西都の副官
風なき炎天の白昼、溢れる汗と強い日差しによる熱は仕事の効率を著しく低下させる。
大抵の者がこの暑さに辟易し、仕事の意欲どころか、活動する意欲すら奪われていた。
それは羊笙も例外なく、むしろ人以上に、垂れてくる汗を絹製の上等な服の袖で拭いながら、終わる気配のない仕事の積まれた机に向かっていた。
十終われば十一の仕事が入ってくる。十一の仕事を終わらせれば十二の仕事が入ってくる。
そんな循環の元、また追加で届いたいくつかの書と文に、羊笙は軽く咳を鳴らしながら顔をしかめる。
仕事は嫌いじゃない。むしろ好きなまである。
しかし、この猛暑の中でやるのはいくら仕事好きでも骨が折れる。
どうせ半分以上がどうでもいい内容であろう。
しかしだからといって無下にできるものでもない。
ただでさえ人手不足で、そのうえ暑さで頭が回らないというのに、周りの人間は誰一人配慮すること無く羊笙に己がすべき仕事までも回してくる。
未だに昨日終わらなかった分がかさばって山になっていたというのに、さらに仕事が増えた。
今日は体調がいいからどうにかなっているが、体調が悪い日などは持病が顕著に現れ、呼吸もままならぬほどに咳が出る。
そのときは当然仕事どころではなくなる。
それといっても、仕事のおかげで忘れられるものもあって、結局仕事がないとなればないで困るのは羊笙だろう。
わがままな話だが、それが貿易の中心都市である西都の副官、羊笙である。
さて、羊笙が仕事をするうえで最初にやる作業は仕事の仕分けである。
新たに届いた仕事には急ぐべきものとそうでないものがある。
それを分ける作業はいちばん無駄な時間だと思うが、無心でできる故いちばん楽で好きな作業でもある。
急ぐ必要のない仕事は最悪明日でもいいし、本当にどうでもいいものはすっぽかしたって意外に分かるものでもない。
そうして残ったのはたった二つの書と文である。
羊笙は軽く背伸びして再び机に向かう。
一つは先日部下に頼んだ最近力を上げている盗賊についての調査結果だ。
非常に速い仕事だ。優秀な部下である。
それにかかる前に、もう一枚も手に取る。
それは領主からだった。
羊笙の直接的な上司に当たり、西都のみならず、西都の北に広がる草原や西に広がる砂漠も含めた広大な華欧州全域を治めている。
上に立つ者として尊敬はしているが、人間自体としては嫌いではないが尊敬はしていない。
たまに私情でとんでもないことを頼んでくるので困るのだ。
普遍的内容であることを祈り身構えつつ黙読し、羊笙は眉を潜めた。
「火浣布、だと?」
どうやら祈りは通じなかったらしい。
羊笙は呆れてため息をつく。
いつまでも子供のままの西都の領主は今日もまた困った話を持ってくる。
火浣布は、この国、蓉の南と西、華燕州と華欧州の境目となる火山帯に生息する神の使いである火鼠の毛を織ってつくった布のことだ。火鼠の皮衣ともいう。
火鼠の毛は絹よりもつややかでしなやかで、その毛でつくられる火浣布は上等で温かく、なにがすごいかというと、火に燃えず、汚れても炎にくべると雪のように真白になることだ。
しかしこの時期に皮衣など、暑さのあまり頭がおかしくなったとしか考えられない。
いや、この手の話は今日に始まったことじゃないが、今回は頭一つ抜けている。
火浣布はあまりにも有名な伝説で、当然そんなものは存在しないのだ。
領主とてそれは分かっているだろうに。
厄介な話だ。
いつもは当日に執務室に来て狩りに行こうと誘ってきたり、私に似合う服を今日中に仕立てろと言ってきたり、給仕が休みだからと客人相手に女の格好で給仕をしてくれと頼んできたり、それはまあ無茶ぶりばかりであるが、実現不可能ではなかった。
だからどうにかなった。
だが今回は違う。
明らかに実現不可能なのだ。
出来ることはなんとかやろうと思えばできるが、出来ないものはどんなに頑張ったところで出来ない。
燃えない布は用意できない。代品も見当がつかない。
無理だ。
そう解釈したのとほぼ同時に扉を叩く音がした。
「失礼します。羊笙さま、こちらの文が」
「ああ、ご苦労。そこに置いている紙たちは終わった仕事だ。持って行ってくれ」
「わかりました」
また仕事が増えたと苦笑しつつ、急ぎかも分からないのでとりあえず内容を確認し、羊笙は首を傾げた。
西都の話が、都で流行っているらしい。だが、西都で暮らす羊笙は聞いたことがない話であった。
「音繰、神の民というのは知っているか?」
「ええ、今街で流行っている噂でございますね」
音繰はそう当然のように答える。
なぜか腹が立ったが、仏頂面にならぬように表情筋に気を配る。
「どういう噂だ?」
「北の草原には神の加護を受け、多くの遊牧民を従える遊牧民の一族がおり、それが神の民と呼ばれているようです。その神の民の中心となるのが巫女といい、神の意志をこの世に顕現させることができるようです。流行っているのは、その巫女が起こしたとされる奇跡の話です」
「ほう。例えば」
「七色の炎を操る、十里も離れた地域の様子をあてる、未来を見る、雷雨を予想する、雷を任意の場所におとす・・・といった所業です」
それは興味深い。
確かに、神の民と語るだけある。
「緑の瞳を持つ美しい娘のようです。西欧の国の血でも混ざっているのでしょう」
貴方さまには敵わないでしょうがね、と音繰が付け足す。
羊笙はあえて突っ込まない。
「詳しいな」
「街にはよく行きますから」
羊笙はまた苛っとさせられた。
悟ったのか顔に出たのか、音繰は申し訳なさそうに身を引く。
それを横目に、羊笙はまたため息を吐きつつ神の民について思案する。
知らないと思っていたが、神の民という響きはどこかで聞いたことがあるような気もするが、どこで聞いたかは忘れてしまった。
文には、神の民が何者なのかを調べろとの趣旨が書かれていた。
目的は分からないが、それを知る必要はない。
懸念としては、神の加護を受けているという民を調べて罰が当たらないかというものだ。
火浣布といい、神の民といい、どいつもこいつも面倒な話を持ってくるものだ。
今日は厄日か何かなのかもしれない。
と、そこでふと、羊笙の中で何かが繋がる。
「音繰、巫女は神の奇跡を起こす神の使いだったな?」
「ええ、噂上ではその通りですが」
羊笙は一瞬、にまりと美しいながらに悪い笑みを浮かべた。
計略にたけた羊笙の勘がはたらいた。
音繰はそれを見逃さない。
思わず一歩後ずさる。
「音繰、神の民の巫女をこの場に連れてこい」
「・・・」
音繰も嫌な予感はしていたのだろうが、予想の斜め上を行ったに違いない。
いつも順々な奴だが、今回ばかりは、俺の話を聞いていたのか、という非難が感じられる。
よって、羊笙は激励の言葉を贈る。
「安心しろ。罰が当たるならそれは私も同じだ」
励ましにもなっていないが、これが今できる一番の激励だ。
そんなやる気を失わせる応援と励ましの言葉に、音繰は遠い目をした。
「音繰」
黙り込んだ音繰を、羊笙は深く微笑みながら見つめた。
音繰はため息交じりに優雅に頭を下げてみせた。
「―――御心のままに」
羊笙は満足げに頷くと、盗賊の件を含めたほかの仕事を終わらせるべく、乾いた墨がへばりついた硯に新しく墨を削り始めた。
引き続きの第二話でした。
楽しんで頂けましたでしょうか?
主要キャラの紹介話も終わったことですし、次回から本格的に話が進んでいく予定です。
よろしくお願いいたします。
追記:中国の1里は時代とともに変化し、平均して約500m~600mということで、それを基準に考えております