3-1. 水霊の太占
今年もまた、年に一度の逢瀬が巡ってきた。地球と太陽が、その距離を最も縮める季節。夏。
鹿たちは涼を取ろうと側溝へ避難した。外気温と湿度がピークを迎えた盆地では、夜中になってもアスファルトの火照りは冷め切らず、道行く人を余熱で包む。
こうも熱帯夜が続いては、駅までピアノを弾きに行く気力が失せてしまったって無理はない。
シオンは夏休みに入った。ちょうどその頃、世間ではあるニュースが注目を集めていた。
若くしてその才能を認められ、一世を風靡した有名作家の急死である。数ヶ月前から、アニメ制作会社とのトラブルが報じられており、その矢先の訃報だった。
連絡がつかないのでマネージャーが家を訪ねると、自室で首を吊っている姿が発見された……この速報は、夏も盛りの島国に大きな波紋を広げた。
ラジオ体操で集まった五、六年生たちも、この話題で持ちきりだった。
というのも、原作のモデルとなった歩道橋が校区のはずれにあったのだ。
彼の作品のヒットがきっかけで、「聖地巡礼」として多くのファンが訪れ、無名だった近所は一躍有名スポットとなっていた。
さらに、問題となっていたアニメは若い世代が視聴層のメインを占めていたから、この訃報は彼らにとっても極めて身近な問題となったのだ。
彼の死後、橋のたもとはファンが献げた花で溢れかえった。同級生の何人かも、実際に供えに行ったらしい。
同時にオンラインでは、某アニメの関係者に対する誹謗中傷が加熱していた。
シオンの父はこの事件の取材班だった。珍しくシオンと揃って夕飯を食べている最中に(例によってコンビニ弁当だった)、興奮気味に語って聞かせた。それで普段はニュースを見ないシオンも、事件の詳細を知ることになったのだ。
「家にもあの人の本、何冊かあるよ。シオン読んでみな」
シオンは複雑な心中で、そう気軽には頷けない。
「やっぱり、間に挟まれる人間が多くなればなるほど、原作者の声っちゅうのは薄れてしまうもんやねん」
冷め切ったアジフライを頬張りながら、父は身を乗り出す。
「これ読書感想文に使ったらええわ」
「無神経やな」
ナツメが呆れて呟いた。
父の抑うつ症状は、このところ薬で順調に抑えられていた。あの頃リビングに溢れ返っていた緑色の腐れた空気は、忍耐強い祖母の介入もあって、今ではずいぶんと薄れていた。
しかし、そんな父に新たな異変が起こった。
二日後、帰宅するなり、父はふらつく足取りでソファーに倒れ込んだのだ。
「お父さん大丈夫?」
「悪い……水くれ」
土気色の顔で、父は弱々しい声を出した。単なる脱水症状ではないことは、その場にいた全員の目に明らかだった。その背中に得体の知れない異形を背負っていたからだ。
黒々と闇色のとぐろを巻く、形のない妖だった。
シオンはキッチンを何往復もして水や氷枕を運び、ぐったりしている父の介抱につとめた。その間にも、父の背中からは霧のような闇が溢れ出し、部屋の空気を汚していく。
ナツメはありとあらゆる窓を開け放した。怯んだネリノは壁際まで離れ、おっかなびっくり、闇の使者のようなそれを眺めていた。
ナツメは天井付近に浮かび上がると、腕組みして異形を睨み続けていた。やがて言った。
「こいつ怨霊や。姐さんに相談しよう」
父が眠りに落ちるなり、一行は急いで家を飛び出した。
ナツメが姐さんと呼ぶ水霊は、その名を井氷鹿という。清らな水流を住まいとし、大和の地において、古来より太占を生業としてきた種族だ。
名前だけしか知らなかったネリノは、この日、初めて彼女と対面することになった。
川の辺りには、背の高い芦に隠れるように、古びた石の祠があった。
そこに置かれていた一枚の榊を水面に浮かべ、ナツメは呼びかけた。
水面から姿を現したのは、銀色の髪とふさふさの白いしっぽを持つ、すらりと背の高い半獣だった。全身からは髪の色と同じ、淡い光が放たれている。
透き通るような着物の皺を伸ばして、井氷鹿はナツメたちを見据えた。
「久しいな。見ないうちにまた大きくなって」
細い腕を伸ばしてシオンの頭を撫でた。それから井氷鹿は、ストラップから顔を覗かせている真っ黒い妖に気がついた。
「おや、これは京終の」
「ネリノです」
シオンがストラップを持ち上げた。金色の瞳がすっと近づき、ネリノを覗き込んだ。
「ネリノか。素敵な名だ」
ネリノは瞬きを繰り返して、ほんのりと頬を赤らめた。長い睫毛の下で、水霊の瞳は凛と輝いている。
ナツメが井氷鹿の着物を引っ張った。
「緊急事態なんです。父さんがおっかない怨霊持って帰ってきて」
身振り手振りを交えて、あの黒々とした、濃霧のような煙のような見た目を説明した。
「お父さん今、あの作家さんの事件の取材してるみたいで。祟られたんやろか」
「あの作家さん、というのは」
井氷鹿はピンと来ない様子だ。ナツメはニュースのことをかいつまんで伝えた。
「それなら、スクナに情報収集を頼んでみるか」
ナツメが手を叩いて喜び、シオンはきょとんとした。
「スクナさんって、会ったこと無かったか? あの天神社に住んではるねんで。お前が好きな天神社」
「……神様?」
「の、末裔、といった所かな」
井氷鹿が補足する。
「普段はテレビ局でアルバイトをしているんだ。大々的なニュースなら、おそらく事情に詳しい人間が近くにいるだろう。それに」
わけ知り顔で微笑んだ。
「スクナはシオンに貸しがあるからね」
ナツメが興奮気味に付け加える。
「人間界では『志村さん』って名前やねん。めっちゃイケメン。お前も好きなタイプやと思う」
「面食いだなぁお前は」
「そんなこと言ったら姐さんだって」
苦笑する井氷鹿に言い返すと、ナツメは嬉々としてシオンに耳打ちした。
「スクナさんはな、姐さんの『いい人』。いい人ってつまり、かれぴ」
きゃはっと高い声を上げると、両手で口を覆った。亡霊にも思春期という時期は存在するのかもしれない。
「馬鹿な子だよ」
井氷鹿は肩をすくめた。
焚き火に翳した手が、素早く宙を切った。パチパチと爆ぜる火の粉が水面に落ち、短い生涯を静かに終えていく。
井氷鹿の熾した火は、睡蓮の如く水面に浮いていた。
木々の間からは丸い波が絶え間なく生じ、等間隔の輪を広げていく。それはある一定の場所で再び折り返し、炎へ向かって還っていった。
その中央で、炎は赤子の魂のように輝き、水面を赤く照らし出している。
火と水、本来は対極に存在する物質が混ざり合い、一対となって共存している。摩訶不思議な光景だ。
「鹿占の術やで」
魅せられたように見つめているシオンに、ナツメが隣から囁いた。
井氷鹿はさっきから右手を火に翳し、左手で宙に何かを描きながら、ぶつぶつと呪いを唱えている。
不意に、その右手を燃え盛る火の中に突っ込んだ。炭と化した樹皮を取り出す。
ネリノは思わず目を瞑った。観ているだけで火傷しそうだ。
指先で複雑な紋章を描きつつ、井氷鹿は炭を振るった。そして祠の上に据えられた平たい白骨に、炭の先を押し付けた。
じゅうっと細い煙が上がり、骨の表面に亀裂が入った。徐々に広がった罅は途中で不自然に折れ曲がり、白い骨の上にいくつかの渦巻きを描いた。
紋様のようにも、神代文字のようにも見える。
読み解いた井氷鹿が、
「亡くなったのはごく最近だ。生前は物書きだったようだ」
と呟いた。その言葉で一同に緊張が走った。疑惑が確信に変わる。
「じゃあやっぱり……」
「ついでにスクナも呼び出そうか」
と言うと、井氷鹿は再び川面に向き直った。まだ灯りを宿していた炎に炭を放り込むと、手を翳して新しい呪文を唱えた。
炎は勢いよく嵩を増した。そのてっぺんから、ひらりと白い紙切れが舞い上がった。
井氷鹿の指の動きに合わせて、持ち上げられるように宙へ浮かんでいく。目を凝らしてみると、それは人を模ったような形をしていた。炎の中ではためき、白く照り返す。
ふいに人型がまばゆい光を放った。みんなが目を瞑った一瞬で、紙切れはひらひらと螺旋を描いて空へ昇ったかと思うと、突如ぽわんっと白い煙を吐き出した。
煙が薄れたそこには、
「……一寸、法師」
シオンが呟いた。
「どうしたん? 今からコンビニ行こう思っててんやけど」
人形の紙は小さな小さな男性に変わっていた。
空中に胡座をかいた一寸法師……スクナは、むっつりとした口調で白い着物の裾をはたいた。それから両腕を組み、口を尖らせて井氷鹿を見やる。
「悪いなスクナ。どうせ暇しているだろうと思ったから」
「今日は忙しいねんなぁ」
そうぼやいた視線が横に流れ、ナツメたちに気づいた。すると、その表情は一変して和やかな笑顔になった。
「おっ、ナツメやんか。久しいなぁ」
「お久しぶりです!」
ナツメが張り切った声を出した。
「元気してたか?」
「ばりばり元気です!」
普段より三オクターブほど高い声音だ。目が完全にとろけている。ネリノは蔑みたっぷりの横目で浮遊霊を睨んだ。
「カラス小僧もおったんか」
ネリノに気づいて、スクナの眉は顰められた。これまで散々悪戯を繰り返されてきた苦い過去があるのだ。ネリノはべーっと舌を突き返した。
「ネリノという名を授かったらしい。名付け親のお嬢さんがお困りでね」
「シオンです」
ナツメに紹介され、シオンはぺこりと頭を下げた。
「鳴川さんとこのお嬢さんか」
スクナは懐かしそうに目を細めた。
「いつかありがとう言おうと思ってたんよ」
その言葉に、シオンは目をぱちくりさせた。
「去年やったかなぁ。君と友達が助けてくれたスズメ、実はうちの連れやってん」
まだピンときていないシオンに、井氷鹿とナツメが代わるがわる説明した。
「神社の脇の公園。憶えているか?」
「白い雀、おったやろ? 三枝さんと二人で保護してた。あいつがスクナさんの使い魔」
シオンはあっと手を打った。ネリノだけ置いてけぼりだ。
「そう。やからいつか恩返しさせてね」
「ちょうどその時機のようだ。実は」
井氷鹿はてきぱきと、シオンの父親に憑いた怨霊の件を伝えた。顎を撫でながら聞いていたスクナは、神妙な顔で頷いた。
「うちの局でも話題になってるわ。どこまで聞き出せるか分からんけど……なんせ、直接関わりがあった部署ですら、ほんまのことは上部で隠されてるからな」
「頼まれてくれるな」
「恩返しやから……」
と言いつつ、スクナはちらりと右上を見上げた。
「おっとあぶない、もうすぐリハ始まるねん」
慌てたように立ち上がる。すると井氷鹿が身を乗り出した。
「コンビニへ寄るのなら、ついでに『カラアゲクン』も買っておいてくれないか。増量中のはずなんだ」
「もう暇ないねん。また今度な」
スクナはひらひらと手を振った。
「情報が入り次第、連絡するわ。ほなまた」
「ほなまたー」
ナツメが手を振り返す。その間に、スクナの姿はひゅるひゅるっと風を切って回転し、炎の中に消えた。
焚き火は何事もなかったように静まり、再びぱちぱちと音を立てた。
その炎に残影を眺めながら、シオンが感慨深げに呟いた。
「テレビ局」
「あいつも変わり者だからな。好きなバンドの追っかけをしているうちに、近しい業界に進む流れになったらしい」
レジ横のホットスナックが好きな美しい水霊は、呆れたように肩を竦めた。
焚き火の残りに土鍋を据えて、井氷鹿は手早く薬草を煮詰めた。出来上がった薬を透明の瓶に詰め込み、ナツメに手渡した。
「除霊ができるまでは、この薬で様子を見るといい。飲み水に二滴ほど垂らしてな」
「お酒に混ぜちゃダメ?」
ナツメが尋ねると、井氷鹿は顎を撫でながら言った。
「勧めないな。人によっては心臓が灼ける」




