2-5. カンモクショウ
その日の教室は、とあるアイドルの結婚報道で持ちきりだった。シオンもナツメも、テレビに出ていれば観る程度の好意は抱いていたタレントだ。当然、ネリノも一緒に観ていたから知っていた。
以前から大のファンだったらしい女子生徒は、朝からずっと同じテンションで、同じ嘆きを繰り返していた。女子の大半が彼女に群がり、しきりに慰めている。
「私の五年間を返してよ」
「ほんまそれな」
シオンはその傍らで、黙って給食台の後片付けをしていた。今日は大の苦手の日直当番。出席しただけでも彼女にとっては大きな快挙である。
「だってさぁ、相手が悪いと思わん?」
「いや、見る目ないリンリンもどうかと思う」
「あんな匂わせしてさぁ。ファンが許すわけないやん」
周囲に集まった女子たちも、同情するように調子を合わせた。
ストラップから瞳を覗かせたネリノは、彼女たちの雑談に目を細めた。
人間の気持ちは分からない。彼らにだって人生がある。家族がある。特別な誰かと育みたい愛だって、当然あるはずだ。アイドルはアイドルである前に、人間でいてはいけないという法律でもあるんだろうか。
「なぁ、鳴川さんはどう思う?」
不意に一人がシオンに声をかけた。山本さんだ。
突然、多くの視線に晒されて、シオンの身はひどく硬直した。教室の隅の席で日誌を書いていた担任が、ちらりとこちらに視線をやった。
何も喋らないシオンを、女子生徒の群れは好奇心いっぱいに見つめていた。そこには菜穂の姿もあった。
彼女たちの頭上には、目には見えない嘲笑が大きな雲塊になって浮いているように、ネリノには映った。
やがて山本さんがゆっくり目を逸らした。
「無視されたわぁ、今日も」
ため息混じりの言葉で、シオンの顔にさっと赤みが刺した。グループは嫌な笑い声を上げながら、再び輪になって会話を再開した。
山本さんはクラスの女子を率いるトップである。このクラスになって数週間で既に、彼女には逆らえないという空気感が醸成されていた。
仲間はずれへの恐怖心を利用した上で、相手の帰属欲求を掌中に治める。そんな才能に長けた彼女は、今日も聞き分けの良い部下を付き従えて会話の中央に君臨していた。
しかしそんな女帝でも、『喋らない』という点で、シオンだけは自分の思い通りにできないでいた。それが面白くなかったのだろう、だから再び行動を仕掛けてきたのだ。
それは昼休みが終わる頃だった。彼女がシオンの隣にやってきた。
彼女が近づいてくる雰囲気に、シオンは早いうちから強張っていた。
「鳴川さん、こないだコンビニいたやろ」
山本さんの声で、周囲の生徒がこちらを振り向いた。彼女の声はよく通った。
「おばあちゃんみたいな人と、普通にしゃべってはってん。私見ちゃってん」
「えー嘘ぉ」
グループの一人が、少し離れた席から大袈裟な声を上げる。山本さんは大きく頷いてみせた。
「ほんまほんま。普通に声出してたもん。なぁ?」
とシオンの顔を覗き込んだ。気の強い瞳が、石になった彼女を貫いた。
「鳴川さんほんまは喋れるんやろ? 病気のフリしてるんやろ? なんで嘘つくん」
シオンはぱっと立ち上がった。山本さんはぴくりと体を起こし、遠くから見守っていた先生の表情に危機感が滲んだ。
でもシオンは何も発さなかった。立ち上がったまま、不細工に固まっている。山本さんが唇の端を持ち上げた。意地の悪い表情だった。
彼女がさらに畳み掛けようとした時、シオンはそれを遮るように走り出し、後ろの扉から飛び出した。山本さんは軽蔑の眼差しで彼女を見送った。
「ほーらまた。すぐ逃げ……きゃっ」
短い悲鳴が上がった。突然、旋風が巻き起こったのだ。黒い羽根が教室中を舞った。
山本さんをはじめ、周囲の女子たちはスカートや前髪を抑えてぎゅっと目を瞑った。
風が治まり、みんなが恐る恐る顔を上げた頃、シオンのランドセルの脇からは、あの黒いストラップは姿を消していた。
ネリノはひょいっと窓枠に飛び乗った。案の定、シオンは保健室に逃げ込んでいた。
カーテンを透かして中を覗くと、いつものベッドに潜り込んで、頭まですっぽりと布団を被っている。
彼女の居場所を確かめたネリノは、続いて校門の外へ飛んでいった。
数分後に戻ってきたその脚には、白い何かが掴まれていた。
再び窓枠に降り立つと、ネリノは内鍵を見つめて念を送った。ミルクティーベージュの瞳が一瞬、光源のように明るく輝いて、同時にガラスの向こうの鍵がくるりと回った。
嘴で器用に窓を開ける。それからシオンがいるカーテンめがけて飛び込んだ。
ちょんちょんと布団を突くと、布団がゆっくりと下がった。そこからシオンの泣き顔が覗いた。
すんっと鼻を啜って、ネリノをじっと見上げる。その視線が、真ん中の足に挟まったアイスに移った。
ネリノはアイスを枕元に落とした。近くのスーパーからくすねてきた……本人は分けてもらったという認識だ……ものだ。溶けた霜が枕カバーに沁みを作った。
いっしょにたべろ。
シオンはそろそろと体を起こした。汗ぐっしょりの容器を見つめて、
「……」
ほんの数ミリだけ笑った。
ネリノは傍に腰を下ろして、彼女の横顔を見上げた。シオンが涙を流すのを初めて見た。
悔しいと、恥ずかしいと、哀しい。ネリノが見つめた先の心の中では、そんな三つの感情が混ざり合って、複雑なマーブル模様を織り成していた。
喋らないんじゃなくて、喋れない。でもどうしても、それを理解してもらえない。わかりづらい症状ほど苦しいものは無い。
しばらくするとスリッパの音が近づいてきて、カーテンの向こうに人影が立った。
「鳴川さん、様子はどう?」
カーテンを開けた先生は、次の瞬間には口をつぐんで、その場に立ち尽くした。
保健室に戻ってくると、いつの間にか窓が開いて、床には黒々とした羽根が散らばっていたのだ。
足跡のように点々と散った羽根を辿ると、シオンの眠るベッドまでたどり着いた。
カーテンを開いた先では、ベッドの上に正座したシオンが……なんとアイスを食べていた。
いつの間に、どこから買ってきたのだろう。そして枕元には、真っ黒い真ん丸なストラップが転がっている。床に散らばった羽根と同じ黒色だ。
シオンは黙々とアイスを頬張る。静かに涙を零しながら。
先生の言葉は喉の奥で迷子になった。




