に繋がっていると言い伝えられておりました」
興福寺のほとりの、この池に。
それを証明するかのように、のちに、おいのの遺品である饅頭笠は、猿沢池に浮いているところを見つかったのだという。
「最後まで、少しだけでもあの人の近くにいられたらと……。けれどそれは、叶ってはいけない願いでした」
霊になったおいのの耳に、僧侶の噂が届いた。饅頭笠が見つかった猿沢の池へ、彼もまた……。
隣で耳を傾けていたナツメは、感動のあまりシオンと顔を見合わせた。
「やっぱり、ほんまに昔話の人なんや」
膝のあたりをさすりながら、おいのは頼りなく微笑んだ。
「あの人に会いとうて、会いとうて。謝りたくて。長いこと向こうにも帰らず、ここらを彷徨っておりました故、もうどうしようもない身になってしもたんです」
「地縛霊ですか」
「そう呼ばれるんですかな」
「ほんならうちと一緒ですね」
ナツメの言葉に、おいのは驚いたように相手を見つめた。
「あんたも?」
「はい」
ナツメは胸を張った。
「うちは、自分から望んでなったんですけどね」
「まぁ、どうして……」
おいのの揺れた瞳が一瞬、シオンに向いた。
「守りたい人がいたんです」
ナツメはそう答えた。
ずっと黙っていたシオンが口を開いた。
「おいのさん、天国に行けないんですか」
「おらは……」
おいのは少し考えた。
「己の命を粗末にしちまったから、きっと地獄へ堕ちるでしょう」
「お坊さんも?」
「……わかりません。でももし、あの人が裁かれるようなことがあれば、おらが閻魔様に訳を話すつもりです。あの人はなんにも悪くないんですから」
「でも二人なら、地獄でも辛くないかも」
ナツメの言葉に、おいのはしばらく黙っていたが、やがて首を振った。
再びシオンが尋ねた。
「命を粗末にしたら、天国には行けないんですか?」
「おらはそう教わりました」
「本当に?」
念を押されたおいのは目を瞬いた。ネリノはそっとシオンを盗み見た。
「おいのさん、成仏したい?」
ナツメに尋ねられると、おいのは空を見上げてため息をついた。
「そりゃあ、出来ることなら。もうこれ以上、現世を彷徨うのは辞めにしたいんです。切符さえ手に入れば」
「切符?」
シオンが聞き返した。
「冥土へ逝くための切符です。おらもあの時、お役人さんから頂いたのですが」
と、懐から古びれた紙切れを取り出した。黄ばんで破れかけて、黒い文字が滲んでいる。
ただのゴミにしか見えないそれを大切そうに握りしめて、おいのはため息をついた。
「言いつけられた期限を破って、こちらに留まってしまいまして。それでもう切符は使えなくなっちまったんです。あんたもそうと違います?」
訊かれたナツメはこくりと頷いた。
「どうにかして、新しい切符が手に入ったらいいんですが」
おいのの呟きに、ナツメは腕を組んだ。眉根を寄せて、うーんと空を見上げた。
「冥土通いの切符じゃ」
「めいど、がよい?」
軒下にぶら下がった三匹の申を、神猿は皺だらけの指で撫でた。大、中、小の順に、一体ずつ手を翳して、ぶつぶつと呪文を唱えていく。
「これでよし。年数の割に随分草臥れとるの」




