1-2. 若草山が燃える日
はじめの出会いは一月末。燃える若草山の上空に花火が上がった日のことだった。
毎年恒例の山焼き行事を、毎年恒例の特等席に陣取って、ネリノは優美に観覧していた。山焼きよりも、正直言うと、その前に打ち上がる花火がお目当てだった。
麓の草原に聳える大楠。頂上付近の梢にちょこんと座って山上を見上げると、花火が打ち上がる空は本当にすぐそばだ。中々に圧巻な様である。
心臓に轟く低音とともに、夜空に繰り返し咲いては散る、色とりどりの花たち。
視界を遮るものは何もなく、周囲に人ごみもない。余計な音もない。自分しか知り得ない、独りで満喫するにはうってつけの絶景ポイント。
ネリノは長年、その特等席をとびっきりの秘密の場所だと自負していたから、不意に話し声が聞こえてきた時には、思わず数センチ飛び上がった。
「そら、ここ、ここ。踏み外すなや」
女の子の声だが、声音が人間らしくなかった。近くの枝がさわさわと揺れ、葉っぱの間からにゅっと顔を突き出して、
「あっ、カラス小僧」
と叫んだのは、近所の民家に取り憑いている浮遊霊だった。妖達の間では『鳴川の浮遊霊』と呼ばれている。
打ち上がった花火に照らされて、浮遊霊の姿が枝葉の間に照らされた。
人間で言うところの、年長さんから小学生あたり。肩甲骨の下まで伸びた黒髪、白い死装束姿の彼女は、いつものようににんまりと、意地の悪い笑顔を浮かべた。
「なぁんや、お前もおったん」
アクセントの強い方言は見た目と裏腹に大人びている。口調も言葉もきつい奴だから、余計に刺々しく聞こえるのだ。
『カラス小僧』という、どうしても好きになれない呼び方を続けるこの浮遊霊が、ネリノは嫌いだった。口が悪い上に、顔を合わせれば決まって小馬鹿にしたような態度を見せてくる。
ネリノは丸っこい嘴の先からべーっと舌を出した。浮遊霊もべーっとやり返した。
その時、彼女の手が後ろの誰かと繋がれていることに気づいた。
ネリノは舌をしまうと、猜疑心たっぷりに目を細めて浮遊霊の背中を窺った。そしてその目を見張った。ニンゲンじゃないか!
浮遊霊の背中に隠れるように、こっそり目だけ覗かせた人間がいた。眉毛の上で切り揃えられたぱっつん前髪が浮遊霊とお揃いの、もう少し歳上の女の子だった。こちらの黒髪は肩まで届かない。
誰何し合う沈黙が数秒続いたあと、その人間は口をきゅっと結んで、ネリノから顔を背けた。色白の横顔は、どこか雪のような冷たさを孕んでいた。
「揺れるから気いつけや。この枝なら座れるんちゃうか」
浮遊霊はすぐにネリノへの興味を失くし、人間の手を引いて太めの枝に誘導した。ネリノは目を真ん丸に見開いて二人の様子を眺めた。
少女は頼りない足取りで枝を渡る。細い足が今にも幹の上をつるっと滑ってしまいそうで、見ているそばから冷や冷やしてくるくらいだ。
霊と違って人間のほうには実体の質量というものがあるから、こんな場所で花火を鑑賞するのはさほど容易ではないのだ。
そうでなくとも木のてっぺんはまだ、か細く幼い梢が多い。よくここまでつれてきたなぁと、ネリノは呆れ半分、感心半分で鳴川の浮遊霊を眺め回した。
時々上空を攫う風が、徒に枝をしならせた。やっと枝に腰を落ち着かせた少女は、それでもまだまだ不安げな表情だ。
枝が揺らされるたびに体を強張らせて、太ももの両脇の枝を掴む。隣に腰掛けた浮遊霊が、背中に手を添えて支えてやる。
遠目から見ていると、並んだ二人の姿は姉妹みたいだった。短い髪の方が頼りないお姉ちゃんで、長い髪の浮遊霊がしっかり者の妹。長い方の、足首から下は透けているのだが。
花火はまだ続いていたのに、二人に気を取られたせいで、ネリノはその大半を見逃してしまった。
ようやく空に視線を戻した時には、最後の大玉が打ち上がって、足元遠くの地上から拍手が起こっている所だった。そして下方の若草山には、すでに火が燃え広がっていた。
煌々と連なった橙の灯火が、闇夜になだらかな山の輪郭を浮かび上がらせている。
「綺麗やったやろ? 来年もここで見よっか」
浮遊霊が少女に語りかけている。ネリノは憤慨して鼻を膨らませた。冗談じゃない、ここは自分だけの秘密の特等席なのだ。
抗議を示そうと、ネリノは三本脚で枝の上に立ち上がった 枝を思いっきり揺さぶって、二人を落っことしてやろうという魂胆だった。
しかし寸前で思いとどまった。自分にも得体の知れない何かが、その身を思いとどまらせた。
躊躇ったそのほんの一瞬、心にちらついたのは、少女の儚げな横顔だった。雪のように白くて冷たい横顔。
そうこうしているうちに、浮遊霊は少女の手を引いて木を降りていってしまった。
ネリノは身を乗り出して、枝葉の隙間から二人の後を追った。歩道に列を成す人混みに紛れて、浮遊霊と少女の姿はどこにも見えなくなっていた。
しばらく雑踏を眺めたあと、ネリノは再び静かになった梢に腰を下ろした。それから山を見上げた。
嫋やかに燃え続ける山裾、空に広がる闇とのコントラストが美しい。
橙色の景色に浸りながらも、頭の中にはぼんやりと、あの少女の残像が浮かんでいた。




