壊れる幻想
ハイミリテリオンの塔があるのはσ地区。 一際目立つ真っ白な塔と建物が立ち並ぶ施設は雨の中でも異様な雰囲気を放っていた。
ハイミリテリオンには様々な科が存在する。 技術局と呼ばれているが、この国のありとあらゆる行政を取り締まるのがハイミリテリオン技術局だった。 歴史は古く、ある時代の王が創り上げた技術者によるエリート組織。
南方に位置する塔には人に関する科が多く、特に人事科が一番大きな科だ。
西には警邏科と医療科が併設されている。 どちらも民間にも一般開放されていて、一番業務内容がハードで過酷だと言われている。 警邏と医療もコードを扱うが、どちらかというと戦闘技術や医学技術が重要視されている。
東には通信科が。 東の塔は小さめで、通信科のみが配置されている。 国民の悩みやハイミリテリオンに対するクレームを受け持つのが通信科で、ここに自らの希望で所属する者は少ない。
そして北に位置する塔が技術探索科と技術開発科。 コードを多く扱い、より良い使い方や良い技術を探求するのが両科の目標だ。
といった感じで、もっと他にも細々とした科が多数存在している。 そのため建物も大きく、主要な科が入る塔は圧倒される大きさだ。
そんな巨大な塔に向かう為イチイは先を急いでいた。 大きな塀を飛び越えて、建物の屋根に飛び移る。 探索の時に使用するフックショットを駆使して素早く走り抜け、探していた人物を見つけ出す。
塔を繋ぐ連絡通路、その全てが繋がっている広場にビャクシンの姿を見つけた。 隣には局長のグミがいる。 なにか二人で話をしているようだが、今は構いはしない。
大きな建物の屋上から助走をつけて飛び降り、フックショットを発射する。 狙い違わず、それはビャクシンのすぐ隣へ突き刺さった。
遠巻きだが、彼が針に気づいた様な素振りを見せた。 彼はワイヤーの先を視線でたどり、ワイヤーを掴んでグッと引っ張る。 イチイもその瞬間を狙ってワイヤーを巻いた。
風を切る音が耳に大きく響く。 雨粒がまるで針の様に刺さって痛い。 それでもイチイは堪えた。 こんな痛み、仲間の負った傷に比べたら。
数百メートル離れていたのに、ビャクシンの力もあったおかげかすぐにたどり着いた。 床に転がる様に着地をして、イチイは乱れた呼吸を整える。 半ば叩きつけられた様なもので、身体中が痛む。
この場所には天井が無いが、特殊なコードのおかげで雨は降り注いでこない。 ビャクシンは倒れているイチイを抱き起こそうとして手を伸ばすが、その手は彼女の身体を通り抜けた。
「……」
彼は常に虚像を使っている。 虚像は物質に触れることはできるのだが、生身の人間に触れることができなかった。 ビャクシンは拳を強く握りしめて、大きく息を吐き出す。
「……お前は無事だったか、イチイ」
「副、局長……! なにがあったのか、知って……」
「ああ。 局長とも今話していた。 やつらはヘイブ、言ってしまえば反国王派だな。 ハイミリテリオンとも敵対関係にある、先ほど奴らから勧告が来た」
ヘイブ、そんな名前を初めて聞いた。
一定数、姿を見せない国王陛下のことを疑っている連中がいるのは事実だった。 しかし彼らは愚痴を言うだけであって、まさか武力介入してくるとは思わなかった。
いつもよりビャクシンの声色が低く感じる。 彼も憤っているのだろう。 それが国王陛下への侮辱行為に対してか、探索科の技術者への仕打ちに対してなのかはわからないが。
隣にいたグミはイチイを抱き起こすと、髪や服の乱れを整えてくれた。
「奴らの狙いはお前だ、イチイ」
「……」
たしかに奴らは主任であるイチイを探していた。
「正確に言えば、お前の持つコードの【アクセスキー】を狙っている。 そのコードは使い捨てだがどんなものでも開けることができる、アクセスキーを使って地下の神殿をこじ開けたいらしい」
「神殿……?」
「廃施設の地下にあるらしいんだ。 ヘイブの連中が言ってたから、確かな情報だと思う。 だから彼らはあの場所にいた探索科の技術者を捕まえた、神殿に眠る古代のコードを奪わせない様に」
グミがそう言いつつアクセスキーを見た。 イチイはホルターに保管してあるアクセスキーのコードに触れた。 このコードもビャクシンから与えられた物だが、十年間の間に一度も使ったことがない。 使う様な場面に遭遇したこともない。
「アクセスキーを渡すな」
「でもこれが奴らの狙いならば!」
渡せば探索科の仲間達は助かるかもしれない。 だがビャクシンは首を振った。
「そのコードは使うべき場所がある。 それはこんな馬鹿げた時のために預けられたものではない」
預けられた、とビャクシンは言った。 どうにも気がかりだがイチイにとってビャクシンの言葉は従うべき事だ。 だが今回ばかりはその言葉に疑問を覚え、そして反抗心を抱いた。
「では……。 ではどうしろと? 仲間があんな目に遭って連れて行かれて……! このまま何もできないままですか?」
雨が更にひどくなった。 雷まで鳴り始める。
「みんなが、サザンカが……! 私はそれをただ、息を潜めて見てるだけで…………!」
「……イチイ、私は」
ビャクシンが何かを言おうとした時、グミの持っていた通信端末が鳴り響く。 彼女は素早く目を通すと険しい顔つきで頭を抱える。
「ビャクシン、ヘイブが来る。 君に交渉があると」
「通してくれ。 私が取り戻す」
取り戻すのはきっと探索科の技術者達のことだろう。 ビャクシンは自分の部下達のことを大事に思っている、イチイはそのことを知っていた。
グミは頷いて、塔へ戻っていく。 ビャクシンはイチイに背を向けた。 これはイチイを見放したわけでもなんでもない。 いつもと同じだ。
「イチイ、副局長室へ。 まだ歩けるだろう」
「……」
「歩みを止めるな。 そう教えたはずだ、お前はそれが出来る」
立ち上がる。 体は痛くてたまらないがなんとか踏ん張って、先を行くビャクシンの大きな背中を見つめる。
「……はい」
「副局長室でヘイブの連中と話す。 お前は透明化のコードを使って干渉をするな」
私一人で十分だ。 とビャクシンは吐き捨てる様に言った。 塔の中に入り、副局長室の扉を開く。 探索科のある塔は一番遠くに位置する。 ヘイブの人間達がここへ来るまでまだ時間はあるはずだ。 ビャクシンは棚の中から厚手のタオルを取り出してイチイへ投げ渡す。
雨でびしょ濡れになった服を、これで拭けと言いたいのだろう。
「着替える時間はない。 手短に話すが」
彼は本棚の奥から一冊のアルバムを引き抜いた。 パラパラとページを捲って、一枚の写真を開いて机の上に置いた。 濡れた身体を拭きながらイチイがその写真を覗くと、そこにはビャクシンと二人の技術者が写っている。 恐らくビャクシンはまだ十代の頃だろう。 今よりも身体が薄く、まだ鍛えてもなさそうだ。 彼は技術者だが戦闘もこなす。 警邏科からの頼みで特別指導をする事も多い。 そのため屈強な体つきをしていて、イチイなど片手で首を折ることができるだろう。
イチイが驚いたのはビャクシンの昔の姿ではなく、その隣にいる二人の技術者のことだった。 恐らくビャクシンの上司になるのであろうその男女は見覚えがある。
「私に技術者としての知識を教えてくれた上司、そしてお前の両親だ」
「お父さんとお母さんのことを知っていたんですか?」
イチイの両親は既に亡くなっている。
死因は事故死。 国が守護機械として使っていた大百足が暴走し、それを止めるために命を落とした。 亡くなったのはイチイが七歳の頃だ。
両親が死んだ様を直接見たわけではないが、以来イチイはムカデが苦手になった。 この大百足は合計で五十人の技術者を殺戮し、機能を停止させたらしい。 その後どうなったのかは、国民には開示されていない。
「良い上司だった。 私がハイミリテリオンに所属したのは十二の頃だが、若造の私に全てを教えてくれた。 お前はその頃はまだ一歳だったな。 何度か会ったことはあるが、覚えてなどいないだろう」
「副局長とですか?! すみません、全く記憶に……」
「そうか、薄情なやつだな。 せがまれて抱っこまでしたというのに。 お守りまでした」
「え?!」
「冗談だ。 流石に一歳の頃の記憶を覚えているわけがない」
ビャクシンはアルバムを閉じる。 チラリと時計を見て、そしてイチイの腰にあるホルターを指差した。 勘付いたイチイはアクセスキーのコードを取り出して差し出す。
「そのコードはお前の父から私が預かったものだ」
「副局長は、どうしてそれを私に?」
「…………」
ビャクシンは押し黙ってしまった。 アクセスキーのコードを懐かしむように見た後、またすぐにイチイへ返す。 その時の彼の顔が、微笑んでいるように見えて哀しそうで、イチイはなんとも言えない気持ちになってしまう。 両親のことで覚えていることは殆ど無い。 いつも仕事に明け暮れていて、幼いイチイを家に取り残していることが多かった。
彼が先程「お守りまでした」と言ったが、きっと一人きりになったイチイを、若い頃のビャクシンが見守ってくれていたこともあったのだろう。 全く覚えていないが、苦労をかけたに違いない。 技術者としてハイミリテリオンに入ったのに、上司の子供の監視など。 可哀相にも程がある。
「透明化のコードを使え。 一切音も立てるな、干渉もするな。 隠れていろ」
「……わかりました」
色々と聞きたいことがあるが。 言われたことには従う。 イチイはアクセスキーのコードを厳重に保管して、透明化のコードを発動させた。 イチイの姿が見えなくなってもビャクシンにはどこにいるかわかるようで、本棚の隣を指差した。 そこには中型の観葉植物があって少し陰になっている。 恐らくそこに潜んでおけということだろう。 イチイがその場所に膝をついた時、扉が開いた。
武装をした男が三人入ってくる。 交渉と言っていたがその気はまるでないらしい。 ガタガタと荒々しく物音を立てながら入ってきた彼らは、銃口をビャクシンへ向ける。
「お前が京ビャクシンか。 答えろ、太刀原イチイをどこに隠した」
しかし彼は一切動じず、鋭い切れ長の瞳を三人の男へ向けた。 金色の瞳が冷徹に相手を見定める。
「答えたとして、太刀原をどうするつもりだ?」
「奴の持っているアクセスキーは特別だ。 あのアクセスキーは【古代のコード】の一つ。 神が創りし神秘のうちの一つ」
「そんなもの欲しさに、私の部下達を捕らえたのか」
「部下? なんだ、意外と仲間に情があるんだな」
「彼らをどこへ連れて行った」
「おい、今俺達がお前に……」
答える気のなさそうな男達に、ビャクシンは腹を立てている。 ただでさえ探索科の技術者達を痛めつけて捕らえたのだから、その怒りも深いはずだ。 彼の虚像が力強く机を拳で叩いた。 辺りが振動でビシビシと音を立てて揺れて、机は木っ端微塵に破壊される。
イチイは唖然とした表情でビャクシンを見た。 彼が本気で怒ると、手や足が出て怖いと噂に聞いていたが、まさか素手で家具を壊すとは。 しかもこれは虚像。 本体ならばきっとこれ以上の力がある。
ビャクシンが椅子から立ち上がりゆっくりと足を踏み出す。 ただの木の板になってしまっていた机を、さらに足で粉砕した。
「立場を間違えるな。 今、私が貴様に質問をしている。 答えろ、私の部下をどこへ連れて行った」
彼の低い声はまるで地獄を這うかの様に、相手を恐怖へ陥れる。
「い、一緒にいる! 俺達のトラックに捕らえている」
気迫に押されたのか、一人の男が悲鳴を上げるように答えた。 ビャクシンは男達の目の前まで歩みを進めながら、いつものように低い感情のこもっていない声で続ける。
「太刀原には任務を任せていた、それは国王陛下からの任務。 つまり王命だ。 お前達はそれを妨害した、王に叛いた愚か者共」
「な、何が国王陛下だ! いるかどうかもわからないような奴が!」
「そうだ、国王陛下もお前も似たようなものだな。 怖いからその虚像を使っている、紛い者が!」
男は声を上げて笑いながら何かを取り出した。 それを見てイチイは大きく目を見開いた。 ビャクシンはハッと声を詰まらせる。
黒い柄と金の装飾が美しい剣だが、刀身が真ん中で綺麗に折れて砕けてしまっている。 柄には血が付着していて、それを使っていた者が大きな怪我を負っている事が分かった。 その剣はサザンカの愛剣だ。
「この男、随分仲間思いだったぜ! 自分はどうなってもいいから、他の部下に手を出すなってキャンキャン吠えやがった! きっとあの場にいた太刀原イチイを逃したのもこの男だ!」
「太刀原イチイもよく逃げ出したものだ、仲間が苦しんで怪我をしてるのに、のうのうと一人で逃げた! 不出来な部下を持つと大変だなぁ、京ビャクシン!」
イチイにとってサザンカは部下でもあるが、苦楽を共にした同期のような存在だ。 彼は誰に対しても深い愛を持って接し、皆に平等に礼儀正しい態度を取る。 非の打ち所がない男だった。 そんな彼を目の前で侮辱されて、視界が歪む。 これは怒りと涙のせいだ。 イチイが透明化のコードを解こうとした時。
「黙れ!」
空気が震える程の怒号を、ビャクシンが放った。
「この私の前で、部下達を、愚弄したな……」
イチイが怒るように、彼も怒りの限界を迎えるのは無理もない。 ビャクシンは男の持っていた剣を奪い取った。 折れた剣だが、彼はこれでも十分戦える。 彼が剣を一振りすると、空気がピッと割れる感覚がして、一人の男が持っていた銃が真っ二つに斬れた。
「手加減を出来る自信はない」
「こ、こいつ……!」
三人対一人だというのに、ビャクシンは一切負ける様子がなかった。 銃弾を剣で弾き、剣を振るう風圧だけで圧倒する。 生身に触れられない虚像だというのに。
「くっ、おい! アレを使え!」
勝ち目がないと悟った男が叫ぶ。 黒色の拳銃を取り出した一人が銃口をビャクシンに向けた。 手榴弾か何かだと思っていたイチイは拍子抜けするが、発動させたままだった分析のコードが耳元で警告音を鳴らした。 スリープモードにしていたはずなのに、一気に画面が空中に現れてしまう。 赤く点滅した画面を見て、イチイは一瞬で血の気が引いた。
ここに居るとバレてしまってもいい。 彼女は弾かれたように立ち上がり、間に割って入る。 立った際にリーダーが鉢植えに当たった衝撃で、透明化のコードが外れてしまった。
「イチイ───」
イチイの姿を見たビャクシンが彼女を下がらせようと手を伸ばしたが、その手は虚しくも、身体をすり抜けた。
銃声が響いた。 銃弾はイチイの肩を撃ち抜いて、彼女はその場に倒れる。
「イチイ!」
彼はイチイを抱き上げる事も何もできない。 足元に転がる弾を見てビャクシンは全てを理解した。 あの男達が撃ったのは粒子性のジャミング弾だ。 機械や映像の動きを止めてしまう物。 ビャクシンの虚像にこれを撃ち込まれていたら、彼の虚像は消えてしまう。
ビャクシンは虚像に独自の技術を使って、自らの意思を埋め込んでいる。 虚像を消す際にはこのシステムを前もって手順を踏んでダウンさせなければ、彼の意思は虚像に取り残されたままになってしまう。
つまりこのジャミング弾を撃たれてしまえば、彼は強制的に虚像を失い、そして意思も消されてしまう。 それを知っていたイチイは彼を庇った。 生身の人間がジャミング弾を撃たれても、三十分ほど視界を失うだけで済む。
声をかけてもイチイは目を覚さなかった。 ビャクシンは大きく深く、息を吐き出す。 自分の理性を繋ぎ止める様にしていたが、もう限界だった。
「ふん、都合がいい。 おい、太刀原イチイを回収しろ」
男はもう一度銃を撃った。 今度こそビャクシンの虚像が消失してしまう。 転がった剣を足で蹴り飛ばし、気を失ったイチイに手を伸ばそうとして───。
バンッ! と鈍い音が聞こえて来た。 本棚の近くにあった、隣に繋がる木製の扉が弾け飛んで行く。 扉は壁にぶち当たってバキバキに割れ、壁も衝撃を受けて崩れ去っていく。 男達が咄嗟に銃を構えるが、彼らは現れた姿に驚きを隠せない。 隣の部屋から出て来たのは、先ほど消えたはずのビャクシンだ。
「お、お前……! なんだ、その、それは……!」
彼は力強く足を踏み出した。 ゴツゴツと重たい足音が響く。 確かな重量を持ったその音で、今の彼は紛れもない本物だと十分に分かった。 そして彼の、虚像とは異なるあるモノ。
「貴様らがジャミング弾を使ってくれて助かった。 イチイを傷付けたのには心底腹が立つが、何があってもこの姿を彼女に見せたくない」
ビャクシンには、異質な尻尾が生えていた。 機械で出来た巨大な尻尾。 それはまるでムカデのように節があり、鋭い刃がいくつも付いている。 赤く輝くラインは血液のように流れていて、尻尾が動くたびに機械の重い音が、威嚇するかのように聞こえてくる。
彼が戦闘においても優秀だったのは、この尻尾のせいだ。 国が守護機械として保有していた大百足、それと全く同じ尻尾を持つ。
「選べ、二つに一つだ。 投降し、城の牢で王に対する不敬を一生をかけて償う。 私の刃で切り裂かれ、毒を食らい、苦しみながら死ぬ」
彼は機械の尻尾を床に叩きつけた。 激しい地鳴りがして、男達はその場に膝をついて倒れる。
「投降、する……」
「頭は多少良いようだな。 ……局長、いるんだろう。 連れて行け」
ビャクシンはグミに後始末を丸投げして、気を失っているイチイを今度こそ抱き起こした。 彼女に初めて触れた、それがまさかこんな形になるとは思わなかった。 初めて会って挨拶をした時も、自分は虚像で握手など出来なかった。
「いや、初めてではないか……。 あれを一回にカウントしていいのか疑問だが」
彼女が赤ん坊だった時のことを思い出した。 朧げとしか覚えていない記憶だが、あの時の彼女は温かくて、確か大泣きしていた。
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『ビャクシン! そうじゃない、もっとしっかり抱かないと!』
『なぜ僕に二人の赤子を抱かせるんですか、もし落としたら死にますよ』
『落とすものですか! 貴方はそういう子よ!』
かつての上司は自由奔放だった。 ビャクシンも珍しくかなり苦労させられたが、自分はこの上司に愛されていた自信がある。 そして自分も同じようにこの上司二人を愛していて、尊敬していた。
『名前はイチイっていうの。 この子が生まれた時に、庭に綺麗なイチイの実が生ってたから』
『そうですか。 なぜ僕にそれを?』
『相変わらず無愛想だなあ! 決まってるだろ、お前はオレ達にとって、大事な部下であり家族みたいなものだ!』
ビャクシンはこの頃から一人で生きてきた。 それを上司二人は気にしていて、自宅に招かれて食事をとることが多かった。
『イチイはまだ一歳、貴方は十二歳。 歳は離れてるけど、良かったらこの子の良いお兄さんになってあげて』
『僕が? 無理です』
『ううん貴方なら大丈夫』
女性の上司はいつもこう言ってくる。 貴方なら大丈夫よ、と。 その言葉は自然と、いつも受け入れることが出来た。
『善処します』
二人の上司は優秀で忙しくしていた。 どうしても変わることのできない出張などがあると、二週間戻ってこないのがザラだった。 赤子の世話はシッターに頼んでいるから問題はなかったが、ビャクシンは休憩時間や業務が終わった後に、二人の自宅へ向かう。
渡されていた合鍵を使って自宅へ入って、夜はシッターに変わりそこで過ごす。 シッターがおらずとも、夜間は機械人形が赤子の世話をしてくれているが、上司がいない間は必ず赤子の側にいた。
きっとそれが、兄のすべき事だと思ったからだ。
イチイはあまり泣くこともせず、大人しい。 最初こそビャクシンを見ると大泣きしていたが、側にいる時間が増えると懐いてくれた。
ビャクシンはイチイの小さな手を握ると、いつも何かに誓う様に言う。
『大丈夫。 貴女を守る』
イチイの手はいつも、温かい。
∮
でも今は違う。 泣きもしていないし、かと言って笑ってもいない。 雨に打たれたせいで、身体も冷え切ったままだ。 手は冷たい。
自分は馬鹿だ、守るとあれほど誓ったはずなのに。
「……お前は強い。 私は、強くなれない。 貴女を守れない」
イチイを抱きかかえ、彼は副局長室を出て行った。