2-9. 仔鹿の因果
厚意は時として仇となる。道徳の時間、先生は自作の教材を配布した。
「今日は、『場面緘黙症』という病気について、みんなに学んでもらいたいと思います」
先生の目の下には濃い濃い隈が出来ていた。ゆうべ徹夜したんだろうと、誰もが容易に察し得た。
「ちょっと難しい漢字だけど、簡単に言えば、特定の場所や環境、条件で、うまく言葉が出てこない病気のことです。たとえば……」
先生の話が進む中、ひそかなざわめきが教室を駆け巡った。山本さんを筆頭に、曰くありげな目配せが飛び交う。
ネリノはそっと机の上を伺った。
シオンの両肩は強張っていた。いつも以上に唇をきつく結んで、机の一点を見つめている。
その後、先生が職員室に忘れてきた資料を取りに戻った、数分の間だった。
「これって鳴川さんの話やんな」
案の定、といえば案の定、山本さんが不機嫌な声を上げた。
一瞬、教室に緊張の糸が張った。すぐさまグループの一人が猫撫で声で続ける。
「ちゃんと病名あったんやぁ。私、仮病やと思ってた」
「でもさぁ、一人の病気のこと、わざわざこんな授業でするとかさぁ」
わざとに間延びした声。瞳を光らせる。
「贔屓やんなぁ」
「病気なんやから仕方ないやん」
学級委員長が咎めた。それが山本さんのプライドに火をつけた。
「出ましたいい子アピールぅ」
「うざいうざい」
「アピールじゃないし!」
高まっていく喧騒の中心で、小さくした体をさらに竦めるシオンがいた。石の仮面が限界を訴えている。そろそろ教室を飛びだすだろうか、と思ったネリノだったが、果敢にも、チャイムが鳴るまで耐え抜いた。
しかし給食の時間のことだった。合掌の合図の時になって、隣の席の生徒が手を挙げた。
「先生、鳴川さんがいません」
その時ネリノは配膳台に隠れて、アルミ鍋の底に残った豆料理をつまんでいる最中だった。
生徒の声におっ魂消て鍋から身を乗り出すと、確かに座席が空っぽだ。鍋ごとひっくり返りそうになりながら、ネリノは慌てて教室を飛び出した。
黒い鉄砲玉が窓の外へ飛んでいくのを、前列の数人が目の端で捉えた。
彼らは何度か目を瞬いて、気のせいか、と、自分を無理やり納得させた。
シオンは保健室にもいなかった。匂いを辿って後を追い、ようやくその姿を見つけたのは、博物館の前の公園だった。
雨模様が続いていた今週、久々の晴れの日だったからだろうか。平日の昼間だというのに、公園は相変わらず国際色豊かな人混みで賑わっている。
人混みから離れて、シオンは藤棚の下のベンチに座っていた。もちろん、上履きのまま。
ネリノはその膝に着地した。気づいたシオンがほんの少し微笑む。
情けない自分に心底嫌気が差しているような、その悔しさや哀しみの滲んだ微笑だった。
そのお腹がぐうっとなった。ネリノは小さく跳ねた。
ごはんごはん。
シオンも頷いて立ち上がった。ネリノはそのスカートのポケットに忍び込んだ。
プロムナードを歩き始めて少しすると、シオンの歩みが突然止まった。ネリノは顔を出して、彼女の視線を追ってみた。
観光客らしき数人の子供達が、四人がかりで仔鹿を追い回していた。顔の彫りも肌の色もシオンと同じような見た目だが、彼らが早口で捲し立てるのは馴染みのない言語だ。
仔鹿は折れそうに細い脚で、人混みの間を懸命に駆けている。そのおぼつかない足取りは、まだ産まれて数週間のものと見られた。
子供達は大声で騒ぎ立てながら、そんな仔鹿をしつこく追った。衝突しそうになった周囲の人々が驚いて身を躱す。
とうとう一人が正面に回り込んだ。逃げ場を失った仔鹿が怯えたように後ずさった。
シオンの顔がこわばった。仔鹿には決して触れてはいけないのだ。母鹿のネグレクトを誘発してしまうから。
人の匂いがついてしまうと、母鹿は子供を育てなくなる。そういう習性がある。けれども海外から来た彼らはそれを知らないのだろうか、今この瞬間にも仔鹿に飛びかかりそうな勢いだ。
少し離れた場所から、両親らしき大柄な男女が、げらげら笑いながらその様子を撮影している。
仔鹿が何か訴えるように、小さな頭を振りかぶった。周囲の大人たちはみんな、遠目で見て見ぬ振りだ。
たすけなきゃ。
シオンの切羽詰まった心がネリノに伝染した。
ネリノは辺りを見回した。スマートフォンを構えた母親、その肩から下げたバッグに目が止まった。思い立つなり、ネリノはそのバッグめがけて飛び込んだ。
ぎゃっと悲鳴が上がり、スマートフォンが音を立てて地面に落ちた。細長い何かを咥えてバッグから出たネリノは、すいっとシオンの元へ戻った。女性は丸々としたお尻を地面についたまま目を白黒させて、どこからか飛び出した黒い影を追った。
それから何が起こったか分からないうちに、公園内に爆発音が響き渡った。火花が爆ぜて、周囲はみなぎょっとしてこちらを見た。
「こらっ」
一番近くの売店から、エプロンを巻いたおじさんが物凄い形相で飛び出してきた。火花はシオンのすぐ近くで上がったのだ。そしてその足元に、役目を終えた火薬の破片が転がっていた。
誰から見ても、実行犯はシオン以外には考えられない状況だった。
おじさんの目を盗んで、ネリノはすいっとシオンのポケットに納まった。
「爆竹は禁止事項や。看板に書いてあるやろ!」
鬼の剣幕で叱りつける主人を、シオンは無言のままじっと見上げた。
それが挑発的な態度に見えたのだろう、余計に怒りを煽られた店主は顔を真っ赤にして、警察を呼ぶぞとまで言い始める。
「それは制服か? どこの学校の子や? 名前を言いなさい」
シオンは黙りこくったままだ。触らぬ神に、と、周囲の人だかりは波が引くように消えていった。その流れに紛れて、例の子供達も、その両親も、いつの間にか遠くへ立ち去っていた。
シオンがくどくどと説教を受ける傍ら、ネリノが辺りを見回した時には、仔鹿の姿はどこにも見当たらなかった。
うまく逃げられたみたいだ。ネリノは胸を撫で下ろした。
厚意は時として仇となる。しかしまた、忘れた頃になってから、思いもよらぬ形で返ってくる恩というのも、往々にして存在する。
この頃はまだ、ネリノもシオンも、露ほども知らなかったのである。